理想の国語教科書、齋藤孝、文芸春秋社、2002


齋藤の主張で頼もしく思うのは、子どもを子ども扱いしないところである。日本語文化では「女子ども」という言葉に象徴されるように、女性や子どもは埒外に置かれることが少なくない。まるで「ほんもの」は理解することができないかのように扱われ、「子ども騙し」の玩具ばかり与えられる。

文学にしろ、音楽にしろ、芸術すべて、いや食や服飾も含めて生活のあらゆる分野で、「ほんもの」には出来るだけ早くから接する機会を与えたい(もちろん経済的、物理的な制約は無視できないとしても)。子どもにはそれを理解する力が備わっていると齋藤はいう。この意見は傾聴に値する。

とはいえ、読み進んでいくと何か引っかかるものがある。本人は否定しているものの、齋藤は排他的なナショナリズムを助長するとの批判をいわゆる反・自由主義史観にたつ文化人(左翼系というとあまりにも漠然とした感があるので、ひとまずこう呼ぶ)から浴びている。実際、自由主義史観、ないしは愛国心を鼓舞したい人たちからは賞賛をもって受け入れられているところを見ると、やはり齋藤の主張にナショナルな精神をかきたてるものがあるのだろう。それは何か、考えてみたい。


「理想の国語教科書」と銘打たれた本書を読んで率直に感じる疑問。国語科とは一体何を教える教科なのか。私の理解では、言葉には三つの側面がある。第一に意志や情報を伝達する道具性、第二に言語表現そのものがもつ芸術性、そして第三に、精神や心理を表現する象徴性。これら諸特性は揃って言語を支えている。

結論から書くと、齋藤が「国語」というとき、第一の道具性はほとんど無視されていて、より強い力点が第二の芸術性と第三の象徴性に置かれている。さらに第二、第三のあいだでは、第三の象徴性にもっぱら焦点があてられており、しかも象徴性それじたいではなく、象徴される精神に対して強い関心が向いている。ここに問題があるように思われる。

言葉を使う第一の目的は、意志や情報を伝達するためである。齋藤だけでなく従来の国語教育はこの言語のもっとも重要なこの実用性という側面を軽視してきたように感じる。国語の「アガリ」は小林秀雄を読解できるようになることだと齋藤は述べているが、文章は文学的表現ばかりではない。

むしろ日常生活では文学性に欠如した表現に溢れており、それをどう解読することで人生が大きく変わることすらある。小林秀雄を理解できるより、生命保険や雇用の契約書、通信販売のクーリングオフなどをきちんと理解できることのほうが、生活にとってははるかに有益だろう。


もし言葉のなかで文学的表現に重きを置くのであれば、言葉の上達に終わりもなければ、「アガリ」もないはず。表現は本来、優劣では判断できない。

第二の芸術性は、言葉それじたいが美しさや面白さを表すこと。具体例は何と言っても詩。谷川俊太郎「ことばあそび」などは、表された意味よりも韻文の面白さを楽しむ詩といえる。駄洒落や漢字の語呂遊びなどもこれに入る。

もっとも極端な例はハナモゲラ語とタモリの四ヶ国語麻雀だろう。ここまでくると言語というより、人間の発生する音声の面白さといったほうがいいかもしれない。つまり、この点における言語の美しさ、楽しさは、究極的には日本語か、外国語かということが問題なのではない。意味がわからなくても外国語の歌が心地よく響くこともある。

そして第三の象徴性。言語表現、とりわけ文学作品はさまざまな人間心理の機微を表現している。それを読み取ることが国語学習だというのが齋藤の立場である。例えば齋藤は「走れメロス」を挙げて、そこから友情が学ぶことができるという。

齋藤は、友情を実体験するまえに言葉でそのあるべき姿を知っておくことが大切と考えている。その意見には一理ありそうだけれど、よく考えると、「子どもは大人が思うほど理解力がないわけではない」という齋藤のもう一つの主張と矛盾してはいないだろうか。


確かに、学年が進むにつれて、子どもたちをとりまく人間関係は複雑化する。そうしたなかで真の友情というべきものを、各人が見出す努力をするのだろう。そのとき、文学も一つの手助けになるに違いない。しかし一番頼りになるのは、あるいは頼りとせざるをえないのは、それまで築いてきた人間関係の実体験、すなわち経験ではないだろうか。

人との関わりを一切もたない人は「走れメロス」は読む必要がないし、理解することもできない。ささやかであっても友人関係をもったことのある人だからこそ、文学に描かれた友情の美しさが理解されるのではないだろうか。

そして、そうした行間や表現の奥底ににある象徴性は、ともかく第一の技術としての言語に対する能力を十分獲得していなければ、理解することは出来ないのではないだろうか。齋藤は、小学生でも難解だといわれる小林秀雄の文章を理解できると述べる。それは、その小学生は日本語ができるから。


どんなに知的な人でも、日本語の能力が初歩であれば小林秀雄どころか桃太郎も理解することはできない。逆もまた真なり。齋藤はパスカルを訳文で引用する。和文のパスカルを理解できる人でも、フランス語の知識がなければ原文を理解することはできない。フランス語ができる人であれば、どこの国の人間であろうとパスカルの原文を読むことができる。もちろん理解するかどうか、内容をどう解釈するかは、別の問題。これは単純な真理。

にもかかわらず、齋藤は技術としての言語ではなく、象徴としての言語に注目し、しかも象徴される内容を教育しようとする。つまり、「走れメロス」を通じて友情を教えようとする。あるいは『パンセ』からパスカルの思想を教えようとする。

それでは、国語科は友情を教えることができるのか、それを教えることが国語科の目的なのか。こうした主張を齋藤がするとすれば、他の教科も黙ってはいまい。体育もチームワークから友情を育てる、社会科にしても世の中の仕組みから人間関係を学ぶ、理科にしろ算数にしろ、自然とのつながりまでをも教えてくれると言い出すに違いない。いや、子どもは遊びや暮らしの中で友情や人間とのつながりを日々学んでいるはず。


問題は、国語科という科目を通じて、経験を内面的に再構築する援助だけでなく、経験に先取りしてその意味を伝えたり、経験そのものを授業のなかで教えられたりできると信じるところにある。教育とは本来、子どもという樹木が伸びていくように水をやることであって、無理やりに枝を引っ張ることではないはずである。齋藤自身、すべて子どもには伸びていく力があると信じているのだから。

さらに重要なこととして、国語科で経験の中味まで教えるとなれば、それは教員の経験と技量にかなり依存することになる。それを統一するのは誰か。公教育であれば統括している国家ということにならざるをえない。つまり国家の考えるあるべき友情が教えられることになってしまう。この点こそ、齋藤の意図にかかわらず、急進的な国家主義に利用されかねない急所。

「国語教育あって言語教育なし」という言葉を聞いたことがある。従来、日本国での国語教育は、言語の芸術性や象徴性にばかり注意が向き、国語によって表現される精神を教えることに主眼がおかれてきた。その結果、実務的な文章表現やプレゼンテーションの方法、法律文書の読み方について何の教育も受けてこなかったために、多くの人が社会に出てから苦しんでいる。

合衆国民はそういう力に長けているというよく言われる。それは英語が論理的な言語であるからだという通説があるけれども、単にそうした訓練を受けたかどうかの違いではないか、本質的な議論をする段階ではまだないように思われる。


初めに戻る。言語には三つの側面があり、優劣なくそれぞれ言語には不可欠な特徴である。裏を返せば、このいずれかを強調することで言語は、生き生きとした活動の場を持つ。法律の言葉は芸術性を排除するからこそ機能する。堅苦しい言葉でないからこそ、昔話はなごやかな雰囲気を生み出す。そうした諸要素をすべて盛り込んで言語全体は成り立っている。

だから、言語教育でこのバランスが崩れると言葉は言葉らしさを失う。その顕著な例が悪名高い日本国の英語教育。言語を意志伝達の道具としてだけとらえ、しかもその伝達方法を読むことだけに絞ってきた結果、国民は国際競争社会の下、低英語力にあえいでいる。

最近では技術に傾斜していた反動として、学校英語では国際理解が主眼となりつつあるらしい。しかし、学校で国際理解を深める経験の場を設けることはできるとしても、友情同様に、その経験の意味まで教えることはできないし、してはならない。


言語は、単語だけで成り立っているのではない。抽象的な概念を思い浮かべるとわかりやすい。「悲しみ」という「モノ」を指すために、「悲しい」という言葉があるのではない。ある経験を表現するために「悲しい」という言葉を使う。そうするのは、誰かにその経験した気持ちを伝えたいから。言葉にならない気持ちに「悲しい」と名づけたとき、はじめて気持ちは「悲しみ」と呼べる「モノ」になる。

齋藤が本書を通じて伝えたいことは、まさに言葉は「伝える」ものだということだろう。言葉が伝えるものは、「青は進め」という明快な事実から、理想の友情というある種の思想、さらにはもやもやとしたつかみどころのない気持ちまで幅広く、奥深くある。

伝えたい気持ち、伝えたいもやもやなどを作り出すのは、国語能力というより、それ以前の言語能力の、さらに手前にある感受能力。何かを経験して、それをそのまま表現したい、そのことを誰かに思い通りに伝えたい。言語を使うためは、経験に対する感受性と他者が存在するという認識を必ず必要とする。

その二つの能力は、人間に生まれながらに備わっているのだとしても、いったいどこで伸ばすことができるのだろうか。家庭、学校、地域、いずれにもその機能があり、責任もあるだろう。けっして、学校だけではないはず

だから、感受能力が学校以外の場所で充分に育まれているならば、学校の国語科は友情そのものではなく、友情について書かれた文章を読む技術を教えることに、もっと専念できるのではないだろうか。


碧岡烏兎