感動について――「烏兎の庭」開園に寄せて


高校時代に、あるミュージシャンを好きになった。曲も新鮮、歌詞も独創的で、レコードを借りてきては録音して、一日中聴いていた。いまでもその曲を聴くとその頃の生活や自分の考えていたことがよみがえってくる。そういう音楽や文章、映画、ドラマなどは誰にでもあるだろう。

ところがあるとき、友達からだったか、ラジオからだったか、どこかで、あの音楽は他のミュージシャンのパクリではないかと聞いた。聞いてみると、英語の歌詞はわからないけれども、メロディ、アレンジも確かにそっくり。

がっかりした。青春の思い出がつまった音楽は実は偽物だったなんて、ずっとだまされていたようで悲しくなった。人にすすめたり、これこそ自分の気持ちを代弁する音楽だなどと友達に語ったりしていた自分がばか者に思えてきた。聴くたびによみがえる思い出まで、うそにまみれた体験だったような気がしてきた。

何が本物かを知るのは、難しい。知識の少ない若い年齢では、なおさら。いいもの、わるいものを区別するのは、さらに難しい。パロディやモノマネが創作の入り口になることは否定しないけれども、オリジナルを知らずにモノマネを見て絶賛するのは恥ずかしい。

そう考えるのは、硬直したオリジナル信仰ではないし、教養主義的な一流志向でもない。日本社会において、ハビトゥスはおそらくブルデューが調査したフランスよりずっと複雑に入り組んでいる。テレビに代表される大衆文化にまったくかかわらないで育つ人はまれだろう。歴史の英雄も古典絵画やクラシック音楽も、広告などを媒介に大衆文化にモザイクのようにちりばめられている。

大衆文化だけに浸かって育った人もいなければ、古典文化だけに触れて育った人もいない。誰もがクレオール的な出自をもっているし、ハイブリッドな文化の中で生きている。ある部分だけを自分の文化と思うこともなければ、それ以外はにせものの自分と思うこともない。そう思って、彼の音楽を聴きなおしてみた。やっぱり、いい。やっぱり、好きだったんだなと思う。

自分が好きだった音楽が、パクリであったことを知るのは惨め。だが、純粋にオリジナルなものなどどこにもない。アーティストにあからさまなパクリを許す、それどころか、強制さえしているのは、売らんかなの商業主義にほかならない。

非難すべきは商業主義であり、感動した無知な自分ではないはず。確かにあの音楽は、産業ロックの所産だったかもしれない。それでも、感動してしまった。感動した自分に嘘はなかった。感動する無知に罪はない。

感動は、きわめて個人的な体験。つまり、何に感動しようと自由。最近、ふと思い出してもう十五年以上も前の歌を聞いた。誰もまじめに批評などしないし、今ではラジオで聞くこともないような流行歌。それでも彼女の歌声は、私だけにひっそりとした感傷を呼び起こす。私はその往年のアイドルの誕生日を、自分のウェブ・サイトの開設記念日にした。

偶像とは、本来、そんなふうに極めて個人的で、内面的なものだと思う。


碧岡烏兎