大桟橋から


夏の終わりの金曜日、めずしく横浜で用事ができて午後から出かけた。仕事が終わり、すぐに帰ってしまうのももったいなくて、どこかへ寄り道したくなってきた。クルマを展示場から港に向けて、大桟橋に行ってみた。

小雨模様の夕方。あいにくの天気だけれども、それもまた一人の散歩には悪くない。雨は、思索を感傷から瞑想に傾けていく

大桟橋へ来るのは、かなり久しぶり。ひょっとすると、前に来たのは十年以上前かもしれない。この街に、――といっても中心からはずっと離れていたけれど――、住んでいた頃は、ときどきこのあたりを歩くことがあった。

大桟橋が大改装されたことは知っていた。一面が板張りになり、花壇もある。桟橋全体が公園になったよう。以前は、貨物用と変わらないほど味気ないコンクリートの埠頭だった。ウッドデッキは雨に濡れて滑りやすい。静かに歩く。歩きながら以前来た日のことを、ゆっくり思い出してみる。

古ぼけた埠頭の頃には何度も来たことがある。前の日本丸が最後の航海に出る姿を見送った。ブラスバンドがにぎやかに演奏していた。砕氷船しらせも見た。そのときは自衛隊に誘われた。上海航路の定期船、鑑真号を見たこともある。


金曜日の夕方とはいえ、人気はほとんどない。二人連れがちらほら。ひとり、桟橋の先端まで歩くと、不思議な光景が広がる。右側が暗く、左側が明るい。

右には、昭和時代の豪華客船氷川丸、関東大震災の瓦礫を集めて作った山下公園、開港百周年を記念して建てられたマリンタワー。どれもその時代の最先端だったはず。いまでは夕闇に沈んでいる。コンテナが積み上げられた貨物埠頭でオレンジ色の灯りだけが海を照らしている。

左には、私がこの街を離れてから埋め立てられた新しい街並み。超高層ビル、大きな観覧車、復興された赤レンガ倉庫。どれも私がこの街を離れてからできたもの。街の灯りがまぶしく、陽は暮れているというのに空は真っ白。

大桟橋の突端から眺めていると、二元論の世界が真実に思われる。古いものと新しいもの、暗いものと明るいもの。悪いものと善いもの、そして、死んでいる者と生きている者。これほど鮮やかに風景を見せられたことはない。

では、二元論は正しい世界の把握だろうか。思想史は、常に二元論に抵抗してきたのではなかったか。私自身はどうだろう。世界が二元論的であるとすれば、その中で私はどこにいるのか。


中庸ということが、考え方や生き方の理想として言われることがある。按配、あるいは塩梅、あるいはバランスや均衡、エキリーブルという言葉も使われる。私自身も使うことがある。しかし、中庸やバランスとはどういうことか、言葉で言うほど簡単ではない。

バランスとは、やじろべえのこと。両極が有限だからバランスがとれる。

ずっと昔、数学で教わったことを覚えている。中点は線分にのみある。直線は両端が無限に続いている。便宜的に見える部分を限っていても、ほんとはずっと延びている。とすれば、直線に中点はない。

直線と球面は似ている。どちらにも端がない。球面にも中心はない。

バランスとか中庸とか言うけれども、生き方や考え方は直線や球のようなものではないか。無限に広がる間を激しく往復したり、同じ面と思って球体の表面をずるずると滑りまわったりしているだけではないか。

こんなところで中庸、中点、バランスをいうことに何の意味があるのか。

生き方を球になぞらえることができるとすれば、生命は月に似ている。明るいところは満ちたり欠けたりするけれども、なくなっているわけではない。影は、闇の淵ではない。隠れているだけ。見えていないだけ。

月の裏側を見ることはできない。無限の欲望と無限の絶望が、死という生命の裏面でつながっている。その裏面を見ることはできない。


中点は直線のあいだになく、線分のあいだにのみある。中点と似ている言葉で中心という言葉も、数学で習った記憶がある。四点以上のなかには一つの中心はつくれないけれども、三点ならば中心が必ずある。確かそんな説明だった。

四本足のテーブルは、上手に作らないとガタつく。三本足であれば必ず立つ。もっとも三本足でも、上手に作らなければ天板は水平にならない。中心が見つけられても、その上に立つことが理想的な均衡になっているわけではない。

欲望と絶望のように無限に広がる直線ではなく、もう一点を加えたらどうか。欲望と絶望と希望。これら三点のなかに中心を見つけることはできるか。

中心とは別に重心という言葉もあった。どんな意味だっただろう。力や引力といった物理学の考えも関係していたかもしれない。こうなると記憶はあやふや。

中心と重心は必ずしも同じ場所ではない。欲望と絶望と希望はどんな力関係にあるか。それがわかれば、重心をきめることができるのだろうか。


いつの間にか、あたりは薄暮から宵闇にかわっている。右側はますます黒く、左側はますます白い。波間にオレンジ色の灯りが漂っている。

暗い海にたゆたう波は、水よりも少しだけ重く、粘り気のある液体にみえる。封を切った青いボトルから冷えたグラスに注ぐジンのように揺れながら溜まり、溜まりながら揺れる

桟橋の反対側は工業地帯。夜よりも黒い煙が月を隠している。ときどき洩れてくる月の灯りは柔らかく港を漂う黒い波を照らす。

遊覧船が静かに橋の下をくぐってくる。この橋も港を象徴する建造物の一つ。小学校ではじめて自分の住んでいる街のことを学んだときには、まだ地図のうえでも「計画中」だった。橋は、未来そのものだった。

両側から少しずつ建てられた橋がつながった日に、大桟橋から見た。確か高校生のとき。そのとき橋は、希望にあふれた未来を象徴するものとして見えていただろうか。そうでもなかったような気がする。そのときはそのときで、橋は眩しすぎる未来でしかなかった。


目の前に広がる暗い世界と眩しい世界、それをつなぐ大きな橋。架け橋という言葉からふと森有正の晩年について考える。日本語とフランス語、二つの世界を幼い頃から生きた森は、日本語の世界を確かめるためにフランス語の世界に沈潜した。そして彼がたどりついた結論は、二つの世界を架ける橋になるということだった。日本の学校で教える、パリでは日本人学生の居留する学生会館の館長になる、さらには在フランス日本人会の会長にもなろうとしたという。

この結論は、思想の探求が世俗的な顕示欲に落ち着いたと人によってはみえたらしい。私はそうは思わない。二つの世界に生きていると自覚した人間が矛盾と和解しようとすれば、どうしても二つの世界を往復することになる。森にとって悲劇は二つの世界が地理的に遠く離れていたこと。まだ直行便もなかった時代に二つの世界を往復しようとすれば健康を害するに決まっている。


現代からみれば、フランスと日本をくっきりと切り分けられた別の世界としてしか受け止められなかったことこそ気の毒に思える。画家や音楽家にとってほどではないにしても、言葉の境は壁というほど高くそびえているわけではないし、国境と同じ線に沿っているわけでもない。要するに、引き裂かれたと思うほど、深刻な溝ではない。

二つの世界に引き裂かれた自分、あるいは、二つの世界の間で揺れ動く自分、あるいは、それらを橋渡しする自分。そういうとらえ方は、わかりやすく、また自分を過剰に悲劇的な存在へと仕立て上げやすい。

複雑混沌としている世界を単純にみてしまうと、自分のことも単純にみることになる。そして、世界に生きることを公式にあてはめようとしてしまう。一つの出来事や一度の回心で、世界や自分が変われると思うようになりかねない。同じように、一人の生き方が自分のあり方のすべてを変えてしまったと思うことも間違っている。

そもそも人の思いが他の人へ橋渡しされることはあるとしても、人そのものが橋になることはありえない。川も海も、おびただしい亡骸で埋め立てられているのだから。だから人にできるのは、橋になることではなく道になること。多くの人の心のあり方を変えた人でさえ、「私は道である」としか言っていない。


屍のうえに敷かれる屍となり、その上を生きている人が歩く。その人たちも、やがて敷石の一つとなる。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ」という言葉が意味しているのは、こういうことかもしれない。そう考えてみると、森有正も橋というよりも、道になったと言ったほうがいい。

古代のキリスト教思想家は二元論を批判して三位一体に到達した。その自伝は「これから読む本」のリストに入ったまま。三位一体について語る資格はない。語る資格のないことについて、語ってはいけないし、語ることもできない。

三位一体は知らない。今、私が思うことは、欲望と絶望と希望の三極も、同じものではないかということ。二つ、三つの世界に引き裂かれていると思うのは、何かに疲れたせいでそう見えているに過ぎないのではないか。


言葉は、メビウスの輪のようなもの。そう思っている。一つの言葉は、意味を伸ばしていくといつの間にか裏返り、反対の意味と思っている言葉につながっている。さらにたどると、また裏返って元の言葉に戻る。

古代の教父を読む前に、近代はじめの護教論者の断章を少しずつ読んでいる。567番にある「おのおのの真理の終わりに、反対の真理が想起されること」と、862番の一節にある「すべてのものは二重であって、しかも同じ名称を持っているのである」という言葉は、きっと同じことを指している。

善と悪とは、別々にあるのではない。混じりあっている。もともと同じものなのだから。善のなかに悪がある、闇のなかに光がある。

そうかもしれない。山から見れば暗い旧市街も明るい新開地もひとつの風景に見えるだろう。空から見れば、船も公園も、ビルも観覧車も、そして桟橋に立つ私さえも一つの風景に溶け込んでいるに違いない。


敗北のなかに栄光があり、終わりのなかにはじまりがある悲しみのなかに歓びがあり、過去のなかに未来がある。

それでは、生きている者のなかに死んでいった者はいるだろうか

この頃は、何を考えても同じところへと落ち込んでいく。あまりいい傾向ではない。一人でこんなところにいることが、だんだんさみしくなってくる。今度は皆で来よう。そんなことを考えはじめる。一人きりの散歩はそう長く続かない。


遊覧船が桟橋に近づいてくる。思ったより大きい。中には暖かい灯りがついている。団体客や家族連れが下りてくる。静かだった桟橋が急ににぎやかになる。もう帰ろう。

振りかえり、桟橋のたもとに向かって歩き始める。今度は右側が眩しく、左側がほの暗い。暗い山下公園の向こうにガラス張りの建物が見える。ガラスのなかには赤い壁。遠くからでもよく見える。

もう何年も前に、あのコンサート・ホールでチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴いた。オーケストラの生演奏は、そう何度も聴いていない。だからよく覚えている。

それよりもさらに遡ると、同じホールでフィルム・コンサートを見た。歌手が中国へ映画を撮影に出かけている間、それまでの演奏を映画にして見せていた。あのときは、確か、桜木町からバスに乗った。大桟橋までは来なかったものの、辺りを少し歩いた気がする。何か食べて帰ったのだろうか。もっとたくさん思い出せればいいのだけれど。

あの後、同じ場所で何度もコンサートを見ている。同じ歌手の生演奏も聴いた。それでも、あの日のことが忘れられない。忘れられないのに、何も思い出せない。どんな服を着ていたのか。どんな話をしたのか。

ここまで来たついでに、あの頃、住んでいた家に寄ってから帰ることにする。何か思い出すかもしれない。お茶を飲んで帰るだけでもあたたまるだろう。

冬になったら、ある晴れた日に、あのコンサート・ホールをもう一度訪ねみることにしようか。そして、その日のことを言葉にしてみよう。そこで思い出したことは、言葉にできるか、まだわからないけれども。

大桟橋をあとにする。ここから、古い未来がおわり、新しい過去がはじまる。


   追記

この文章には、注記をしておいたほうがいいかもしれない。

これまで「烏兎の庭」をはじめた日に合わせて、文章を残してきた。この文章では直接触れてはいないけれど、記念の意味を込めてしばらく前の記憶と記録を頼りに、書きかけていた断章を挟んで書いた。

最後の一文、「古い未来がおわり、新しい過去がはじまる」は、森有正のいう「過去相に生きる」を私なりに解釈したもの。未来はつねに古く、過去はつねに新しい。過去にはいつも発見がある。

「庭」を開いた日は、遠い日の偶像を記念する日。このあとにはじまる厳しい季節の前に訪れた小春日和。感傷と瞑想と悲愴の交差する一日。

今日もそんな日。この文章が描こうとしている気持ちも同じ。

この文章をこの日に書き残した意味は、少なくとも書いた私には小さくない。