前に『イエスの父はいつ死んだか―講演・論文集』(聖公会出版、2010)を読んだ聖書学研究者の佐藤研の新刊を知り、読んでみた。
佐藤は、キリスト教のなかにある象徴的な言葉、悪く言えば、先入観をもたせる、いわゆる手垢のついた言葉を避ける。そうして先入観を持たずにキリスト教思想の本質に迫ろうとする。
前著では「復活」という言葉が使われなていなかった。代わりに客観的な視点から「イースター事件」という言葉が使われていた。本書では「十字架」という言葉が「杭殺刑」という言葉に置き換えられている。
さらに本書では、「キリスト教」という言葉さえ使われていない。なぜなら、パウロの生きた時代にはまだ「キリスト教」はなかったから。イエスがはじめ、使徒たちとパウロが従っていたのは「ユダヤ教イエス派」だったから。
パウロは、異邦人への伝道とともにユダヤ系ユダヤ教と異邦人系ユダヤ教との宥和にも心を砕いた。ところが、その活動は彼の死後、エルサレムの保守派からの離脱と「ユダヤ教イエス派」の独立、すなわち「キリスト教」の成立を促してしまった。この点について、著者は「歴史の皮肉」と見ている。
2013年4月15日追記。
「歴史の皮肉」という言葉は、実際に佐藤が別の本、『聖書時代史 新約篇』(岩波現代文庫、2003)で使っている(第4章 「キリスト教」の成立)。
ユダヤ教のなかでも最も保守的な派閥にいて、改心する前はイエス派の迫害もしていたパウロが、なぜ回心し、そして、苦労の多い異邦人への伝道やイエス派の本山である「エルサレム教会」との宥和に腐心したのか。
イエスの杭殺刑という、最も悲劇的な現実を心眼で見てしまった彼の自己崩壊が、やはりすべての起点なのです。また、それを尺度に、自分の暗黒な脆弱さと障碍性とに対峙していく彼のあり方は、おそらく現代にも通じる人間の深い映像だと思います。(終章)
「自分の暗黒な脆弱さ」と佐藤は書いている。「ダークサイド」という言葉を知ったのは“Star Wars”。ダースベーダーは、「ダークサイド」に落ちたジェダイだった。さらに深く暗い「ノワール」という言葉もあとで知った。
驚くべきは、大正時代に生きた尾崎翠が、「時として人のダークの方面を見て慄然とすることがある」と書いていること(「生活の反映」)。
尾崎翠はつい最近、全集と全集未収録の文章を収めたムック『尾崎翠 (KAWADE道の手帖)』(河出書房新社、2009)の中から有名な小説『第七官界彷徨』ではなく、短い随想や断章を興味深く読んだ。
「人間の弱さこそが強さである」という考えがパウロの生き方の中心にあるという。この考え方、あえてこの考え方に「思想」という言葉をあてると、中世の護教論者、パスカルに繋がる。それから私の読書体験では吉野源三郎『君たちはどう生きるか』と、さらに彼の言葉を真摯に受け止めて同書の解説を書いた丸山眞男へと繋がる。
先々週、"Ich bin kaput"とつぶやいた。実際、私は壊れていた。慣れ親しんだ母語では言い表すことができないような、遠い昔に耳にしたちんぷんかんぷんな言葉の一欠片でしか表せないほど、混乱していた。一言で言えば、そのとき私は発狂した。2年前にも同じようなことがあった。
パウロは「自己崩壊」から再生した。そして、新しい自分に見つけて強く生き続けた。「新生」とも「回心」とも言い換えられる、そういう強さを持った人がいることは知っている。
私は崩れ続けている。「自己崩壊」を体験し、自分自身の暗黒面から目を背けられなくなった。それでも、なお立ち上がり、前より強くなって生きることが、どうしてできるだろう。私は、心を鍛えることもできずに悶えている。
弱い人は、「ただひとりくずれさるのをまつだけ」ではないのか。
著者は、パウロがつかもうとしていた精神について「信仰」や「宗教」という言葉ではなく、単純な一文字「信」をあてる。そして、その意味を私たちが生きている現代社会のなかでとらえなおそうとする。使い過ぎてすり切れてしまった言葉や概念を捨てる意義はわかる。
新たな術語を作り出すのではなく、ありふれた言葉に新しい意味を吹き込む。その営為は「経験」という言葉の定義にほとんど半生を費やした森有正の思想に通ずるものもある。
言葉を変えることに意味がないとは言わない、でも、ともすると、それだけで満足することにも陥りやすい。その努力がまた「啓示」や「神秘体験」といった言葉でその内実が陳腐化されないように、いつも慎重でありたい。