ハンセン病文学全集4 記録・随筆、(鶴見俊輔解説)、大岡信・大谷藤郎・加賀乙彦・鶴見俊輔編、晧星社、2003

ハンセン病文学全集10 児童作品、(鶴見俊輔解説)、大岡信・大谷藤郎・加賀乙彦・鶴見俊輔編、晧星社、2003

病みつつあれば、津田せつ子、けやき出版、1998


遠藤周作原民喜について書いた文章を読みなおすために、図書館に行き文学全集の棚へ。『遠藤周作文学全集』のそばに『ハンセン病文学全集』を見つけた。出版されたことは知っていたものの、これまで手にとることがなかった。そこで、読んだことのある遠藤周作はやめて、読んだことのない本を借りることにした。ふだんから興味のある随筆と児童作品の巻を選ぶ。両巻とも鶴見俊輔が編集し、解説をそえている。

ハンセン病のことを、私は何も知らなかった。それでも、「いのちの初夜」「小島の春」という言葉はどこかで聞いて知っていた。身近にいた読書家が何気ない会話のなかで教えてくれたのだろう。私のなかでは、ハンセン病は最初から文学と結びつけられていたらしい。

東京の西部に住むようになっても、まだ何も気づかなかった。所沢街道を走るとき、緑あふれる一画があり、林のおくに古びた建物があることは気づいていた。最初は古い都営住宅か公団住宅と思っていた。強制隔離をめぐる訴訟や予防法の廃止が報道されるころ、ようやくそこが多摩全生園であることを知った。

所沢街道からみると裏手にあたる療養所の隅に「高松宮ハンセン病資料館」があることを知ったのもそのころ。こうして、ある晴れた日の午後、はじめて塀のなかへ足を踏み入れた。


資料館で見たことは知らないことばかりだった。全国に数多くの療養所がある事実から、まず知らなかった。展示は、患者の受けた差別と隔離、残酷な生活の歴史、自治を勝ち取る患者の闘争、患者たちの生み出した工芸品や文芸作品など。『全集 4』にも数編収録されている歌人、明石海人の名前はここで覚えた。

展示場の外では、元患者の人が見学にきた看護学校の学生に体験を伝えていた。展示を見ても信じられない出来事が、生きた声で語られている。衝撃的な歴史を突きつけられて、混乱したまま外へ出ると、そこにはまた不思議な空間があった。

ひと言で言えば、懐かしい、ずっと昔に見た記憶のある風景。雑木林、平屋の建物、車が一台もいない砂利の道。高層マンションは見えない。風が吹き抜ける音さえ聞こえそうな静けさ。21世紀の東京の片隅にこんな場所が残っているのは、隔離施設が置かれていたからという恐ろしい事実に愕然とする。

さっき展示場で頭痛と吐き気に苦しんだはずが、雑木林を抜けてくる風を心地よく受けている。なつかしさが急に不気味に思えてきた。


この不気味な、といって語弊があればある種の奇妙な懐かしさは、ハンセン病患者の書いた文章を読んだときにも感じた。収録されている文章は、昭和の初めから1970年代まで幅広い。そのため注意しながら読み進めないと、混乱する。不便なことに、本文には執筆年が付記されていない。

懐かしさは、執筆時期を問違えるせいではない。時代を確かめながら読んでも、どの文章も、実際に書かれた時期よりも少し前の言葉づかいに感じられる。

これは、患者が時代の流れから隔離されていたからだけではない。鶴見俊輔の解説によれば、患者の文章がどことなく懐かしさを湛えているのは、患者自身が発病、収容される以前の世界を心の奥にしまっていたから。

(前略)日本人は均質だと言われる。おなじ日本語(標準語)を読み書きし、国家に対して従順だという点ではかるならば、その考え方はあたっている。しかしそれは、明治以後の百四十年たらずの年月をへて、二〇〇三年の日本人(日本列島に住む人)について言う場合である。
   百四十年前よりさかのぼれば、そうは言えない。江戸時代よりもっとさかのぼれば、日本人の均質性はさらに疑いが濃くなる。
   日本国内で、社会からへだてられてきたハンセン病患者は、その均質性から離れた特質をそなえている。この人びとの使う「社会」という言葉は、こどもが使うときでさえも、自分たちの住む施設の外のことである。
   この巻におさめられたこどもの文章は、同時代のこどもたちの文章とちがう。
   それは、このこどもたちが、外の社会(おなじ日本)のこどもたちにくらべて、故郷、母、こどものころについて、自分の心の中にある残像をしっかりと保っていることからくる。(「全集 10 解説」)

彼らの言葉遣いが子どもっぽいというのではもちろんない。家族や故郷のふところに深く抱かれていた子ども時代の視線を残したまま年齢を重ねているから、大人になっても、純粋さや繊細さなど子どもの心を残している。

しかし、強制隔離された患者がすべて純粋さや繊細さを残していたというわけではないだろう。まして強制隔離のおかげで純粋な心が保持されたというはずがない。展示で見た悲惨な暮らしと文章に表れた健気さには大きな隔たりがある。この点でも『全集』は、何かひっかかり、というか不気味さが残る。

収容所では、長く検閲制度があったという。児童作品の多くは、施設内の学校で授業の一環として書かれたもの。とすれば、実情よりも「いい子」であったり、そう書けた文章が残されたことも予想される。自由に書けるようになった最近の文章では、患者間の争いや、患者自治組織の内紛についても書かれている。


療養所は収容所であり、そこには患者だけではなく、患者が背負わされてきた社会の矛盾も一緒に封入された。だから収容所は、異常なほど密度の高い社会の縮図となり、逃げ場のない縮図のなかでは、沈黙や迎合も生き残る手段になった。

一方で男の人としゃべっているかと思えば、片隅では残して来た子供や夫の事を、ぐちをこぼしていますし、その両方に神経を使わなければなりません。この島の噂は無責任で、毎日噂に神経をすりへらさなければならない事より、一緒になって笑いころげている方が生きて行くのに好都合なのです。(具南順「一人の女」)

性別、国籍、年齢などで生活集団をつくっても、他人同士が暮らすことは同じ。

(前略)ボケル事、それが最善の生き方でもあるわけです。口から出まかせに、ピエロになって十五畳を転げまわる必要が、それが馬鹿気た事ではないのです。もともとその育って来た生活環境や性格、それに年齢や経済力の違いすぎる人間たちが五人、四六時中顔を突き合わせているのですから、何時かはバランスの崩れるのが当然なのです。その事はその儘共同生活体の破滅につながるのですから、一寸の油断も出来ません。表面上の平穏さと裏腹に舞台裏では、生のいがみと憎しみが絶えず激しい争いを繰り返しているのです。(林乙龍「不自由寮」)

沈黙や迎合も方便となるのは、学校や企業のある一般社会もおなじ。ただし、学校や企業からは帰ることもできるし、辞めることだってできないことではない。隔離収容された患者は、帰ることも脱出することもできない。

そういう場所では他人の裏面だけではなく、自分自身の裏面にも否応なく向き合わされる。そこで、沈黙と迎合を繰り返し、そうした自分に嫌悪しながらも、なお生き残る。ハンセン病患者の精神的な強さは、他人の弱さを見せつけられたうえに、自分の弱さを知り尽くすところから生まれているように思う


弱さから強さが生れる。大人の文章を集めた『記録・随筆』について、鶴見はさらにハンセン病文学の価値に踏み込む。

私の眼にふれたかぎり、患者の随筆と評論には、同時代の日本の論題とちがって、自分の背負わされた問題と取り組みつづける一貫した姿勢がある。この故に同時代の日本の総合雑誌にはない世界にこの人たちのぶんしょうは生きている。国家から閉じこめられたために、かえって人間の問題と取り組んでいる。(「全集 4 解説」)

鶴見は、ハンセン病文学に日本の文学に稀有な徹底した自己批評を見ている。この見方には共感するけれど、ここでは比較対象を論壇に絞ってはいるにしても、少し図式化が過ぎるようにも感じる。

塀の中にもヒューマニズムがあった、強靭な精神があった、そういう発見は、塀の外の人間には感動をもたらすし、塀の中の人間にとっても、いっとき苦難を忘れさせる効果があるかもしれない。しかしこういう図式化は、ともすれば塀の外の人間には、事実を直視せずカタルシスだけを得る逃げ道になりかねない。

不要な英雄化や過度の偶像化は、かえって本質を見誤らせる。ハンセン病問題には、けっして美談ですませられない深刻さがある。ハンセン病文学も、たんに極限状態に耐えたという体験談では片付けられない奥深さをもっている。それは人間の深い闇の向こうにはじめて見えてくる光のようなもの。

もっとも、この全集はハンセン病の患者の辛苦を慰労し、その忍耐を顕彰するために編まれている。鶴見の解説も、その目的にそって書かれたと受け止めれば、あえて彼の表現が解釈される可能性まで気にすることはないかもしれない。


収容所生活と隔離政策が、患者やその家族に何をもたらしたか、政策の検証や心理学的、社会学的な解明は、別の場ではじめられているに違いない。思想的な究明は、一人一人がするしかない。

塀の中は、地獄だった。その前提を忘れてはいけない。そこでは人間の尊厳を否定するような蛮行が行われていた。にもかかわらず、生きることをあきらめず耐える人々がいた。希望は、病苦と人間関係の泥沼の底に埋もれていた。

また、塀の外もすべてが人間の問題を忘れていたわけではない。塀の外にいたからのほほんとしていたわけではないし、苦しみがなかったわけでもない。人を分けるのは、塀や病気ではない。

そのうえ、病身の家族を心配しながら塀の内と外を行き来する人も、けっして少なくはなかった。彼らのように内側と外側の落差を知る人はひどく心を傷めた。なかには「正子の死」(張徳順)に書かれているように、その落差から生じる重圧に耐え切れず崩れ「立ち去る」ことになった人もいた。


人を分けるのは、病気でもないし、施設の塀でもない。国籍でもない。読んでみると、気高い精神を感じさせる文章を書いた人には、信仰をもった人が少なくない。とはいえ、ある宗教を信じれば、強くなれると決まっているものでもないだろうし、ましてある団体に属するかどうかで決まるとは思えない。

ではいったい何が、ある人を信じられないような強靭な精神の持ち主に変えていくのだろうか。何が支えになったか、それは人それぞれ。宗教に救われた人もいれば、芸術を通じて自分の裏面に向き合った人もいる。明石海人は随筆「詩と歌」のなかで短歌は「全人的な精進である」と書き残している。

また、離れて暮らしても、差別や偏見に抗いながら患者を支えた家族もいた。そういう家族の存在を心のよりどころにした人もいる。何を支えにするにしても弱さを強さに変えていったことに違いはない。何がより、それが重要ではないか。


『全集』を読んでから、図書館の随筆の棚で全集でも目を引いた津島せつ子の単行本を見つけた。病気があったからこそ、いまの自分がある。そう思えるまでの道程を想像しながら読んではみたけれど、なかなか実感はわいてこない。

茨の道を踏み越え、静かに自分を見つめる女性は、患者のエゴや、親切な施設職員が隠しきれない天使と人間の使い分けも、冷静に見透してしまう。にもかかわらず、彼女は人間に希望を失わない。最後の随筆の最後の言葉。

「私達に明日はない」という題名は希望も喜びもないという意味ではなく、全国の療養所の患者が亡くなれば、日本の癩の問題は終わるのではないかと思うからである。幼児や青少年に罹患することはあっても、通院で治る。
   緑豊かな全生園は、いま日本が直面している老人対策にも役立てられる。非情、残虐な癩の歴史は終わった。私達の亡きあとは、老後を楽しむ楽園になってほしいと願っている。(「私たちに明日はない」)

いま思えば、資料館にいた語り部の男性も同じようなことを話していた。何十年ものあいだ社会から見過ごされ、法に置き去りにされてきた人が、なお社会の未来に希望を持つ、しかも自分の死後の世界に。


こういうことが、いったいどうすれば可能になるのか。時代も場所も近いだけはじめて「ヨブ記」を読んだとき以上に、ずっと強い驚きと疑問が残った。感動よりも、自分に縁遠いものを感じるせいだろうか、塀のなかで起きていたことと同じくらい、塀のなかにいた人々の心に起きたことが、私にはまだ信じられない。

多摩全生園は、実際にもすべての患者が去っていったあとに公園にする構想があるらしい。元患者たちが願ったような美しい楽園になってほしいと思う反面、楽園に裏庭があることを思わず感じさせてしまうような不気味さをどこかに残す場所であってほしいようにも思う。

人間の暮らす楽園は、きっと無菌室ではないはずだから。