英語のたくらみ、フランス語のたわむれ、斎藤兆史、野崎歓、東京大学出版会、2004


気鋭の英仏文学者による語学、翻訳、文学をめぐる対談。機知に富んだ書名にあわせて書評の題名を考えてみようとしたけれども、内容がもりだくさんで一言で言い当てる言葉がなかなか思いつかない。

第一章では、驚異的な語学の達人の逸話に舌をまく。ただし話題は東大駒場を中心にしているため、「駒場のよもやま」という感じ。

第二章は「語学のおくゆき」。二人は一致して、語学をコミュニケーションの道具とだけみる最近の流行に反対する。言葉は、もっと奥深く、幅広い。深さや広さを感じないあいさつ程度の語学ではいつまでたっても他者を理解するところまで至らない。この意見には共感できる。

第三章以降は、「翻訳のたのしみ、文学のよろこび」。ここではコミュニケーションのための言葉の奥にある、他者を理解するための言葉、すなわち文学へと話がすすむ。


二人は、完全なバイリンガルはほとんどいないという一方で、語学力を高めるためにはまず母語力を高めるべきと口をそろえる。では、母語とは何か。日本語という英語やフランス語からすっきり分けられた言語があるのではない。完全なバイリンガルがいないように、完全なユニリンガルもいない

そこを押さえておかないと「まず、『国語』から学ばなければ」という結論になってしまう。日本語を学んでからでないと他の言葉が学べないわけではない。日本語を学びながらでもほかの言葉を学ぶことはできる。いや、母語であっても言葉はずっと学び続けるもの。

大切なことは日本語でも他の言葉でも、言葉に対する感性を磨き続けること、感性を支える感受性を育むこと、そして、他者の存在を感じようと努めること。なぜなら言葉は他者と交流するためにあるものだから。

母語以外の言葉を学ぶのは他者を知るため、といっても自分と違う言葉を使うから他者なのではない。自分と同じような言葉を使っていても、自分と同じ考えではないかもしれないし、同じ表現をするわけでもない。同じ原典も、人により時代により翻訳は変わる。

遠い人が意外と似ていたり、近くにいても違っていたり。翻訳と文学は、遠い仲間を知らせ、また身近な他者も教える。二人の対話は、そんな結論に近づいていく。


元は対談ではあるけれど、雰囲気を残しながら大幅に加筆されているという。異なる興味を持つ他者と向き合う穏やかな対話は、英語とフランス語への招待であると同時によくできた日本語の会話表現、文章表現として読むこともできる。

そこで私の読後感を一言にまとめれば、「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」は「日本語のよりみち」「母語のまわりみち」となる。