学校について言葉の使い方ではなく、意味内容を優先して教える国語科のあり方は間違っていると思う。その一方で、学校教育で愛国心を教えたり、評価したりすることの是非を議論することを批判し、愛国心の内実こそ議論の対象にすべきだ、とも思う。この二つの主張は矛盾しているかもしれない。でも、この矛盾は私の考えの矛盾というより、学校教育がもつ根本的な矛盾であるように思われてならない。 教えるというとき、国語科に限らず、技法だけを教えるということはできない。技法と思想は表裏一体であって、何かを教えようとすれば、必ず何かが伝わる。もちろん、それは教えるものが意図したとおりの内容で伝わるとは限らない。 また、伝えたつもりの内容からではなく、伝えたときの言葉遣い、表情、その場の雰囲気などからも、意図せぬものが伝わることがある。しかもその受け止め方にも、そのときの体調、気分などによっていくらでも変わる。 悲惨な戦争を伝える授業で、軍艦の勇姿に見とれてしまうこともあれば、教員が必死に訴えている表情と、お腹がすいていたことが、滑稽なほど混ぜこぜに記憶されることもある。軍国主義を教えても軍国主義が根付くわけではない。むしろそれを根付かせるのは、授業以外の社会的制約だろう。 学校はどんなに親しげで、開放的で、ゆとりがあるように見えても、評価からは逃れることができない。学校が学校である以上、評価はつきまとう。絶対評価であろうと、相対評価であろうと、教員の主観的な評価であることに変わらない。 学区内の公立小学校から中学校へは、成績とともに人物評価を含めた「申し送り」という文書が伝達されていると聞いたことがある。中学校ではそれをもとに学級委員など学級運営を補助するリーダー格の生徒を選び出す、そう聞いたことがある。 つまり、中学校入学は新しい門出などではない。すでに植えつけられた評価のうえに始まる。「申し送り」を廃止したところで、有形無形の情報伝達は残るに違いない。「札付きのワル」などという噂は、矢のように伝わる。 教員とは仲の良い友達でもなければ、ただの助言者でもない。評価を下す権力者。そういう認識を、教える方も教えられる方も、もっと自覚すべきではないか。そのうえで、その評価を社会全体のなかで相対化する、つまり「たかが学校での評価じゃないか」といえるようになればいいと思う。 こうした提言は、すでに多くの人たちが行っている。差別と競争に溺れ、学校が社会化している現在、誤解を恐れず逆説的な表現をすれば、社会全体を学校化するしかないのではないか。どこへ行っても競争がある反面、どこへ行っても学習ができる。学習も少しずつ、競争も評価も少しずつ。 そうすれば、一つの場所での評価が全体に影響しない。「学校の多元化」といってもいいかもしれない。学校をどんなに改善したところで、学校そのものを相対化するのでない限り、本質的な悪弊が薄まることはないだろう。 学校英語で、「学校へ行く」に冠詞はいらないと教わった。教会や学校は、必ず行くもので、しかも行く場所は一人にとって一つしかないから。 学校を多元化するということは、“I go to "a" school”が正しい言い方になること。 |
碧岡烏兎
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