2004年3月

3/1/2004/MON

NHKテレビ「課外授業・ようこそ先輩」をときどき見る。著名人が母校である小学校に帰って、自分の専門分野や特技を活かして授業を行うという番組。学者、歌手、作家、俳優、デザイナー、建築家、お笑い芸人も登場する。評判がいいらしく、いくつか内容が本にまとめられて出版されている。

面白い企画とは思う。けれども見るたびに、どうも落ち着かない。はらはらしてしまう。はらはらするのは、授業があまりにも円滑に進行するから。舞台はたいてい公立の小学校。公立の小学校で、しかもふだんとは様子が違う特別授業が、あんなにも成功裡に終わるものだろうか。不安と疑問。どちらにも体験の裏づけがある。小学校の授業は、こんなに予定調和的なことはなかった。

公立の小学校では、さまざまな学力、性質の子どもが一緒に学ぶ。中には精神的に不安定な子や、挙動に落ち着きのない子も混ざっている。まして今や、小学校といえばどこでも学級崩壊が蔓延しているように報道されている。それにしては、番組の授業はあまりに平穏無事。粛々と進む。

何か強制的な演出は行われていないだろうか。問題児が無理に欠席させられるようなことは起きてないだろうか。テレビに放映される授業は、ある一学級で行われている。他のクラスの生徒たちとのあいだでわだかまりは残らないのだろうか。

いくつかの疑問をならべてたぐってみると、要するに、この番組は現場の教員を冒涜していないだろうか、という疑問にいきつく。学者、歌手、俳優、タレント。彼らは何かしらの分野に才能があり、成功をしているとしても、そのことは、幼い子どもに教えることが得意ということには直接にはつながらない。

現場の教員は、テレビでおなじみという知名度もない。テレビカメラやディレクターの監視もない。そういうところで、さまざまな性質、態度の生徒たちをひきつけ、信頼関係を積み重ね、授業をすすめている。その技能と成果は、素人参加者から次々と面白い発言を引き出す売れっ子テレビ司会者でも一日でまねできるようなものではないはず。一つの分野で優秀な人は、学校で子どもに教えられるだろうという思い込みは、発想は新奇ではあっても、本質では、教育現場の実情を無視しているような気がしてならない。

おそらく番組の裏では、学級担任が企画を前もってわかりやすく伝えたり、撮影に緊張する一人一人の生徒を細かく面倒見たりしているに違いない。そちらのドラマの方がずっと面白く、ためになるような気がする。


3/2/2004/TUE

書評「江分利満氏の優雅な生活」を剪定。山口の文体を拝借して江分利満氏にカッコのなかで登場してもらった。はじめは「なめんなヨ」にしようとしたのだけれど、学生服で鉢巻をした猫の台詞のようにみえたのでやめた。「みちでバッタリ出会ったヨ」のように、カタカナのヨを語尾につける文章を最近めったに見なくなった。こういう用法が一つ入るだけで、60年代から70年代の文章にみえてくる。「より美しい」を「ヨリ美しい」と書いたときも同じ。

書評「小林秀雄のこと」、後ろから二段落目に森有正にとっての小林秀雄の存在について追記。一見すると立場を異にするようにみえる森有正や丸山眞男にとっても、小林の存在は巨大。それぞれに小林と対峙する姿が、彼らの作品に実を結んだといえる。

書評「アメリカニズム」に、齋藤眞の名前と著作名を追記。『アメリカ政治外交史』(東京大学出版会、1975)は、著者に署名をしてもらった本を持っている。所有するサイン本といえばこの一冊と、谷川俊太郎『はだか』(筑摩書房、1988)くらい。谷川の詩集は、まだ親元で暮らしていたころ、図書館で行われた講演会で買ったばかりの詩集に書いてもらった。

段落の整理を引き続き進める。2002年12月11日植栽の書評「プルースト評論選」まで整理が終わった。

表紙写真を「冬枯れ」に変更。冬の風景は、今年はこれで最後にしたい。


3/3/2004/WED

昨日の荒川洋治。福田陸太郎監修『OEDの日本語378』(論創社、2004)の紹介。

30万語を収録するOxford English Dictionary。378語の日本語は700語に一語程度の比率。大君(タイクーン)、カミカゼ、ショーユ、タタミなどは、用例も多く掲載されている。意外なのは、鉱物が多いこと。Satsumaという語は、英語では温州みかんを指す。鹿児島から苗木が輸出されたことがあったかららしい。

辞書にあるのは、主に名詞。まわりを見ると、日本語話者でない人にも、すでにもっと多くの日本語表現がはいりこんでいるように感じる。日本に住んだり、日本で働いたり、あるいは日本語話者と取引をする人々のあいだでは、日本語そのものはできなくても、あいさつや慣用句はよく使われている。

たとえば、苗字に「さん」をつける呼び方はその一例。日本語話者と一緒に働く人にはよく知られている日本語の使い方。英語では、役職での上下に関わらず名前を呼び捨てにすることが多い。どういう呼び方で人を呼んでいるかで、その仕事の雰囲気が日本語文化に寄っているか、英語文化に寄っているかがわかる。どちらであっても、すでにできあがった慣習を変えるのは結構難しい

「はじめまして」「ありがとう」といったのあいさつの言葉だけではない。「ダイジョーブ」「モンダイナイ」なども、私が今いる業界では、業務の会話のあいだに慣用句としてよく聞く。「ごめんなさい」と書いた紙を画像に写したものが、電子メールで送られてきたこともある。

Pokect Monsterは英語かもしれないけれども、Pokémonは、日本語だろう。Pikachuにいたっては、ピカもチュウーも日本語。ポケモンに親しんで育った子どもたちは、やがてピカで光る、チューでねずみを連想するようになるに違いない。

日本語のグローバル化は、辞書でも追いつけないほどの速度で進んでいる。


3/4/2004/THU

70年代論、80年代論に流行の兆しがあるらしい。自分自身の過去を当時の音楽と重ねながらふりかえることの多い「庭」の文章も、世代論の一種といえるかもしれない。

自分の思索としてある時代について考えるとき、70年代、80年代という区切りじたい、単純な設定ではないことに気づく。60年代の終わりに生れた私にとって、60年代を生きた記憶はない。70年代に入っても、子ども時代を過ごしていたから、60年代を過去の一時代として意識することもなかった。60年代のことは、80年代に入ってから、自分が生まれる前の出来事として見聞きしたり学んだりした。

つまり私にとっては、60年代は80年代のなかにある。70年代の場合は、自分自身の記憶とあとから獲得した情報とが、簡単にはほぐせないほど混ざり合っている。例えば、全共闘運動や安保闘争について、私は1980年代の中ごろに本で知った。それも60年代当時に出版された本ばかりではない。80年代に出版された真新しい本もあった。80年代のなかに60年代があったのは、私のなかだけではない。

さらに言えば、ほぼ十年単位でその時代の雰囲気、いわゆる時代精神(zeitgeist)をとらえることは間違いではないにしても、たとえば70年代について考える場合に、それがそっくり1971年~1980年という数字で区切られるわけではない。それは段階的に時代が変わったということでもなければ、80年代に入ったある年に80年代的な時代になったということでもない。

歴史として学ぶのではなく体験をたどって思索する場合、80年以降に残っていた70年代の遺構や残滓のようなもののなかにこそ、70年代を言い当てる本質的なものがあるように思う。過ぎた時代の残り香。そこには、70年のなかにいては見えてこないものが見えてくるような気がする。

70年代に70年代はなく、80年代に70年代や60年代がある。アメリカにアメリカはなく、アメリカの外にアメリカがある書いていることは、書きたいことではなく、書いていないところに書きたいことが浮き彫りにされる。家のなかにHomeはなく、Homeから遠ざかるほど、Home近づいていく。それから、“Sometimes one must travel far to discover what is near.”

そういう思考様式は、まだ私のスタイルとはいえない。そういえないまでも、私の癖のようなものであるとは言えそう。


3/5/2004/FRI

卒業式の季節。多くの人にとっては、思い出深い出来事かもしれない。思い出そうとしてみると、意外なほど、自分の卒業式のことは覚えていない。

幼稚園の卒園式は、まったく覚えていない。小学校の卒業式は、まだ思い出せない。思い出せるのは、全員が合唱する前に、「歓びの歌」を独唱する役だったことだけ。もう一つ覚えているのは、式のあとでたくさん写真を撮ったこと。写真を撮ったことを覚えているのではない。そのとき撮った写真が残っているので、そうだったのだろうと思い返せるだけ。

もう一つ、覚えていること。小学校最後の通知表「あゆみ」には、「この一年、自分との戦いでしたね」と書かれていた。自分と戦う小学生。どんな子どもだったのだろう、私は。

中学校の卒業式も、ほとんど記憶に残っていない。本来、学校では禁止された服装で出席したことは覚えている。高校入試も終わり、もう内申書も関係なくなり、太いズボンと腰の締まった長い学生服を着ていっても、咎められることはなかった。パンツは「ボンタン」、上着は「中ラン」と呼ばれていた。

柏原芳恵「春なのに」が流行ったころで、男子生徒から女子生徒が学生服の金ボタンをもらうことが儀礼化していた。私はどうだったのだろう。思い出せないのか、思い出したくないのか、いずれにしても、はっきりしない。

高校の卒業式は、大学入学試験の発表前だったのかどうかさえ思い出せない。卒業式の風景を何も覚えていないのは、まだ行き先が決まっていなかったからではないか。行き場があれば、少しは晴れがましい気持ちでいられただろう。

大学の卒業式では、式典のあと、演習担当教授の研究室でビールを一杯ごちそうになったことを覚えている。そのあと、どこかで呑むだけ呑んで朝までカラオケをしたことも覚えている。「この支配からの卒業」なんて歌詞を絶唱していた。これからもっと過酷な、本当の支配がはじまることにはまったく気づかぬほど、実はまだ無邪気だった。それは否定的な意味ではない。自分で自分を支配する、本当の自由がはじまったということ。

こうして思い出してみると、私にとって卒業式は歌や音楽と関わりがあったのかもしれない。どこかの卒業式では、パイプオルガンの音楽が流れていた。それは同じ式でも、結婚式だったかもしれない。式の記憶はどれもあやふや。

学校以外に卒業をしたものもある。卒業式がないものも少なくなかった。予備校には卒業式はなかった。行先が決まっていなくても、最後講義が終われば予備校は終了。英会話の学校では、卒業式はあっただろうか。覚えていない。

学校が好きでもないのに、どうしていくつも学校へ行ったのだろう。記憶をたどってみると、どこも嫌々行っていたわけでもない。それでも結局、入ったときはどんな気持ちでいたにしろ、出るときにはいつもうんざりした気持ちになっていたために、楽しい時代が終わってしまったようにも、これから明るい未来がはじまりそうにも思うことがなかった。

だから、感慨深い卒業式の記憶がないのかもしれない。そうして、あやふやな記憶とあやふやな期待を抱いて、次の学校へ向かっていたのかもしれない。


3/6/2004/SAT

小説は苦手、好んで読むのは随想、批評、それからエッセイ。そう思っていた。実は、そうとは言い切れないことに気づいた。山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』、森山啓『谷間の女たち』などは、間違いなく小説だけれども、引き込まれるようにして読んだ。いずれもただの小説ではない。自伝的小説、あるいはエッセイ的小説ともいえる。

自伝的小説とは何か。自伝とはどこが違うか。告白、エッセイは、小説とどう関係するのか。読み終えた『谷間の女たち』の書評を書きながら、ゆっくり考えてみたい。

好きになるかどうかは、小説かそうでないかということではなく、文章の人称による。好きなのは、一人称の文章。書き手が文章にまったく登場しない文章は、あまり好きになれない。といっても、好きなものもある。ほとんどの絵本、マンガ、壮大な物語、言ってみれば三人称の文章に引き込まれたこともないわけではない。

入り込めないのは、二人称の文章。作者が、読み手である自分に向けて書いている文章。理由はよくわからない。ただの個人的な好みのせいにも思われるし、何か本質的な問題を含んでいるようにも感じる。作者が私に向かって書いている文章よりも、作者が作者自身に向けて書いている文章のほうが、読んでいて切実に感じる。それは、自分自身が文章を書いていて、文章を書かれたものとしてというより、書くものとして読んでいるからかもしれない。他人が書いた文章でも、書き手に向かう文章は、自分が書いた文章のように読めてしまう。

書き手が読み手である私に向かって書いているようなとき、なぜか文章は私自身に向かってこない。私は作者の隣りに座ってしまい、ほんとうは自分に向けられているはずの言葉を、作者と一緒に、誰かほかの人に向けられたものとして読んでしまう。作者が意図的に読み手を同じ立場にして、「われわれ」と言いながら、誰かに向かっている文章では、なおさら。

このあたりに、書かれた言葉が自分に向かってこない理由と、そういう文章を好まない理由がある。きっと、そうだろう。


3/7/2004/SUN

世界航空機文化図鑑(FLIGHT: 100 YEARS OF AVIATON)、スミソニアン博物館&ダクスフォード・インペリアル博物館共同制作、R.G.Grant著、天野完一翻訳監修/乾正文訳、東洋書林、2003

昨年は、ライト兄弟の動力飛行から百周年を記念して航空史の本が多く出版された。海外出張へ出かけたときに、サンフランシスコ空港で何冊か手にとったものの、内容が充実している本は、それだけ重さも金額もかさばる。結局、航空史全体を俯瞰する本はあきらめ、旅客航空の歴史に焦点を絞った“airline: IDENTITY, DESIGN AND CULTURE,”(Keith Lovegrove, teNeues, NY, 2000)を買った。ありがたいことに、航空史百年を見渡す図鑑が早くも日本語に訳され、そのうえ図書館の蔵書になっている。

本書は、豊富な写真や図解で、機械としての飛行機を歴史的にたどるだけではなく、政治、とりわけ戦争との関わりや、第二次大戦後に拡散したビジネスとしての航空産業という面にも細かな目を配り、社会史として航空史をふりかえる。この点が、単なる図鑑以上に読み物として面白くしている。欄外の人物小伝も、同様に多面的。

一度ではとても読みきれない400ページ以上、オール・カラー。25,000円の本は、なかなか自分では買えない。置き場もない。公共図書館という制度に感謝


3/8/2004/MON

3月4日の続き。

昨日の読売新聞朝刊、書評欄、「評判記」と題した短文で、斎藤美奈子が個人的な体験と時代の空気を重ね合わせた世代論は誰にでも書けるものではないと書いている。

彼女によれば、それができるのは時代の最先端に触れていて、そこで特別な、多くの場合、屈折した体験をしたから。ジャーナリズムの世界に身を置いていたり、東京で超エリート進学校に通っていたりしていた人たちが、当時を懐かしむように世代論を披露するとき、彼らは自分たちが特権的な居場所にいた事実に無自覚でいることを、斉藤はさりげなく批判している。

世代論にこういう危険はつきもの。「日本のおじさん」と一口に言っても、実は、特殊な体験を共有できる人だけを指していたりする

斉藤は「裏日本の田舎町」で過ごしていたために、80年代を鮮明に感じることはなかったという。私は首都圏とはいえ、東京の中心からは離れていた。それにまだ高校生であったために、時代は学校生活やメディアを通じて触れるもので、文化の最先端に直接触れることができたわけではなかった。

そうして時代の最先端から少し遅れていたために、80年代に70年代を感じ、90年代になってから80年代を意識したのかもしれない。例えば、80年代前半に目撃した学校の文化祭では、「翼を下さい」を歌いながら風船を飛ばしたり、キャンプ・ファイヤーを囲みオクラホマ・ミキサーのフォークダンスを踊ったりしていた。どう見ても80年代よりも前の音楽や行事が、むしろ鮮明な80年代の記憶として残っている。

その一方で、音楽、テレビ、本などのメディアの世界は、次々と新しい時代を紹介し、またFM放送局の増加、衛星放送の開始、新雑誌の創刊などで、メディアが多角化し、また高速化するほど、情報として入ってくる最先端の文化と、目前に見ている旧時代の文化とは、異文化といいたくなるほど断絶して感じられた。つまり一方では70年代を引きずる学園生活に浸りながら、他方で、80年代をメディアを通じて傍観していた。

断絶と混濁。社会には多様な文化がばらばらにあり、それでいて混ざり合っている。外国文化と自国文化と安易に対立された、いわゆる異文化という横の関係だけでなく、時代という縦の関係についても、同じことがいえるように思う。


3/9/2004/TUE

BILLY JOEL: The Essential Video Collection, Billy Joel, Sony, 2001

BILLY JOEL: GREATEST HITS VOLUME III THE VIDEO, Billy Joel, Sony, 1997
PHIL COLLINS SERIOUS HITS... LIVE! IN BERLIN, Phil Collins, Warner, 2003
Lionel Richie collection, Lionel Richie, Motown, Universal, 2003

1月にラスベガスとサンノゼを出張したときに買ったビデオ。なかなか見る時間がなく、見終わってからは、文章に残しておく時間が見つからなかった。放っておくと、はじめの感想と違う感想をもつことになるかもしれない。いまのうちに、最初の感想を書いておく。

先週書いた70年代論、80年代論にひきつけてみると、Billy Joelは70年代、Phil Collinsは80年代を象徴する音楽として、私のなかではそれぞれ大きな存在。

Billy Joelは70年代に聴いていたというより80年代に聴いて70年代を思い出していた、あるいは想像していたというほうが近い。“Essential Video Collection”では、聞き込んだヒット曲が網羅されていてうれしい。数年前に一度アメリカで買って持っていたけれども、いつの間にかキズだらけになったので、今回買いなおした。

ここから先、何度か書き出してみたのだけれど、どうしても書き続けられない。いまの私にとっては、書けないということを書いておくことも大切であるような気がする。言い訳ではない。例によってヘンゼルとグレーテルの残した石ころのようなもの。いずれ戻ってくるために、書きはじめたということだけを書き残しておく。


Billy Joel にしてもPhil Collinsにしても、ある時代を思い出すといっても、今、聴いても新鮮な音楽。映像も斬新で、少しも古臭いところはない。

Lionel Richieの場合、音楽に特別な古さは感じないけれど、ビデオ・クリップは古くて、クサイ。髪型、衣装、振り付け、化粧、視線、仕立てられた芝居の展開、演出、どれもが古臭い。こういうところでも、80年代に70年代が残存しているようにみえる。

確かに隔たった時代には断絶としか言いようがない違いを感じることもある一方で、人々は連続して生きている以上、前の時代の雰囲気が新しい時代のなかでしゃっくりのように突発的に甦っているのではないか。

そう感じるのは、Lionel Richieが、70年代に在籍していたThe Commodooresの音楽を引きずりながら80年代を生きていたからだろうか。“You Are”も“All Night Long”も、“Balellina Girl”も、私にとっては、すべて80年代の記憶。それが、いま、聴きなおし、見なおしてみると、透き通った奥に70年代の音と映像が感じられる。

5/12/2004/WED追記

ビリー・ジョエルの誕生日に彼について少し書いた。


3/10/2004/WED

昨日の荒川洋治。「里」(さと)について。里は人々が暮らす場所。都会からは離れている。自然によりそう人里。

最近、「里山」だけでなく、「里海」や「里川」を主題にした本が相次いでいる。「里海」「里川」は、「里山」にヒントを得た造語。生活の匂いのする自然、または自然に密着した暮らしを指す。

荒川自身は、「里文」を造語する。身近な場所、そこで暮らす人々を写生する文学。「さとぶん」ではしっくりこない。「詩人らしくないですね」という森本のツッコミあり。即座に「さとふみ」に改称。これから花見の季節。遠いところではなく、身近なところへ出かけてみたら、かえって発見があるかもしれない。

田山花袋『田舎教師』が、また紹介されていた。紹介された正宗白鳥の作品名は書きそびれた。

荒川は、人々の暮らしや失われるかもしれない自然の風景を描写するところに、文学作品の存在理由があると以前から主張している。「さとふみ」という概念も、その延長にあるとみていいだろう。

最近、国木田独歩『武蔵野』をはじめて読んだ、といっても書店でさらっとと立ち読み。現在の小金井公園近辺のことが書かれている。描かれた風景も、茶屋も、店員も、もうそこにはない。読んでいると、昔の様子が目に浮かぶ。

写真や録音は、確かに現況をそのまま記録する。とはいえ、その場合でも撮影者や録音者による解釈の余地がないわけではない。文章による記録ではさらに、どれほど写実的にしようとしても、書き手の解釈を通じた表現でしかない。それだけに、その時代に生きた目でとらえ、写した生々しい記録にもなる。

森山啓『谷間の女たち』(新潮社、1989)を読み終えた。書評を書くのは、しばらく先になりそう。この小説も「さとふみ」の一つといえる。大正時代の北陸の風景、そこに生きる女性たちの容姿や服装や話し方が鮮やかに描かれている。小説家を志すようになった旧制高校時代から、森山は身近な人々の会話を記録に残していたという。

私の文章には、風景描写や会話文が極端に少ない。もっとそうした文章を書くべきではないか、それともそうした文章を探して読むべきか。忘れてしまいそうな音楽やテレビ番組のことを、少しずつ書いている。それは、忘れられていくある時代を写し取ることになっているだろうか。

ところで先週の日経新聞、詩人山之口貘を紹介する記事で、山口について一言する荒川が、現代詩作家と紹介されていた。現代詩作家とは荒川が自分を卑下する自称であって、他人が使う呼称ではない。ここでは一言を依頼しているのだから、荒川が尊称と考える詩人を使うのが正しい。記事に署名はなかった。たった一言で、記者が荒川に対する予備知識が何もないまま記事を書いていることがわかる。

森本毅郎は、必ず「毎週火曜日のゲストは、詩人の荒川洋治さんです」と紹介する。いたずらっぽくツッコミを加えるときですら、「詩人がそんな表現でいいんですか」となる。


3/11/2004/THU

黒い髪、黄色い肌で、日本語を流暢に話していても、日本国民とは限らない。金髪で青い目でも、日本語が達者でないとは決めつけられない。誰かが日本語で「新聞をください」と言ったら、それは、日本語の新聞をくれという意味

そう頭でわかっていても、なかなかそのように振舞えるものではない。街中で身体の大きな白い肌の人にぶつかると、つい“Excuse me”と口をついて出てしまう。相手が英語を話すとは決まっていないのに。白人=外人=英語というあまりにも短絡的な図式。短絡的とわかっていても、抜け出すことは簡単ではない。

以前、京都のホテルであった出来事。ロビーから部屋へあがるエレベータに乗ろうとしたところ、ちょうど扉がしまりかけていた。小走りになり、飛び乗る。扉のわきに立っていた背の高い人がボタンを押して開けていてくれた。

「間に合ったネ」と、その人。流暢な日本語に驚いたけれども、あわてていただけに、いつもの図式が頭の回路をまわる暇さえない。「助かりました」と私。相手も少し驚いた顔をしている。

そのあと、二人とも何となく黙ってしまった。日本語を話しかけて、日本語でかえってきたことに、驚き、喜んでいることはわかった。何か話しかけたい。きっと話は弾むはず。そう思っているうちに、扉は開いて、彼は目くばせをして降りていった。

幼い頃からの日本語話者でありながら、自分の母語のつたなさが情けなかった。


3/12/2004/FRI

以前、欲張りなスタイルについて書いた。欲張りなスタイルとは、作品の中に人間の多面性を節操なく盛り込もうとする結果、かえって人間性の深みを表現できないでいることを意味する。欲張りなスタイルは、表現において欲張りであるくせに、実は、内容においては平板になっている。だから、欲張りなスタイルの作品ばかり読んでいると、深い読みではなく、浅い読みしかできなくなる。一つの作品から、一つの主張しか読み取れなくなる。

二年前『小林秀雄全集』をまとめて読んだ。その時、小林秀雄の文体が生真面目で、ユーモアがなく、息苦しいようにはじめは感じた。それが、読み進めるうちに、堅苦しい文章のなかに小林なりの韜晦や、温もりが感じられるような気がしてきた

それは、小林が年齢を重ねるうちに人間性を深め、それが文章の深みとなったせいでもある。それにあわせて、私の読み方も文章に人間性の深みを感じられるように促されていったように思う。全集をひととおり通読してから、もう一度若い頃の文章を読んでみると、若い、というよりむしろ青臭い、さらには殺気だったとさえいえる文章に、晩年の文章に滲み出てくる飄々としたところが、何となく感じられるような気がした。

ただの気のせいかもしれない。そうだとしても、堅苦しい文章は堅苦しい人間を表わしているのではない。堅苦しいスタイルにすぎないということだけはわかってきたように思う。明快なスタイルの奥底にある複雑多様な人間性を読み取ることができなければ、文章を深く味わうことにはならないだろう。もちろん明快なスタイルに深い人間性を投影できなければ、よい文章とはいえない。

つまり、よい文章にはスタイルと思想が両立されている。いや、違う。思想、すなわち奥深い人間性は、ある明快で、限定された形式を求める、そして思想が形式をまとったとき、スタイルを帯びた作品となる、というべきだろう。


3/13/2004/SAT

NHK少年ドラマシリーズのすべて(1972-1983)、増山久明編、アスキー出版局、2001

放映されたすべての番組についての詳細な資料。放映期間、原作、出演者など。

強い印象が残る作品は、「なぞの転校生」「つぶやき岩の秘密」、「未来からの挑戦」、「困ったなァ」、そして、「星の牧場」。「星の牧場」に千住真理子が出ていたことは知らなかった。

放送期間をみてみると、「なぞの転校生」が放映された頃は、小学校にもあがっていない。ほんとうに見た記憶なのだろうか。中学生になって原作を読んだときの記憶や、あとからビデオで見て補強された記憶ではないだろうか。

しかし思い返してみると、後でビデオを見たときにも筋書きだけでなく、映像に対して懐かしい気がした。「なぞの転校生」に出てくる「ボクはケンカがダイキライなんだ」という台詞や首筋の黒い印、「つぶやき岩の秘密」の主題歌「遠い海の記憶」なども、はっきり覚えていた。むしろ筋書きは、あとから原作を読んで理解したのだろう。

少年ドラマシリーズは10年以上にわたり放映され、作品は99編にのぼる。私の記憶に残っているのは、ほんの一部にすぎない。覚えている作品しか見なかったのか、ほかにも多くを見ていたけれども、覚えていないのか、はっきりしない。

十代のころは、よくテレビ・ドラマを見ていた。NHKでは「銀河テレビ小説」「ドラマ人間模様」。『素直な戦士たち』や『ぼくは12歳』は、このシリーズで見た。父親の高史明役は愛川欽也だった。

少年ドラマシリーズではないけれども、NHKのドラマでは、唐十郎原作「匂いガラス」も記憶に残る。郊外の住宅地、木造校舎、謎めいた展開など、少年ドラマシリーズの空気に似ていた気がする。


3/14/2004/SUN

ちひろ美術館・東京、練馬区

この美術館へは、二十年前に来たことがある。その時ははまだ、いまのように完成された美術館ではなく、いわさきちひろが暮らした住宅の一部がそのまま公開されているような場所だった。横浜に住んでいた私が、自分だけで新宿より先へでかけたのははじめてだったかもしれない。大人になって、近くに住むようになってからも何度か出かけた。数年前に改装のため閉館になる前に訪れて以来、新しい建物を訪れるのははじめて。

思い返せば、女の子を誘って二人で電車に乗って出かけたのも、そのときが初めてだったかもしれない。その4年ほど前、小学六年生のゴールデンウイークには、男友だちと女の子二人を誘い、4人で藤城清治の影絵劇『銀河鉄道の夜』を見に行った。

そのときの3人とは、今ではまったく音信不通


今回は、敗戦直後、安曇野で過ごしていた頃の素描などが展示されていた。安曇野に「ちひろ美術館」ができたことは知っていたけれど、彼女自身が信州にゆかりのある人とは知らなかった。ちひろは福井県武生で生れたことも、はじめて知った。

復元された仕事場のわきに大きな文字で掲示された「大人になるということ」という文章に目が止まった。「私は二十年間地道な努力を重ねてきた」ということが書いてある。併設された図書室で、病気がちになった五十代に描いた『戦火のなかの子どもたち』(岩崎書店、1978)を読む。長く地道な努力の末にたどりついた、簡潔な表現。

敗戦後ある時期までの反戦・平和運動には、戦争を直接体験した人々の実感が礎になっていた。そのために純粋であり、またそれゆえに政治的、組織的にはもろくもあったように、戦後生れの私にはみえていた。

『戦火のなかの子どもたち』では、頼りなく、薄れていく体験と実感が、作品のなかにぎっしりと結晶化されている。政治的ではない、政治の表現。とはいえ、彼女の作品まで政治的に利用しようとする人たちがいることも、私は知っている。


改装され、展示が見やすくなったほか喫茶室と売店もきれいになった。美術館には、おいしいコーヒーを出す喫茶室がほしい。今日は、キッシュとコーヒー。ここではワインとビールも飲める。これもありがたい。

売店では絵本の古典、モーリス・センダック『かいじゅうたちのいるところ』に登場する男の子マックスのぬいぐるみが売られていた。ちゃんと狼の衣装を着て、しっぽも生えている。買って帰りたい絵葉書や本もたくさんあったけれど、決められず手ぶらで帰った。


3/15/2004/MON

20年前の秋、なぜ「いわさきちひろ美術館」へ行こうと思いたったのか、まったく覚えていない。いまでは『あかちゃんのくるひ』(武市八十雄案、至光社、1970)や、『もしもしおでんわ』(1970、松谷みよ子文、童心社、1994)をもっている。子どもが生れたときには記念に絵皿もいただいた。ちひろが挿絵を描いている松田道雄『育児の百科』(岩波書店)もずっと参考にしている。決定版の全集『ちひろ美術館』(講談社、1997)も、第一集「1 春のよろこび」「2 花のパレット」のセットだけは持っている。

そうしたものは、あとから買い揃えたもの。いわさきちひろを最初に知ったきっかけが思い出せない。長いあいだ『あめのひのおるすばん』(武市八十雄案、至光社、1968)と『はじめてのおるすばん』(しみずみちお文、山本まつ子絵、1977)とを混同するくらい、はっきりちひろの絵が好きだと自覚していたわけでもない。『あめのひのおるすばん』は数年前、「ちひろ美術館」で『ゆきのひのたんじょうび』などと一緒に初期作品の原画を見たときに、はじめて知った。

ひょっとしたら黒柳徹子『窓際のトットちゃん』(講談社、1981)かもしれない。大ベストセラーになったこの本は読んだ記憶がある。緑色の水玉模様の少女の表紙絵も覚えている。出版年は、私がちひろ美術館へ出かけた年の数年前で、つじつまは合う。

60年代にちひろは精力的に活動し、70年代初めには病に倒れ、亡くなってしまった。美術館は1977年開設という。「トットちゃん」はそのすぐあと。これという作品でなくても、私の幼い頃の暮らしには、ちょっとした読み聞かせや雑誌の挿絵など、身近なところにちひろの絵があったのかもしれない。

ちひろの生涯と美術館の成り立ちについては、本も沢山あるらしい。それを読むと、ちひろとの出会いを思い出すかもしれない。


3/16/2004/TUE

少年ドラマシリーズについての続き。

少年ドラマシリーズの記憶は三層からなる。小学生になる前に放映を見たおぼろげな記憶と原作の本を読みあさった中学生のときの記憶、そして「なぞの転校生」「つぶやき岩の秘密」をビデオで見た学生のときの記憶。

ふと気づいたこと。その間に大林宣彦の映画がある。『転校生』、『時をかける少女』『さびしんぼう』。いわゆる尾道三部作の第一部。これらの映画の原作は山中恒、筒井康隆で、少年ドラマシリーズと重なる。「時をかける少女」は、まったくのリバイバルといっていい。これら大林作品が上映されたのは80年代中ごろ。しかしスクリーンには、一昔前の少年ドラマの時代の空気が映し出されていた。

どういう経緯で、70年代初めのテレビ・ドラマと同じ原作や同じ作家の作品が、80年代初めの映画に採用されるようになったのか、よくは知らない。ともかく、これも80年代に生きていた、あるいはよみがえった70年代の残り香であることは間違いない

同じような学園風景でも、もう少しあとで、90年代に入ってからスタジオ・ジブリ制作のアニメ『海がきこえる』や映画『耳をすませば』を見たとき、そこに流れる空気が、かつて見た少年ドラマシリーズをはじめとする学園ドラマとは、だいぶ違っているように感じた。

さらにほんの二年前、なにげなく手にした泉啓子『シキュロスの剣』(童心社、2002)を読んだときには、子どもをとりまく世界が私が子ども時代を過ごした70年代とはまったく変っているような気がした。


3/17/2004/WED

昨日の荒川洋治。卒業式の季節なので、先生について。卒業式で先生は隅にいる。少しさびしそうにしている。

荒川にとり思い出の先生は、中学校時代のT先生。板書も下手で、知識もあやふや。それがかえって、子ども心にしっかりしなければ、という思いにさせた。最近になり別の先生が、当時は苦手だったけれど、それはT先生のよさがわからなかったからかもしれないと述懐していた。

先生の登場する名作。国木田独歩「富岡先生」。

学校を出ると、先生がどうしているか、気にとめない人が多い。病気になったり、亡くなったりしたときに気づく。先生はずっと先生をしていることには、なかなか気づかない。


学校という建物はそれほど嫌いではなかったし、思い返してみれば、いまでも先生と呼びたくなる教員にも何人か出会っている。八木重吉谷川俊太郎、高村光太郎、山村暮鳥。そうした名前を教えてくれたのは、小学三年生のときの受け持ちの女性だった。

青森で生まれ、岩手の学校を出たばかり、まさに「熱中時代」の人だった。川端康成『掌の小説』を教えてくれたのは、高校三年のときの担任。いつでもアメリカン・トラッドのスーツを着ていた。

彼らは、いまどうしているだろう。荒川のいうとおり、学校を出たあとの自分は知っていても、生徒が卒業したあとの先生のことを、卒業生はほとんど知らない。礼知らずで筆不精の性格がうらめしい。

書評「森有正エッセー集成3」を剪定。段落をページ区切りに合わせた。私が触れてきた教養主義の一端に戦後の啓蒙的な絵本があることを追記した。


3/18/2004/THU

昨日は聖パトリック祭。アイルランドのカトリック教会の礎をつくった聖人を祝う祭日。アイルランドでは、一年で最も盛大な祭日らしい。私の場合は1988年、ニューヨークでSt. Patric Cathedral前のパレードを見て知った。生まれてはじめての海外旅行だった。聖パトリック祭は春の到来を祝う祭でもあり、誰もが何かしらの緑色を身につけていた。何ももっていなかった私は、聖堂前でもらった緑色のバッジをつけた。

ニューヨークには、それから訪れる機会がない。だから、そのときの印象がいまでも鮮明に残っている。それまでに訪れたワシントンD.C.とボストンでは、ずっと現地のレストランで食べた。ファーストフードでも、日本に展開していないところを選んで食べた。どこでもうれしくて、店員に写真を撮ってもらったりもした。

ニューヨークでは和食レストランへ行ってみようと思っていた。「青い目のガイジン」が不器用そうに箸を使いながら食べる姿を見てみたい。今から思えば、浅薄な思いつき。実際には、そろそろ醤油味とかつおだしが恋しくなる頃でもあった。

店内では、さまざまな肌の色、目の色、髪の色の人々が、ごくふつうに箸をつかって食べている。何もおかしなところはない。通りには回転寿司もあった。もはや日本食は、ゲテモノでも、ブームでもない、ふだんの食事の一つであることに気づいた。そういえば私もふだんからイタリア料理もタイ料理も食べる。それでもメニューをみてみると、どれも東京と比べても、ほかのレストランと比べても、少し割高にみえる。

確か、カウンターに座って食べていた。どういうきっかけだったかは覚えていないけれども、隣りの一人客と話しはじめることになった。ハヤシさんというハワイ出身の日系二世だった。会話は英語。仕事でニューヨークへ来ているのだと言う。何を話したのかも、覚えていない。おそらく、初めて合衆国へ来た興奮を一方的に語ったのではないか。

“You are a guest to my country.”

微笑みながらそう言うと、彼は私の伝票を取り上げ、自分の分と一緒に支払いをすませた。そして、これから芝居を見に行くと言い残し、ネオンさざめく通りへ消えていった。連絡先ももらわなかった。きちんと礼を言えることができたのかも、はっきりしない。驚きとうれしさに、しばらく通りにぼんやり立っていたことだけは覚えている。

三月には、よく旅行をする。南京へ行ったのも、石垣島で過ごしたのも、三月のこと。学校を出てからでも、パリのマレ地区を歩いたのも、新薬師寺近くの奈良写真美術館へ入江泰吉の写真を見に行ったのも、三月だった。ハヤシさんの思い出も、三月の旅の思い出の一つ。

おそらく、合衆国を見た感動をつたない英語で話す私を、ハヤシさんは初々しく感じたのだろう。「あなたは私の街へのお客様です」。そう言える機会には、これまでまぐまれなかった。いつか、そんな出会いがあるだろうか。それまでに、誰かの素朴な感動を、初々しいと受け止められるようになっておきたい。


3/19/2004/FRI

金沢 1953 岩波写真文庫<復刻ワイド版>(1953)、岩波書店編集部編、
松本三都正監修、岩波映画製作所写真、岩波書店、1988

書評「谷間の女たち」ほかを植栽。

引き込まれてすぐに読み終えてしまったわりには、書評を書くには思いのほか時間がかかった。この本については、このままずっと何も書けないかもしれないと思ったくらい。実は、いつでもそう。読み進めることが堪えがたい本や、一章ごとにメモをとらなければ把握できない論文集などは、読後感をまとめることは意外とたやすい。読後感というよりなぜ読みすすめるのが辛いのかを考えたり、各章の要旨をまとめたりさえすれば、とりあえずの覚書にはなる。

やっかいなのは、やすやすと読めてしまう本。文章が多少読みづらくても、『森有正エッセー集成』のように、一息に読んでしまう本もある。こういう本の感想は難しい。なぜ、やすやすと読みきってしまったのか、文章が難解であればなおさら、自分でもよくわからないから。

さらに恐ろしいのは、そうしてあっさり読み終えた本に限って、後々、思いもよらないところで自分をとらえた核心が鮮やかに甦ってくること。それに気づけば、まだいい。たいていは、知らず知らずにそういう本から影響を受けたままになる。

優れた本は、心に残る本。リボンを結んだプレゼントの箱にしまった時限爆弾。読みきってしまった本を忘れることはほとんどできない。埋め込まれた爆弾を取り除くことはできない。できることは、自分で発火装置を解除すること。

批評とは、無言の感動のなかに埋め込まれた導火線を探しあてて、言葉のはさみでぷっつり切り落とすことと言えるかもしれない。切り落とした導火線は、ふいにまた別の線とつながる。そうして見たこともない、怪しげな光や煙をたてる。

ところで、金沢には夜泊まっただけで何も知らないので、敗戦直後の金沢を撮影した小冊子を図書館で借りて併読した。荒川洋治は、地図を見ながら小説を読むことをすすめる。行ったことのない、しかも過ぎてしまった時代の小説を読む場合には、往時をとらえた写真集や絵画集が役に立つ。


3/20/2004/SAT

表紙を廃止し、目次を先頭ページに変更。正確には、目次のファイルを廃止し、先頭ページのファイルに目次を移動させた。もともと「庭」は本の形態を模して作りはじめた。初めに表紙を置き、口絵とはしがきを入れた。表紙とは別に目次を置き、いわゆるエピグラムを入れてある。

「庭」を更新したり、他のサイトを見たりしているうちに、ウェブサイトは本よりも簡潔でなければならないとに気づいた。裏を返せば、本は空間に関してずっと贅沢なつくり方をしている。表紙の前にもカバーがあり、その間には何も印刷されていないページもある。それを一枚ずつめくるところにも、本を読む楽しみがある。

ウェブサイトの閲覧はずっと直接的。表紙から順繰りに本文をたどることがまずない。行き慣れた場所では、表紙ではなく、更新履歴や、よく読む日記のページに栞が挿してある場合が多い。そうなると、栞のあるページより浅い所にあるページは変更されても気づくことがない。私自身、目次は植栽があるたびに目を通すけれども、表紙は写真を変更するとき以外、見ることがない。

そこで、目次に表紙写真とはしがきを盛り込むことにした。写真の更新もしやすくなるだろう。

ほかに、目次から本文に移動する際に、すべて1ページ目が正確に表示されるように変更し、表紙の色を桜色に、表紙写真を「桜一分咲き」にした。


3/21/2004/SUN

森山啓「谷間の女たち」を通じて取り組んだ自伝的小説という形式は、告白と言い換えることができるのではないか。富松保文『アウグスティヌス <私>のはじまり』(シリーズ・哲学のエッセンス、NHK出版、2003)で知った概念。以下、自分の残した覚書。

アウグスティヌスのいう告白は、優れた人物の生涯を客観的に描いた伝記とも、自分の経歴を主観的に羅列する自伝とも違う。伝記の対象が個人とすれば、自伝は主体、告白は自我を対象とする。告白は、自分と他人、自分の精神と身体、そういった違いに無関心ではいられない。それらの境界に注意を向ける。だから告白は、独善になりえない。これまで出会った、また考えた言葉で置き換えれば、反省、自己批評などが告白に近いだろう。

もっとも、森山の自伝的小説は、神の前で行うキリスト教的な告白とは異なる。一体、何に対して、誰に対して、彼は小説を書いていたのだろうか。出版を通じて大衆、または一般読者に向けてだろうか、あくまで自分自身に対してだろうか、それとも小説にも登場する、もっとも大切にする妻や息子たち、家族に対してだろうか、あるいは、もう二度と会うことも、書いた小説を読むこともない自死した母や夭折した親友、病死した愛児ら、過ぎていった人たちに向かってだろうか。

私には、最後の対象が、それ以外のすべてを含んでいるように感じられる。いまは、それ以上の説明はできないけれども。

けっして読むことのない過去の人々に向けて書く。言葉のうえでは、まったく不合理で不可能なこと。けれども、何か考えるきっかけになりそうな言葉遣いでもある。

ふと、思い出したのは、森有正のいう「過去相に生きる」という概念。この間に何らか関係があるだろうか。後ろ向きに立ち、後ずさりしながら前へ進む。今までに似たようなことを何度か考えたことがある。言葉では表現できても、内面的な実感、確信がない。


3/22/2004/MON

森山啓の小説を読んで気づいたこと。優れた小説は、現実の一部を強調してみせる拡大鏡ではなく、現実のすべてを覗くことができる針穴のようなもの。

考えてみれば、文芸だけではない。学問にしても音楽にしても、絵画にしても芝居にしても、マンガにしても漫才にしてもスポーツにしても、優れた表現は、その世界だけしか感じとれないものではなく、世界のすべてを体感できるもの。しかし逆説的ではあるけれども、世界のすべてを体感するために、その世界の中で完結していなければならない。針穴から世界のすべてを覗くとは、そういうこと。

これまで、小説とは何かということをまったく理解しないまま、小説と呼ばれるものを読んできたような気がする。自分では、エッセイや随想のように一人称で直接的な文章を好んでいると思っていた。小説より心に響くと思っていた。それは、小説が嫌いというより、小説がわかっていなかったせいだろう。小説がわからないでいるのは、直接的な表現ばかり読んできたからではないか。針穴から世界を見渡す練習が足りないのではないか。単に嗜好性の問題とは言い切れない。

3/25/2004/THU追記

優れた小説が備えている、もう一つの条件。それは針穴を通して世界の全てを見せ、さらにそれを通じて、作者の内面世界だけでなく、読み手に自分の内面世界の広がりを感じさせる『森有正エッセー集成5』のなかで、晩年の日記にも引用されていたプルースト『失われた時を求めて』の最終巻は、これら二つの条件についての深い考察。


3/23/2004/TUE

欲張りなスタイルと多彩なスタイルは違う。多彩なスタイル、という様式は、ありえる。多彩なスタイルのもっとも顕著な例はマンガ。『ブラック・ジャック』にしろ、『ガラスの仮面』にしろ、『エースをねらえ!』にしろ、深刻な主題、深刻な展開の物語でも、どこかにオチやギャグが挿入されている。とりわけ手塚治虫の場合、スパイダー(「オムカエデゴンス」)、ヒョウタンツギなど、ギャグを息抜き以上の、欠かすことのできない脇役にまで育て上げた点で目を見張る。

これらは、物語に緩急をつけることで、かえって展開を緊張感の高いものにしている。欲張りなスタイルは、こうした配慮とは違う。といっても、どうもうまく説明ができない。

欲張りなスタイルは言い訳、またはわかってくれ、くれるだろ、という作者の身勝手な思い込み。とりあえずは、そう言っておく。言葉なら言葉、絵なら絵、マンガならマンガで表現し尽くさなければならないところを、途中であきらめて、「もうわかってくれるでしょ」と受け手に甘えはじめたとき、スタイルは欲張りになる。

思い切って話を飛躍させる。大衆文化が大衆的である理由は、多彩で緩急織り交ぜたスタイルにある、教養文化のスタイルの特徴は、スタイルの一貫性、単色性にある。そうは言えないだろうか。

緊張感高い物語を緊張感の高い様式で表現するのが、教養文化のスタイル。これも一つのスタイルのあり方ではあるとしても、誰もがそう表現できたり、そうしたスタイルを受け止めたりできるものではない。送り手も受け手も、高度な鍛錬を必要とする。

多彩で、緩急にメリハリのついたスタイルは、受けとりやすい。流れていくようでいて、受け手の心に砂金を残す。受け手には、単調なスタイルに耐える厳しさは必ずしも必要ない。ただし、送り手には、ある意味では、単調なスタイル以上の鍛錬が必要かもしれない。

そして、受け手にしても、自分が送り手になる場合、つまり見つけた砂金を手持ちの品に貼りつける、つまり、自分の作品や行動として表現しようという場合には、かなりの自覚と鍛錬が必要になる。

要するに、教養文化であろうと、大衆文化であろうと、一人の人間の表現として考えた場合には、同じところへ行き着くのではないだろうか。


3/24/2004/WED

昨日の荒川洋治。文庫、新書の巻末にある発刊の辞。

岩波文庫、岩波新書、講談社現代新書、講談社学芸文庫、角川文庫、光文社カッパ・ブックスなど、老舗は、いまも全数掲載しているものが多い。新しい文庫、新書には発刊の辞そのものがないものもある。全体としては、徐々に減っている傾向。

理由は、似たような文庫、新書シリーズが多く、独自性を打ち出しにくいし、打ち出せていない。硬質な宣言を、時代も求めていないし、出版社も掲げたがらない。要するに時代のソフト化にあわない。巻末には、代わりに他の本の広告が入ることが多い。広告のほうが大事だと思われている。

発刊の辞には硬質な宣言が多いなか、放送で紹介されたカッパ・ブックスの言葉は、洒落っ気のなかにしたたかさが感じられる。カッパ・ブックスは、多胡輝『頭の体操』や栗本慎一郎『パンツをはいたサル』などを出した、現在隆盛するワン・テーマ、時事ネタ、サブ・カル系新書の先駆といえる。創刊の辞も、それらしい。

本題から離れるが、最近の「バカ」ブームには、往年の「頭の体操」ブームに近い空気を感じる。多胡輝は心理学者。「頭の体操」は、自分では気づきにくい心の落とし穴を利用したクイズ集。ベストセラーになり、何冊も続いた。私の家にも何冊かあった。

ただし、両者には決定的な違いもあるように感じる。片や、カッパ・ブックス、片や、老舗文芸出版社の新興新書シリーズ。クイズという大衆的、サブ・カル的な形式を通じて心理学を啓蒙したところに『頭の体操』のヒットの要因があった。『バカの壁』は、もう少しお高く止まった感じがぬぐえない。

それは、著者個人の問題というよりも、世の中の受け止め方の問題のように感じる。東大名誉教授「だけど」、面白い、わかりやすい、そんな風にとられていないか。そんな風に感じるのは、過ぎ去ったはずの教養主義の残滓が出版業界に残っているせいか、それとも私自身に残る学歴意識のせいか。

多胡は、本のブームが去ったあとも、長いあいだニッポン放送『高田文夫のビバリー昼ズ』の中で、「ラジオ・頭の体操」のコーナーに録音出演していた。そのコーナーは今、北野大が担当している。解剖学者は、きっと似合わない。


3/25/2004/THU

PEARL PIERCE、松任谷由実、東芝EMI、1982

大阪泊。

ユーミンのアルバムは、いつでも、どれかをクルマに載せているので、定期的に聴く。このアルバムのことは、すでに何か書いた気がしていたけれども、『14番目の月』について書いたときに、「消息」についても一言ふれただけで、アルバム全体については何も書いていなかった。

ユーミンのアルバムは、多彩なものが多い。多くの場合、同じアルバムのなかに、静かな曲もあれば、にぎやかな曲もある。短編小説のように具体的な風景が目に浮かぶようなラブ・ソングもあれば、恋愛とは少し違う、いわば内面的な思索を、抽象的な言葉でつづった歌もある。このアルバムは、どの曲も雰囲気が似ているという点で他のアルバムとは違っていて、かえって目立つ。晴れた日に運転するには、ちょうどいい。

「私のロンサム・タウン」は、初めて聴いた頃には何とも思っていなかったのに、最近になって気になりだした曲。旅仕事を続ける歌手の、旅先でのひととき。歌詞のなかで明示されてはいないが、「錆びた船がナホトカに向けて遠去かる」という言葉があるから、場所はおそらく新潟。

ツアーを続ける歌手が、旅を続ける心境を歌うことは珍しくない。いま思いつくのは、Simon & Garfunkel, “Homeward Bound”(Central Park Concert, SONY, 1982)や、浜田省吾「ミッドナイト・ブルートレイン」(『イルミネーション』、SONY、1978)など。

ああ いつから 速い列車 乗り継ぎ
ああ あるとき 年とってなつかしくなる 私は誰?

この歌の斬新なところは、未来の自分から現在の自分を振り返る視点を、いま、歌うところと、その視点をもつ主体を謎かけにしているところ。もちろん答えは、この曲を聴く人からすれば松任谷由実以外にない。けれども、歌っている本人にとってはどうだろう。今の自分か、未来の自分か、歌っている自分か、聴いている自分か。

こんな終わりのない思索が、何気ない風景とさりげない音楽に溶け込んでいる。今まで聞き流していたのも無理はない。

2月19日の日誌に書いた森山啓の評論についての雑評に加筆し、縦書にして植栽

書評「ちひろ美術館ものがたり」を植栽。3月15日の日誌の続き。


3/26/2004/FRI

今年になって読んだ小説の二冊、山口瞳『江分利満氏の優雅な生活』森山啓『谷間の女たち』には共通点がある。それは、生き残ってしまった後ろめたさ。

山口は、最終章「昭和の日本人」で、戦争で死んだ人たちについて、「殺したのは江分利自身である」と書いて、自分を責める。森山も、幼い頃に母が自ら命を絶ったのは自分を看病していた極度の疲労のためだったと、自分を責める。彼は後に、第一子が金沢で病死したことを東京で知ることにもなる。

生き残った後ろめたさは、森有正の『エッセー』を貫く旋律でもある。最初に書かれた「バビロンの流れのほとりにて」は、戦争に散った若い命が直面したであろうdésolationとconsolationについての考察から始まる。

なぜ、生き残ったことに後ろめたさを感じるのだろう。なぜ自分ではなく、彼らが選ばれたのか。そんなことを考えても、何も始まらない。生き残ったことは偶然にすぎない。だから、与えられた命をまっとうするほかないではないか。まったく、その通り

生き残ったことが偶然と認めるということは、実は生き残ったことが必然だったと認めるということ。彼らには「偶然に」選ばれる「必然」的な理由があった、ということになる。そう考えると、偶然だったと認めることはそれほど簡単なことではない。

偶然は必然。これもまた、森有正が繰り返し考え、文章にした概念。最近読み返している「砂漠に向かって」(『森有正エッセー集成2』)のなかで、彼は自分が渡仏したことについて次のように書いている。

 私に就いて言えば、自分はヨーロッパへきた。それは何ごとかを学ぶ為ではなくて、「必然」(原文傍点)のなり行きからだった。私は「必然」(原文傍点)が呼ぶところ、何処へでも行くだろう。内的必然、と私は言いたい。しかしそれは、見方をかえれば偶然とすれすれであった。内的にさえも。(中略)つまり、この点に関しては、言うべきことは他に何もないのである。爾後、経験の「内実」だけが問題となる。(一九六七年六月十日)

直前に彼は、言葉を通じて「経験」に到ることはできない、経験が言葉を定義する、とも書いている。同じ巻の最初に収録されている「城門のかたわらにて」でも、「定義されるものはすでにそこにあるのであるから、言葉の意味の探求、あるいは説明は全く不必要である」とある(一九五八年七月五日)。

森の文章が示唆すること。偶然か必然かを問うことには意味がない。内実、森の別の表現でいえば経験の堆積、あるいは、もう少し具体的にいえば内的実感、そういったものを見出すことが大切。それを偶然と呼ぶか、必然と呼ぶかが定義。それをどちらで呼ぶかは、内実が決めることであり、言葉が決めることではない。言葉を換えれば、内的実感が、彼らの死を受け入れ、自分の生を受け入れることができなければ、どちらの言葉で表そうとそれは定義でもなければ、表現でもない。

ここで新たな問題が二つある。一つは、内実を言葉によって定義するためには、あらかじめ言葉が存在していなければならないということ。「はじめに言葉ありき」。確かにそうだろう。しかし、その言葉に音と字と、慣習的な意味はあっても、定義はない。

もっと深刻で実質的で、きわめて基本的な問題がある。偶然か必然か、いずれにしろ生き残った後ろめたさを定義するような内実にたどりつくことなど、果たしてできるのか。


3/27/2004/SAT

昨日のつづき。

生き残った後ろめたさというと、もう一つ思い返す物語がある。トルストイ「愛あるところに神あり」(『人は何で生きるか』、中村白葉訳、岩波文庫)。中学生の頃読んで以来、短いので何度も読む。

靴屋のマルツィンは、妻に先立たれ、一人息子も失い、息子を奪った神を恨む。それでいて、彼は息子のもとへ早く自分も連れて行ってほしいと神に懇願する。しかし、神は彼の期待とはまったく異なる姿で彼の前に現れ、彼の内実を変えていく。

この物語の最後には、マルツィンが妻と息子の死をどう定義したか、偶然と受け止めたか、必然と受け止めたか、それについては書かれていない。いや、遠まわしに、あるいははっきり書かれているのかもしれない。何度読んでも、私にはわからない。まったく読み取ることができない。

読解力の問題では、おそらくない。内実の問題に違いない。


3/28/2004/SUN

表紙写真を「公園の雪柳」に変更。

推敲と段落揃えを続ける。書評「森有正エッセー集成1」では、森の文章特有の「のである」の影響から初稿はまったく逃れられていなかった。形だけでも、独自のものにしておく。

ほかは書評「本を読む前に」を剪定。書評「魂の労働」のように結語の一段落だけが最終ページに表示される様式がうまくできると機嫌がいい。

同じように最終段落だけが最終ページにある批評「モグリとハート」も、文庫『ブラック・ジャック第5巻』を読みなおすことができたので、琵琶丸の台詞を修整。

第5巻には、印象深い話が多い。「刻印」では、幼い頃の親友、間久部に裏切られ、BJは重傷を負う。あとで逮捕された旧友にBJは「あれはお前の差金か」と問いただす。間久部は黒い眼鏡を外して「おれを信じてくれ」とBJをみつめる。

『コンプリート・ダイジェスト』では、「二人の友情は失われていなかった」と解説されているけれども、この解釈は誤りではないか。間久部は瞳の色を変える手術を受けていることが、冒頭で説明されている。つまり、間久部のほんとうの気持ちがどうであるのか、それはもう瞳を見ただけではわからない。BJはそれを知っていて、「悪いことをしたな」と冷ややかに去る。

手塚は手放しに人間礼賛をしない。友情についても楽観的に描かない。手塚治虫の人間観は、つくづく恐ろしい


3/29/2004/MON

一昨日のさらにつづき。

結末の意味がわからない話がもう一つある。ずっと前に見た映画『ジョーイ』(原題“Something for Joey”)。何度か見たことがあり、どこかにテレビから録画したビデオもあるはず。探したけれども、DVDは発売されていない。

白血病の少年ジョーイは、大学フットボールのスター選手である長兄ジョンに励まされ闘病する。ジョンは、大学フットボール選手の名誉であるハイズマトロフィーを受賞する。授賞式でのあいさつで、ジョンは弟が不治の病であることを告白する。そしてフィールドのうえでしか戦わない自分より、病気と闘い続けるジョーイの方こそ勇敢だと弟を称え、トロフィーを捧げる。

会場は感動に包まれ、祝福を与えるはずの牧師でさえ、「心の底からあふれる言葉を聴いたあとには、もはやその必要はないでしょう」と述べる。続くナレーションは、「もう母親は悩まなかった。そしてジョーイは数年後、亡くなった。」と語る。

ここがわからない。母親は、ジョーイを苦しめるような治療を止めたということなのか、それとも希望をもって、苦しい治療を続けたということなのか。どちらでもいいような気もする。どちらもありうる。どちらであってもいいけれども、どちらかであれば、もう片方は否定されなければならない。

私にはどちらでもないように思われて仕方がない。どちらの説明も、私には受け入れられない。偶然も必然も、まだ受け入れられないように。


3/30/2004/TUE

一昨日のつづき。

『ブラック・ジャック』には、整形や移植をしていない、生身の身体の大切さを説く話が少なくない。手塚治虫は、自分の身体だけが、自分の真意を表現できると考えているのだろうか。

整形手術の依頼を拒絶し、BJは杉並井草に素顔の大切さを諭した(「スター誕生」、新書第7巻、文庫第15巻)。整形手術の跡がはっきり残るBJの顔をみて、「でも、先生の目はすてきです」と杉並井草は言う。「これは私の目だからだ」と、BJは声を荒げる。こうした象徴的な場面に私は感動する。

その一方で、CADでぬくもりのある家は建てられないとか、筆でなければほんとうの気持ちは表せないという身体礼賛、機械不信には、私は苛立ちがかくせない。私は、矛盾しているだろうか。

いや、矛盾しているのは人間のほうではないか。そして、この矛盾は解決すべき矛盾ではなく、人間が人間である以上避けられない矛盾ではないか。とすれば、その矛盾がどう表現されているかによって、感動をもたらしたり、不満をかきたてたりしてしまうのではないだろうか。

何年も前に、丸山圭三郎の本をを熱心に読んだことがある。『文化のフェティシズム』(勁草書房、1984)や『生命と過剰』(河出書房新社、1987)で、彼は人間という存在は、自然+(-α)である、と論じている。自然と共生できる本能がこわれているという意味でマイナスでもなく、動物より一段高い能力をもっているという意味でプラスでもない。マイナスの何かがプラスされている。道具、もっと広く文化とは、そうしたものだろう。使い方によって、人間を動物以上にもし、以下にもする。

手塚治虫は、生身の身体による表現だけを正しいとする、いわゆる身体至上主義者ではない。『ブラック・ジャック』には、「海賊の腕」(新書1、文庫13)のように義手義足を単なる道具ではなく、人間の温かみの通った生身の身体の一部として描く作品もある。ほかにも、「二つの愛」(新書5、文庫1)、「なんという舌」(新書6、文庫5)のように、移植された他人の肉体をわが身のようにあやつる人も登場する。

また「その子を殺すな」(新書2、文庫12)では、科学や技術に基づかない素手だけを頼りにするあやしげな医術に、BJは徹底的に対抗する。彼自身素手では何もできない。メスは、医師ブラック・ジャックの一部分。

ちょうど夕べ、TBSラジオ「清水圭のスポーツBOMBER」に片山右京がゲスト出演していた。元F1ドライバーにして、現在はエベレストに挑戦する登山家、冒険家。ハイテクを駆使した超高速マシンを操縦し、自分の足で大自然を克服する。片山は言う。「マシンであろうと、自分の足であろうと、内面の葛藤はかわらない」。

人間を動物以外にする何かについて、片山はひとことで言い切った。負け続け、それでも挑戦を続ける冒険家のメッセージは熱い。


3/31/2004/WED

昨日の荒川洋治。リスナーからの質問。顔や身体にまつわる慣用句やことわざは、いつ、だれが作ったか。

ほとんどは、いつ、だれがつくったか、答えをつきとめることはできないが、なかには出所が明らかなものもある。「目には目を、歯に歯を」は「ハンムラビ法典」、「目から鱗」は新約聖書。

ほかにも、「後ろ髪をひかれる」は、高貴な女性が長い髪をしていた鎌倉時代以前に生れたと推測できる。「両手に花」は、井原西鶴の小説以降、使われるようになった。

慣用句は、時代とともに変化する。「足が棒になる」は、もとはすりこぎになるだった。充分意味が通じるし、語感がいいので、棒になったらしい。今の若い人にはすりこぎは通じないかもしれない。

「猫の手も借りたい」は、元は犬だった。犬より役に立たないようにみえる猫をもちだすことで、忙しさを強調する表現に成長した。

寝耳に水は、かつては寝耳にすりこぎ、寝耳に石火矢、とも言った。石火矢とは、鉄砲のこと。そういう表現が実感をもって使われた時代もあった。

身体や動物をつかった慣用句には、たいてい和語が使われる。わかりやすく、子どもでも直観的に理解できる。こうしたことから世代を越えて受け継がれるのだろう。

寝耳に石火矢。この言葉を聞いてとっさに思い出したのが、早朝バズーカ。日本テレビ「天才たけしの元気がでるテレビ」の一コーナー。高田純次が眠っているタレントの寝床を襲い、バズーカ砲(もちろん模型)をぶっ放す。いちばん笑ったのは、オスマン・サンコンを襲撃したとき。あまりの衝撃に、この回は評判が悪かったらしい。

こんなことを思い出したのは、やはりいかりや長介が亡くなった報道を聞いたからかもしれない。繰り返して放映される「8時だヨ! 全員集合」を見たせいで、ドリフのあと、どんな番組を見てきただろうか、と自問することになった。報道も、バラエティ番組の一時代が終わったという論調だった。

「8時だヨ」がまだ放映中だった1982年頃、学校での会話が変っていることに気づき、「オレたちひょうきん族」に乗り換えた。「ひょうきん族」が衰退しはじめた80年代末には、「とんねるずのみなさんのおかげです」に乗り換えた。「TVスクランブル」の後釜、「元気がでるテレビ」を見ていたのは、80年代末から90年代初めころまで。社長北野たけしが交通事故から療養しているあいだも番組は継続した。

「ガンジー・オセロ」「大仏魂」「パンチ・パーマ相沢会長」「ニューハーフ」「失恋バスツアー」「ワニ相撲」「半漁人」「幸福の黄色いハンカチ」「ダンス甲子園」「なりきり高校生」「湘南マタンゴ娘」「浦安フラワー商店街」「素人の金さん」などなど、この番組は記憶に残る場面が多い。いずれ、また書く機会があるかもしれない。

90年代に入ってからは「世界まる見え!特捜テレビ」。笑わせる文章を落ち着いたナレーションで読み上げる構成が面白い。記憶に残る場面は、ラサール石井の幼い頃の写真とジェスチャー・ゲームでたけしが演じた西表ヤマネコ。石井との掛け合いがおかしかった。

この場面は、後々の特番でも再利用されている。テレビを見て、一番笑ったのはこのときかもしれない。あるいは、何年か前、大晦日に見た野球拳でラサール石井が最後に登場したときかもしれない。ラサール石井の動きは、私の笑いのツボによくはまる。

番組はいまでも続いているけれども、子どもが「レスキュー911」を怖がるようになって見ていない。

2月18日の日誌に追記。

随筆「絵本の選び方、読みきかせかた」を剪定。マンガのような絵本を批判した後、「もちろん、成長とともにマンガも読むようになるだろうし、そのために練習となるようなマンガ絵本があればありがたい。」の一文を追加。この一文は、武田美穂『となりのせきのますだくん』シリーズ(ポプラ社)を指す。この絵本は自分で絵本を読めるようになった子どもが、内容でも形式でも少しずつマンガという表現形式に親しむことができる作品。

書評はまだ書けないでいるけれども、全冊、読み終えた。まず『ますだくんのランドセル』(1995)をもらい、『となりのせきのますだくん』(1991)をさっそく買った。


碧岡烏兎