土を掘る 烏兎の庭 第三部
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2008年11月


11/1/2008/SAT

HENRY DARGER'S ROOM 851 WEBSTER、小出由紀子・都築響一編、インペリアルプレス 2007

美術手帖 2007年5月号 Vol.59 No.894 特集 ヘンリー・ダーガー、美術出版社、2007

『レインボーマン』の感想に「アウトロー」という言葉を書き入れたのは、そのときすでにヘンリー・ダーガーのことが気になっていたから。ダーガーがテレビ番組『迷宮美術館』で取り上げられていたと家族に聞いた。

『レインボーマン』の感想に書き入れた「アウトロー」という言葉から補助線を引いてた先は、半生をかけて理想宮を作りあげたフェルナン・シュヴァル。シュヴァルとダーガーを「アウトロー」として結びつけている人は少なくない。

ダーガーとシュヴァルは、職業的な芸術家ではなかったという点をのぞくと、相違点のほうが多い。とくに生前に作品を公開していたかどうかという点は決定的に違う。

ダーガーについて書かれた文章は、作品の内容よりも、彼が作品に込めた衝動や、創りつづけた意志、社会生活との乖離、などダーガーその人に関することが多い。

ダーガーを特集した雑誌『美術手帖』の中で目を止めたは、会田誠「ダーガーにならなかった/ならずにすんだ僕」と、やなぎみわ「密室からの解放、あるいは空虚の貪欲」。会田誠は、以前、講談社の広報誌『本』の表紙で、ゼロ戦がニューヨークを飛ぶ屏風を見たことがある。やなぎみわも、『本』の表紙でいわゆるコスプレをパロディにしたような「エレベーターガールズ」を見た。日経新聞の最終面でもテントを被った人物像(おそらく本人)を見たこともある。どちらのアーティストも、心の片隅で気になっていた。

二人とも、作品を公開することの意味について真剣に考えている。アートがビジネスに覆われている現代では、真摯な表現者ほど、その問いを避けて通ることを潔しとしないということだろう。やなぎは、現代の表現者は最初から、つまり幼稚園や小学校で絵を描きはじめたときから、公開する作品を「完成」させることと、公開できない自己の内奥を探りつづけ、「表現」することのダブルバインドを強いられていると言う。

  集団教育の中で、作品を「完成」させる事を教えられ、受験のデッサンでは一作ごとの「前進」を強要される。訓練校を終えると、美大で「自己表現」を強要され、その後いきなり誰からも何も求められなくなるのだが、長年続いた束縛と解放のコントラストは、確かに後々の制作に影響し続けている。

私自身をふりかえると、ほとんど毎日、公開することを止めようと思っている。そうかといって、公開をやめてしまえば、ダーガーのように自分のためだけに書きつづけることができるとは思えない。結局、誰も読まないかもしれないとしても、誰かに向けて、自分とは違う誰かに向けて、私は書いている

トラックバックの機能も、カウンターさえないサイトが、どれほど読まれているかわからない。このサイトは、アクセス解析もしていない。それでも、公開しているという緊張感が私の文章を支えていることは間違いない。

誠実な美術家は、公開する意味を問いつづけながら創作している。では、文章で表現する小説家や批評家、エッセイストの場合はどうだろう。

最近、書店で平積みになっている対談集を手に取った。読む気もないのに話題の書を手に取る悪い癖が私にはある。読んだことはないけれど、名は耳にしたことのある、どちらかといえば売れている批評家の二人。

冒頭から、この業界に長くいるとつきあいもあってほんとうに書きたいこともなかなか書けなくなる、と二人はこぼしている。このページを読んで、もう立ち読みはやめた。

露悪的な私小説家はまだいる。でも、論壇交際から離脱することを怖れない批評家はそれほど多くないようにみえる。あるいは私が寡聞にして知らないだけか。確かにそんな批評家の著作は書店で平積みにはならないだろう。

こんな事態は、50年以上前から変わっていない。次の文章は、小林秀雄が50年以上前の1935年に書いた文章。

「君の説く所は尤もだ、だがほんたうの所を聞かせておくれ、大丈夫、誰にも喋りやしないよ」、ふとさう言ひたくなる様な批評文は僕には詰まりません。
   批評文はたゞ喧嘩や宣伝やの為にあるのではない。批評家も作家の様に、自分の批評文に自分の人間的表現が完成していく事を楽しんでいゝ筈であります。文壇の交通巡査を気取ってゐてもそれだけではいづれくたぶれる許りだ。(「文学批評家への注文」『全集第三巻』

アウトローたちについて語るも結構、時代の雰囲気について語るも結構。でも、そこにダーガーやシュヴァルが問いつづけ、現代の美術家たちも問いつづけている質問への問いかけが含まれていないのであれば、文章表現の世界は美術の世界にどんどん立ち遅れていくだろう。

何しろ、会田にしてもやなぎにしても、本来、自分たちが戦う、すなわち表現する場所とは異なる文章の表現のなかでさえ、その問いかけを見事に書き表しているのだから。

写真は、十三夜の月。


11/8/2008/SAT

KAORI MURAJI plays BACH、村治佳織、DECCA、2008

解説にあるように「満を持して」あるいは「待望の」という言葉がぴったりの新盤。私は彼女の弾く「シャコンヌ」(パルティータ第2番 ニ短調 BWV1004)をずっと待っていた。

最初に聴いた「シャコンヌ」は山下和仁だった。クラシック音楽に疎い私は、その曲が元はヴァイオリン独奏曲として書かれた曲だったことさえ知らなかった。あとになって千住真理子の演奏も聴いてみたけれど、どうしてもヴァイオリンの音が好きになれず、今では聴きかえすことはない。

その次に聴いたのは、村治の師でもある福田進一。福田の情熱的な「シャコンヌ」は私にとって基準になった。山下や村治奏一の演奏と比べてみると、福田の演奏は力強い分、少し気負いすぎているのか、激しすぎるようにも感じた。かといって、ほかの二人の演奏にも、井上圭子のオルガンで聴いた「トッカータとアダージョ、フーガ、ハ長調、BWV564」のようにぴたりとくるものはまだ感じられなかった。

ヴァイオリンの音が好きになれないでいて、ギターの音のどこが好きなのか。おそらく一つ一つの音がつながらないで粒だっているからだろう。とくに村治佳織の演奏は、どの曲でも一つ一つの音がきちんきちんと鳴っているように感じる。強すぎず弱すぎず、早すぎず遅すぎることもない。それを、万人向けと批評する人もいるかもしれない。でも、素人の私には、「カヴァティーナ」でも「サンバースト」でも、衒いのない彼女の演奏が快く聴こえる。

だから、旋律が流れるような曲はギターにはなじまないし、ヴァイオリン嫌いの私でも、そうした曲ではヴァイオリンの演奏のほうを気に入る。たとえば「タイースの瞑想曲」とか「アンダンテ・カンタービレ」、このアルバムにも収録されいている「G線上のアリア」とか。こう並べるとどれも映画『転校生』(大林宣彦監督)の挿入曲であることに気づく。

「G線上のアリア」について言えば、このアルバムではギター・ソロにはこだわらずに、流れる旋律をオーケストラにまかせ、合間をギターで縁取るようにしている。これまでに聴いたギターだけの「G線上のアリア」に比べると、粒だった音を奏でるギターのらしさがうまく引き出されているように感じる。

村治佳織は、いつ「シャコンヌ」を弾くだろうか。心待ちにしていた、と言っても言い過ぎではない。彼女が案内役をつとめるラジオ番組で公開録音を聴いてからは、おそらく近く発売されることが期待されて、なおさら待ち遠しくなった。そうして先月、ついにというか、ようやくというか、「パルティータ第2番」を全編録音した新盤が発売された。

「シャコンヌ」という曲のどこがいいのか、私にはうまく説明はできない。いかにもバッハらしい旋律が延々とつづくところも魅力の一つ、ととりあえずは言える。

この曲では同じ型の低音の旋律、いわゆる執拗低音が256回も登場するという。何度聴いても、私にはどの旋律がその「執拗低音」なのか、わからない。ただ、いい曲だなと思いながら、あるいは、何かもの思いにふけりながら、あるいは、何も考えずにぼんやり聴いている

この「執拗低音」という言葉は、「通奏低音」という言葉とともにバロック音楽の特別な術語であるにもかかわらず、クラシック音楽関係以外の文章でもよくみかける。最近では新聞の書評欄でも見かけた。その源は間違いなく丸山眞男だろう。彼の文章には音楽用語が頻繁に登場する。なかでも「執拗な持続低音」(バッソ・オステイナート)は、「歴史意識の古層」(1972)(『忠誠と反逆』、筑摩書房、1992)では重要な鍵語となっている。

「執拗低音」ないしは「通奏低音」という言葉は、どうもこのあたりから、政治思想史や政治学の論文に伝播し、やがていわゆる論壇の文章全般に広がり、ついには書評でもつかわれる一種の常套句になったと思われる(ここではTodd Rundgrenから借用して“cliché”とルビしておきたい)。

「執拗低音」は、同じ低音部が繰り返されるということだけを意味しているのではない。素人の耳にはさまざまに異なる旋律に聴こえていても、実は低音部に変化がないことを意味している。丸山は、この「執拗低音」という比喩を通して「日本の思想」の特質を表現しようとした。

一つの比喩が、どれだけその言葉への深い理解と豊かな経験に裏付けられているか丸山と音楽との関わりについて書かれた『丸山眞男 音楽の対話』(中野雄、文春新書、1999)を一読して、私は恐ろしい気持ちになった。執拗低音とか通奏低音とか、どこかで目にしただけの言葉を使うことの浅はかさを思い知らされた。

ボンヤリ曲を聴いていると、耳には高音の変奏部分(ソプラノ部分)しか聴こえてこないが、実は低音主題の各音の支配する和音(主和音、属和音等々)の骨格(和声進行の型)はすべての変奏を通じて不変なのである。
聴き手は、「それ」(原文傍点)と個別に認識はしなくとも、和声と、その進行によって醸し出される曲想(雰囲気)に意識や感情を支配されることになる。丸山眞男は曲の構造を完璧に理解し、楽理を知り尽くした上で用語選択を行なったのであった。(「エピローグ 〔執拗低音〕と《シャコンヌ》」、「ライフ・ワークだった〔執拗低音〕の探求」)

経験に裏付けられた言葉が要る。いや、そうではない。言葉を裏付ける経験が要る。言葉を支える経験を持つことによってはじめて、その人の言葉は深く、ものごとの本質を貫くまでの表現となる。

言葉は、書かれただけ、発せられただけで言葉になるわけではない。言葉にならない何か、いまはそれをあえて経験とは言わないが、それによって言葉でないものが言葉になるのだと思う。

言葉に重さはない。文字には重みを与えることができても、言葉に重みを与えることは出来ない。だから、誰かがどんなに深さや重みを与えても、別の誰かはその深さも重みも感じ取ることなく、やすやすとかすめとることができる。言葉は、そうして流行語になったり常套句になったり、あるいは故事成語になったり名言格言になったりもする。

広がれば広がるほど、いちばん最初に使われたときの意味(言霊といってもいいかもしれない)が薄れていく。でも、薄められ、ありきたりになることで、多くの人に共有されるようにもなる。言葉には、そういう逆接的な性質がある。故事成語はその典型。矛や盾を触ったこともなければ見たことさえなくても「矛盾」という言葉を使うことはできる。

そしてまた、別の誰かが使い古された言葉に、新たな重みと深みを与えなおすことで、言葉は新しい息吹を与えられ、鍛えられていく。

村治佳織の素敵な新盤の感想を書くつもりが、前から書こうとしていて書けないでいたことへ脱線してしまった。このアルバムは、これから何度でも聴きかえすアルバムになるだろう。森有正プルースト『失われたときを求めて』を自分にとって「祈祷書のような作品になる」と書いていた。

彼女の演奏は、森有正の「人よ、汝の大いなる罪を嘆け」とともに、ずっとずっと私の祈りのとき、つまり私の「待つとき」の音楽になることだろう。

写真は、久しぶりに撮ってみた、見上げた大樹、枝の広がり


11/16/2008/SAT

さよなら!セブンティーズ、サエキけんぞう、クリタ舎、2007

サエキけんぞう『さよなら!セブンティーズ』は、図書館でときどき借りる雑誌『エスクァイア』の書評欄で知った。あとから借りた『80s 日本の雑誌広告』ピエ・ブックス、2007)では、「『キラキラ』としたものが愛された時代」と題して、はしがきを寄せていて驚いた。サエキの音楽は聴いたことがない。70年代から80年代を語る論客と思われていることも知らなかった。

サエキは、80年代を「キラキラ」としたものが愛された時代と書いている。そして、彼が中学時代から大学時代までを振り返った『さよなら!セブンティーズ』では、70年代という時代は次に来るたくさんの「キラキラ」を準備する時代として描かれている。

本書が独特であるのは、郊外から都会へ出かけていって、それら「キラキラ」の萌芽を見ていたこと。中学時代に住んでいた千葉や、大学時代に下宿していた徳島は、まるで「イケテない」、あかぬけない街のまま。

そうした郊外から彼は延々と電車にのり、あるいはフェリーに乗り、都会へ繰り出していく。そこで彼はたくさんのすでに「キラキラ」しはじめたものを見つける。でも、彼自身、まだ「キラキラ」していないところから来ているから、都会へ行っても「キラキラ」していないもの、古臭いもの、60年代の名残り、そんなものも自然に見つけてしまう。

彼が郊外と都会を往復するうちに、都会に「キラキラ」があふれるようになり、やがて、そうした「キラキラ」が郊外にもやってくるようになる。街が変わり、人々が変わり、そして時代が変わる。その変遷が、ライブを見るために徳島から大阪まで週末ごとに往復するほどにあふれる若さが目撃している。

時代は、一瞬で変わるものではない。少しずつ少しずつ移り変わっていく。その速度はまた場所により、人により少しずつ違ってくる。一人の人のなかでも、いつの間にか嗅ぎ取っている新しい時代もあれば、抜け切れない古い時代もある。

「時代の最先端にいた」と気取るわけではなく、自分自身が変わっていくことも誠実に受け止めながら、淡々と時代の移り変わっていく姿を見つめている。それができたのは、彼が郊外と都会とを往復し、往復しながら時代を眺めていたからだろう。

写真は、芝生に伸びる陰。


11/29/2008/SAT

死者のゆくえ、佐藤弘夫、岩田書院、2007

平田国学と近世社会、遠藤潤、2008

「庭」を開いて6年が過ぎた。去年は何も書けなかったので、思い切って書いてみた。

私は、学校が好きではない。大嫌いと言ってもいい前に、ある講演会を聴きにとある大学へ行ったときのこと。はじめて訪れたキャンパスだったのに、校舎のあいだを歩いているだけで悲しみのような、怒りのような、眩暈と吐き気の混ざった何ともいえない嫌な気持ちになった。いまでも授業参観へ行ってはみても、晴れ晴れとした気持ちにはなれない。それどころか、すこしでも早く帰ろうとしてしまう。

以前は、それほど嫌っていることを意識していなかったのか、母校を訪ねることもよくしていた。それが最近では年々、忌避感が増しているような気がする。用事がなければなるべく学校と名のつくところへは近づかないようにしている。

それでもひとつだけ、折にふれ出かけてみたくなる学校がある。その学校で過ごした時間は短かったし、たいした思い出もない。今でもつきあいの続くような友だちは一人もできなかった

ただ、学恩と呼べるような素晴らしい先生たちに出会えたことは幸運だった。


この秋にも、ある晴れた週末に、その学校を訪ねてみた。校舎の前に広がる芝生の広場には小高い丘がある。寝転がっているうちにいつの間にか眠ってしまった

短い時間だったに違いない。でも、久しぶりに深く眠った気がした。私は草の上が一番よく眠れる気がする。夢を見ていた覚えはない。目を開けるとが不思議そうな顔をして私をのぞきこんでいる。ふだんは見せることのない表情をしていたのかもしれない。

最近、彼女は、私が無理に奨めていた『きみはサヨナラ族か』を読み終えた。それほど面白くは感じなかったらしい。いま彼女には、学校は楽しくてならない場所なのだろう。そのほうが、奨めた本を気に入ってくれるより、父親としてはうれしい。

Time flies. 自分自身に重ね合わせてこの本をあらためて読みなおす時も、やがて来るかもしれない。


写真は、キャンパスの夕暮れ。右に見えるのは十字架を頂いた礼拝堂の四角い塔。この学校に通っていた短いあいだ、式典のとき以外この礼拝堂に入ることはなかった。まして心静かに座り、沈黙や瞑想や祈りの時間を持つ余裕さえなかった。

その頃の私は、晩年、毎朝ここでオルガンを弾いていたという森有正の名前すら知らなかった。なんと愚かで、なんと無知だったことだろう。

それでは、いま、こうして森有正の文章を思い浮かべながら礼拝堂の前に立っていることについて、すべてが導きであったと、言えるだろうか。

ところで、11月28日は偶像を記念する日でもある。そこで松本隆の作詞作品集『風街図鑑』の感想に、80年代の女性アイドルの一典型だった“ぶりっ子”について、少しだけ書き加えておいた。


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