烏兎の箱庭――烏兎の庭 第二部 日誌
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2005年11月


11/1/2005/TUE

さくいんを開設

はてなダイアリーに、索引「烏兎の地図――庭園案内板」を開いた。

あわせて、これまで索引について書いたことをまとめて、随想「索引について」として植栽。

これまで自作していた人名索引のページは、ファイルは残して、目次からのリンクは外した。今後は更新もしない。


写真は、シンガポールからの夜行便で帰国後、成田空港で見上げた朝の光。


11/11/2005/FRI

SPACE ADVANTURE COBRA VOL. 6 タイム・ドライブ、寺沢武一、集英社、1997

バンバンとホージーとは『特捜戦隊デカレンジャー』デカレッドとデカブルーのこと

内容は、本文からもリンクしてあるとおり、2004年6月18日のメモ書きの続き。2002年11月28日に庭を開いてから、偶像とは、ずっと気がかりな概念。偶像という言葉からはじまった思索は、めぐりめぐってイコンという言葉にたどり着いた。言葉はメビウスの輪のようなもの。とすれば、イコンは、やがて偶像に帰るだろう。

私の考える偶像の例としてコブラとレディーの関係のほかに挙げたのが、星野鉄郎とメーテル。『銀河鉄道999』で、鉄郎は人は死ぬ運命にあるから生きる意味があるという真実を知る。鉄郎は、機械化人間を知れば知るほど、生身の人間の悲哀の裏にある「ほんとうの幸い」を知る。

メーテルは、鉄郎の記憶が具現化した存在。勇気のある少年を銀河鉄道の旅に誘い出すために、彼の奥底にあった母親の記憶が抽出された。旅の終わりに、メーテルは鉄郎の前から姿を消す。そのとき、きっと鉄郎のなかでイコンとして新たに生きはじめた亡霊ではない母の確かな姿と入れ替わりに。そういえばゴダイゴが歌った主題歌には、「別れも愛の一つ」という言葉があった。

読みたいけれど読めないで積み重なる本を「積読」という。最近は、そういうことはなくなった。いま読んでいる本が、つぎに読む本を教えてくれることが多い。書店でも図書館でも、今日読もうと思う本以外、目に入らなくなってきた。ただし、疲れた気持ちで書店に行くとあまりの本の多さにげんなりした気持ちになる

かわりに困っているのは、感想が書けないままになっている本。何か書き残しておきたいけれど、それが何かわからない。もやもやが引っかかり、次の本が開けない。そういう本がいくつか残っている。この漫画も、そういう本の一冊だった。


写真は、曇天の観覧車。先週末、横浜で搭乗した。


11/20/2005/SUN

書評「幼児期――子どもは世界をどうつかむか」(岡本夏木、岩波新書、2005)

小児科医で、絵本好きでもある、しろくま先生こと、北原文徳さんのサイト「しろくまNow & Then」、11月9日付に紹介されて読みはじめた。

写真は、1911年、所沢の空に飛翔したアンリ・ファルマン複葉機。

週末天気がよかったので、航空発祥記念館へ行った。目当ては「秋の特別展『60・70年代の空の旅』―国際線航路へタイムスリップ!―」。

飛行機旅行の歴史には、以前から興味がある。以前買った図録 “airline: IDENTITY, DESIGN AND CULTURE, ”(Keith Lovegrove, teNeues, NY, 2000)の写真を実物で見ることができると楽しみにしていたけれど、展示はそれほど多くなかった。

面白かったのは、日本航空が製作した当時の広報映画。

「のり平のトラベル・マナー」では、三木のり平が海外旅行のコツと機内サービスをコメディ仕立てで案内する。座席と別に障子窓とソファのあるラウンジ「藤の間」が用意され晩餐会と呼びたくなるような豪華な食事が提供された当時のファーストクラスの様子が伝わる。

展示のわきには、日本航空機内誌『ウインズ』。創刊は1979年なので、置いてあったのは展示の時代より少しあと、80年代のもの。広告は、大型コンピュータとファッション・ブランドが多い。国際便の乗客は大企業幹部と裕福な女性が多かったということか。

先週は、電話の博物館を見て、模型飛行機の名人から直々に、よく飛ぶ飛ばし方を教わった。今週末は、飛行機の博物館と秋晴れの公園。航空公園は、鉄塔も送電線もないので、空が広い。

売店で買ったブルーインパルスとゼロ戦の模型飛行機が広々とした青空に飛んだ


11/25/2005/FRI

書評「幼児期――子どもは世界をどうつかむか」を推敲

植えたばかりの書評、岡本夏木『幼児期――子どもは世界をどうつかむか』(岩波新書、2005)を掘り返して、書きなおし。

第一稿も、二度読んでから自分なりの感想をまとめたつもりだったけれど、何か足りない感じがしていた。書けていなかったのは、戦後思想の継承を2005年に読む意味について。図書館で借りたあと買いなおしたので、蛍光ペンを引きながら、もう一度、読み返した。

この本は、松田道雄『育児の百科』や丸山眞男『日本の思想』の焼き直しでもないし繰り返しでもない。彼らの思想を引き継ぎながら、新しい考えや時代に合わせた考えも盛り込まれている。そのなかで、自分が気づいたものを引用を交えてまとめておいた。

写真は、西武新宿線、航空公園駅前にある舞い上がる紙ヒコーキのオブジェ。

表紙の写真も最近公園で撮影したものに入れ替えた


2017年6月21日追記。

「みちでバッタリ出会った」という題名で文章を書きはじめたところ、この写真のことを思い出した。

なぜか。

手近に置いてある『ぼくは12歳』(筑摩書房、1976)を取り出してすぐにわかった。

この詩集の表紙に青い空を飛ぶ紙ヒコーキだった。挿絵の横に岡真歴史少年の言葉が添えてある。

ひとり ただ くずれさるのを まつだけ

私も長い間、そういう気持ちでいた。まだ自信を持って過去形では言えない。


11/28/2005/MON

ハンセン病文学全集4 記録・随筆、(鶴見俊輔解説)、大岡信・大谷藤郎・加賀乙彦・鶴見俊輔編、晧星社、2003

ハンセン病文学全集10 児童作品、(鶴見俊輔解説)、大岡信・大谷藤郎・加賀乙彦・鶴見俊輔編、晧星社、2003

病みつつあれば、津田せつ子、けやき出版、1998

自分のウェブサイトに「烏兎の庭」という名前をつけてから3年。その記念の文章。

読んだのは、『4 記録・随筆』と『10 児童作品』。どちらも、鶴見俊輔が編集、解説をしている。あわせて、全集で知った津田せつ子の随筆集の感想も入れた。

これまで開園日の記念に随想を書いてきた。2002年は「感動について」、2003年は「浮彫としての文章」、そして昨年は「大桟橋から」

今年も、しばらく前から二編の随想を書きはじめ、どうちらか間に合うだろうと思っていた。一つは、索引「烏兎の地図」を11月1日に開始した理由を書いた「文学の先生」、もう一つは、書くことについて考えをまとめた「自画像としての文章」。どちらもなかなか進まないので、途中で投げてしまった。


「文学の先生」にはたくさんの名前を教わった。瀬川丑松、小森孝二、加藤文太郎、汐見茂思、それからアンクル・トリス。でも、いまはそれ以上書けそうにない。書くには、まだ早いのかもしれない

そして、すべての文章が自画像であるなら、いまさらそのことを書くよりも、自画像を一枚でも書くほうがいい、能書きはもういらない、書けない理由をそう考えた。

そこで、読み終えて、立ち止まったところを転記したままにしてある『ハンセン病文学全集』の書評を仕上げることにした。文学の先生のことも織り込んであるし、この文章も私自身について書いている。書いているうちに、感想が書けないでいた理由もわかってきた。


一つ、書評に書き込むか迷った末に、入れなかったこと。

再放送中の『ウルトラマン』で「第30話 まぼろしの雪山」を見た。脚本は金城哲夫、監督は樋口祐三。金城は、差別や偏見を物語にするときに、自分が念頭においている沖縄とはあえて環境が正反対の寒い場所を選ぶことが多いと聞いたことがある。この話以外にも、『ウルトラセブン』「第25話 零下140度の対決」がある。

この話では、差別された者は最後にいなくなる。死んだのか、山に帰ったのか、それとも、はじめからまぼろしだったのか、物語のなかでははっきりしない。

それを不満に思うのは、差別を解決したものとして忘れたい差別する側にいる証拠。見る者の疑問は、見終えた番組ではなく、見ている自分に向かう。物語のなかどころか現実の世界でこそ、差別はまぼろしのように扱われているから。

雪ん子は山に帰った、アイヌはもう同化した、琉球はもともと同じ祖先だった、「在日」外国人は自分の意志で居留している、そして、ハンセン病の訴訟には判決が出た。ジャミラの墓碑のように美しい言葉だけが残り、人々にとって差別はまぼろしのように消えていく。


きっと、ほんとうに語り継いでいかなければならないのは、いちばん語りたくないこと、いちばん聞きたくないこと。話したくないことを話せる人は、多くない。話したくないことを話してくれというのも無茶な話。無神経な要求は、十分に暴力になる。

話していることの奥にある、話すことができないことを聞き取らなければ、話を聞いたことにはならないし、まして語り継ぐことなどできやしない。

書くほうに立てば、書きたくなければ、無理に語らず、書かないままで伝える技を編み出さなければ、やはり語り継いでもらうことはできない。

私にとって11月28日は、思いをどう伝えるか、について思いめぐらす日。文章を書きだす前の、ずっとむかしからそうだった。


写真は、御殿場から見た富士山。週末、秩父宮記念公園で紅葉をみてきた。

御殿場には国立のハンセン病療養所のほか、民間の療養所があった。遠藤周作は二十歳のころここを慰問し、自分の弱さを思い知らされた。その体験が文学者としての自覚を深めるきっかけになったという。このことは、『遠藤周作文学全集 12』のなかにある、吉満義彦について書いた文章で読んだ。



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