2003年4月

4/2/2003/WED

Back to the future trilogy, Universal Pictures Japan, 2002

Back to the future trilogy

3月の連休に3作を1回転半、つまり1,2,3ともう一度1を見た。この映画が連作として成功した理由は、何といっても第一作に戻るという発想にある。

個々の作品でみると、ほかの連作同様、1が一番面白い。2は前半が陰湿で、全体のつじつまを合せるために伏線や展開がややこしい。3は反対に気楽すぎる嫌いがある。

1では、黒人市長の誕生のように合衆国の政治史を風刺する場面もあるけれど、3のインディアンは、舞台が西部であることを印象づけるために駆け抜けるだけ。それでも続けてみてしまうのは、2や3に1の名場面がふんだんに引用されているから。DVDでは台詞や背景を確かめながら見られるのも都合がいい。

特典ディスクも、以前見た『太陽を盗んだ男』のように知りたくはなかったタネ明しではなく、これまた初めからすべて見直したくなるエピソードが豊富に盛り込まれている。

ふだん映画はほとんど見ないのに、どういうわけかこの映画はテレビ放映でも何度も見ている。映画にしかない世界があるからかもしれない。SFXやアクションだけでなく、ある時代や場所の全体像をそっくり映し出すところに魅力を感じる。

『太陽を盗んだ男』が70年代の匂いを強烈に放っていたように、本作には80年代のカリフォルニアの陽射しがまぶしく光っている。それは、私が、行きたい、行きたいと憧れていた「アメリカ」の姿でもある。

作品のなかでは「今」である1985年が、こうして21世紀からみると、ずっと昔のことになっている。この作品を見ること自体が、Back to 80'sになっている。ドラマのなかだけでなく、見ている自分も20年前に戻るような二重のタイムトリップを感じた

さくいん:『バック・トゥ・ザ・フューチャー』80年代


4/3/2003/THU

絵本評『おじいさんの旅』、“Tree of Cranes”、“The boy of the three-year-nap”


4/4/2003/FRI

書評「読者は踊る」を植栽。花粉症のせいか、しばらく文章を書く気にもなれず、読み終えてから一週間以上放っておいた。森有正と斎藤美奈子というあまりに異なる文体の文章を同時に読んでいるのも、ぼうっとした頭をさらに混乱させたかもしれない。

しばらく前に大型書店へ行ったのもよくなかった。書店へ行くとたいてい、うれしくなるより、あまりの本の多さに、読みたい本どころか、読まなければならない本さえ読みきれないような気がして、絶望的な気持になる。こういうのはよくない。楽しく読まなければ

絵本評“The treasure”


4/6/2003/SUN

絵本評『あるげつようびのあさ』


4/10/2003/THU

しばらく絵本の短評ばかりで、書評もその他の文章も書いていない。花粉症もあってしばらく体調もよくない。

本を読んでないわけではない。胡桃沢耕史『翔んでる警視正』シリーズもついに読み終わった。ルトヴィッヒ・ベーメルマンスの伝記も読み終わった。今は八島太郎の絵本をつづけて読んでいる。

音楽も聴いている。先月は秋葉原の教会で、井上圭子のパイプオルガンも聴いたし、同じ日には、夏川りみの新曲『道しるべ』も店頭ライブで聴いた。どれについても書いておきたいことがあるけれど、書ききれない。

その一方で『森有正エッセー集成』の読書は静かに進んでいる。読みながら、自分が焦点をあてて考えなければいけないことがようやく見えてくるような気がする。

書かずに考えるときも必要に違いない。そう考えたり、そう考えることをこうして書いていること自体、森有正の影響を強く受けている気がする。

文体についても影響というよりひきずられるように模倣したくなる。かたわら、まったく正反対の文体で書かれている斎藤美奈子の文章を続けて読んでいるために、文体についての考えがひどく混乱している。

日本語と外国語、方言と共通語、文体スタイル、思想。そういう概念から考えようとしていることがある。ベーメルマンスも胡桃沢耕史も森有正も斎藤美奈子も、もやもやとしたまま残っているのは、このあたりに連関があるように感じられるからだろう。


4/13/2003/SUN

ブレッド&バター ベストセレクション、ブレッド&バター、Alpha、1989

ブレッド&バター ベストセレクション

全日空の機内番組、グッチ裕三が案内役をする番組“Music Wonderland”で聴いた「あの頃のままで」が気になり、借りてきた。ブレッド&バターは意識してアルバムなどを聴いたことはなかったけれど、聴いたことのある曲も多く、いわゆるニューミュージックになじんだ耳には歌詞も曲も編曲もどこか懐かしい。

ふと見ると作詞作曲は呉田軽穂こと松任谷由実、編曲は松任谷正隆のものが多い。なるほど、すんなり聴こえるのはある時期のユーミン自身の曲と同じ雰囲気があるせいかもしれない。

なかでも「あの頃のままで」は、「幸せの形にこだわらずに/人は自分を生きていくのだから」というところなど、歌詞に考えさせられる。松任谷由実に限らず、歌詞のなかの一言から、さまざま思いを巡らせたり、誰かと話し合ったりすることが以前はよくあった。

4/24/2003/THU追記

「あの頃のままで」を何度か繰り返し聞いていると、この歌はある種のステレオタイプにとらわれていることに気づく。歌のなかでは、ミュージシャンなのか、自由業の「僕」は夢を追いかけていて、ネクタイをしめた友人の「君」は夢をあきらめている。いくらなんでもこれは自由業者のひとりよがりではないか。

自由業であっても、夢を実現するために頭を下げることもあれば、志を変節することだってあるかもしれない。ネクタイをしめていても、夢を見る人もいるだろうし、そもそもネクタイをしめることが夢になっている人もいないわけではない

そんな風に突き詰めてしまうと、ちっともいい曲ではないような気がしてきてしまった。

10/2/2003/THU追記

この曲は気になって、何度も聴きなおす。「僕」は、「君」がまるで「僕」だけが気楽でいるようにうらやむことが哀しいのかもしれない。「For yourself, for yourself/そらさないでおくれ、その瞳を/人は自分を生きていくのだから」とは、「僕」は「僕」を、「君」は「君」を生きるしかない、今までもそうだったように、という意味ではないか。

サイモン&ガーファンクルがここでは昔を懐かしむ小道具となっている。「僕」は、今、自分が作っている音楽にしか興味がない。だから古い歌を「久しぶりに聴く」のだろう。

それでは「幸せのかたちにこだわらずに/人は自分を生きていくのだから」とは、どういう意味だろう。幸せのかたちは、幸せを求める前にはない、ということか。

10/24/2003/FRI追記

この歌では「昔よく聴いていた音楽」としてサイモン&ガーファンクルが象徴的に使われている。「君」はただ昔を懐かしむためだけに聴く。「ぼく」はもう聴かない。今、自分がつくる音楽だけに関心があるから。

昔の音楽は、懐かしむためだけにあるわけでもないし、青臭い記憶とともに忘れさられるべきものでもない。「いま」の作品として、繰り返し聴くこともできるはず。

10/31/2003/FRI追記

三たび、追記。聴きながら、中島みゆき「おまえの家」(『愛していると云ってくれ』)を思い出した。この曲では、今ではミュージシャンとなっている自分が、かつて同じように音楽を目指していた友達を訪ねる。彼は音楽で食べていくことをあきらめ、ギターを弾くことまで辞めてしまう。

ギターはやめたんだ
食っていけないもんなと
それきり火を見ている

こんな曲に限って弾き語りの伴奏が技巧的なのがかなしい。私はついにこのフレーズを弾けるようにならなかった。

この歌も自由業=気まま、夢をあきらめた人=挫折というきわめて短絡的な図式になっている。ギターで食ってはいなくても、好きなように弾くとか、家族や友人に聴かせるとか、方法は他にもあるはず。そうすれば、金のために弾いている訳ではない、と言い返すことだって、できるかもしれない。

11/19/2003/WED追記

結論として、ことばづかい、物語、旋律、編曲、歌声、どれをとっても、この曲を好きなのだ、と思う。そう思えるようになったところで、この曲について繰り返し書くことも、ひとまずなくなるだろう。

1/29/2004/THU追記

この曲に続いて松任谷由実「悲しいほどお天気」(『悲しいほどお天気』)を聴くことがあった。この曲では、夢を追うことを職業に選ばなかったことを肯定的にとらえる女性が主人公。美術大学でともに学んだ友達が個展を開いても、うらやむこともないし、むしろ友人の活躍を喜んでいる。それができるのは、自分のなかに「心のギャラリー」を持っているから。

ユーミンに「あの頃のまま」だけでなく、こんな曲があったことを見つけて、何だかほっとした。

2/18/2004/WED追記

美大を出たユーミンにすれば、絵の道を進んでいくことが才能を活かす道で、音楽の道に進んだ自分は臆病で平凡なのかもしれない。つまり、「臆病だった私は平凡に生きている」という言葉は平凡な人間の気持ちを代弁しているのではない。ユーミンの中の凡庸さを素直に歌っているとみることができる。


さくいん:松任谷由実中島みゆきサイモン&ガーファンクル


4/14/2003/MON

グッチ裕三が案内する機内番組は3月で終わってしまった。4月からの番組は司会が鈴木司郎に変わり、選曲も演歌や歌謡曲中心になった。グッチ裕三といえば、ハッチ・ポッチ・ステーションが毎日10分の短い番組から隔週の55分番組に変わった。10分ではもの足りなかったが、5倍以上で収録中心のプログラムはさすがに間延びした感じ。

一方、平日のハッチ・ポッチの後番組は「にほんごであそぼ」になった。自分ではまだ見ていないが、齋藤孝が監修し、「理想の国語教科書」をなぞる内容らしい。齋藤孝が最近出した絵本『おっと合点承知之助』も下敷きになっているようだ。

他人を批判することは慎もうと思っているし、実際誰が何をしようと近頃はあまり気にならなくなってきたけれど、どういうわけか齋藤孝の動きには、つい一言言いたくなる。それだけ自分も言葉に関心をもっているからかもしれない。

言葉は生きている。生きているから力があり意味がある。どんなに素晴らしい響きのある言葉でも、生きていなければ、役にも立たなければ糧にもならない。それは古典に意味がないということではない。古典を生かしている人にとっては、古典は意味がある。野村萬斎にとって、狂言は文化財でもなければ過去の遺物でもない。今の最大関心事であり、今のメシの種でもある。だから彼が狂言の台詞を発するとき、それは今の言葉として、生きた言葉として発せられる。

「合点承知之助」や「その手は桑名の焼き蛤」は、生きた言葉か。その言葉を生きた場面で使う人もいるかもしれない。それは本に描かれているとおり、かなりの高齢者にちがいない。同じ言葉遊びでも、谷川俊太郎『ままです すきです すてきです』の方がよほど、いま使える、いま生きている言葉に感じる。その理由は、昔の言葉を掘り出したのではなく、今使われている言葉で面白さを生み出そうという詩人の努力による。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」「烏なぜ鳴くの、烏の勝手でしょ」などの言葉は、売れている番組で、時代に乗ったタレントが発したからこそ、一気に子どもたちの心をつかんだのではないか。これらの言葉は、今ではギャグとして聞くことはない。むしろ当時はまゆをひそめていたような人たちが新聞一面のコラムなどで、いかにも俗な表現を知っているという顔つきで使うばかり。その時点で、こうした表現は俗っぽさも、ギャグ性も失っている。

学校でいくらやっても英語が話せないのは生きた言葉を学んでいないから。英語の勉強が嫌いな人でも、興味のある分野では知らないうちに英語を覚えてしまう。日本語でも同じこと。誰かが、自分がなじんだ言葉として「合点承知之助」を子どもに伝えるなら、それは生きた言葉になる。そうでなければ、昔の切手と同じ。集めることは楽しくても、どこにも届きはしない。それでも使用済みの切手でも、同じ趣味をもつ人には意思疎通の道具となるように、「にほんごであそぼ」は、祖父母と孫の交流に役立っている。

もう一つ、言葉あそびに潜む重大な問題が、差別性の問題。世界中どこへ行っても、言葉あそび、冗句には差別や中傷がつきまとう。人種、国籍、障害、年齢、美醜、様々な偏見を、子どもはカエルの足を抜くように無邪気に喜ぶ。毒気、邪気といってもいいかもしれない。そういうものを抜いた、いわば無害の言葉あそびはありうるだろうか。そういう言葉があったとして、そうした言葉だけを覚えたら、偏見や差別をもたない人間に育つだろうか。

桜が散り始めたので、表紙を新緑の木漏れ陽に、背景を緑に変更。家の近くの公園でも、けやきの新芽が吹き出し始めている。


4/15/2003/TUE

荒川洋治のラジオ・コラム。先々週は聞けず、先週は興味をひく話題ではなった。

今日の話題は、はっきり言えないときに使う言葉。言外ににおわす言葉。言語(大修館)5月号のエッセイ「ビジネスマンの表現力に敬意を!?」(石原壮一郎)から。

ビジネスの世界では、言外ににおわせる表現が多数ある。例えば。

ユニークな考え方ですね。参考になります。→参考にはなるが活用する価値なし。
悪くはないね。→だめ。「それでもいいか」の方が、否定的にみえるが、実はこちらが肯定として使われている。
持ち帰ってみて、上司と相談してみて→「みて」は繰り返されるほど、否定の意味が強くなる。やってみるけど、期待するな、ということか。

多用されているのが「ですよね」という相槌。「あいつ最近付き合い悪いな」「ですよね」などと使う。「否定はしないが、関心はない」「話題をかえろ」「勝手にしろ」という意味らしい。

ビジネスの世界に、表裏複雑な表現が多いのは、それだけ人間関係が複雑である証拠かもしれない。

文学の世界でも、文学賞の選評などではもってまわったもの言いがよく使われる。「次作に期待したい。」「この人はもっといい作品が書けるはず。」という表現は、いずれも否定的な評価を包み隠している。「作者の性格の強さが表れている」という言い方は、性格は強いが作品が強くないという意味。「この時代に特徴的な作品」という言い方も、時代に乗っているが自分は好きではないという意味。「席上では評価は高くなかった」という言い方も、自分は推したと匂わせながら、あえて最後までは推さなかったという事実を隠している。

言葉の機微に精通しているはずの作家でさえ、こうした常套句の裏を知りながらも、それにすがってしまう一面もある。つまり、本音は選外だとわかってはいても、「次回作に期待された」と信じたいのだ。

斎藤美奈子『読者は踊る』では、文学賞の選考は、作品に対する評価ではなく、作家ギルドへの入会審査であると論じられていた。だからこそ、応募者は選評の一言一句にやきもきするのだろう。

ビジネスの世界や官公庁では、複雑怪奇な言葉が飛び交う。しかし、業界内部では放送で紹介されたように「この言葉なら断りを意味する」と互いに了解されているから、大きな問題にならない。つまり、表面的には遠まわしを装っていても、本音はストレートに伝わっている。もってまわった言い方はポーズでしかない。表現と意味内容は完全な二重構造になっている。

文学的表現とは、本来、そうした単純な構造ではない。言葉によって表せない気持を言葉で表そうというのが、文学的表現の本質なのだから。「愛する」という言葉が好意と憎しみとを同時に、またそれらの混ざり合いを映し出すところに文学の文学らしさがあるように思う。

ビジネスの世界ではまったく違う。どれだけ表現を装おうとも、意思が真直ぐ伝わらなければならない。イエスかノーか、買うのか、買わないのか、意思を明確に伝えることがビジネスの基本だから。その意味では、文壇というギルドへの入会審査と言われる文学賞の選評がもってまわった言い方をしながらも本音をきちんと伝えているのは、それがビジネスに関わる言葉だからに違いない。応募者はナイーブに受けとめていると荒川は言っているけれど、実際のところ、今では応募する側も事情はよくわかっているのではないか。

作品の質を評価されたと思い一喜一憂しているのならば、文学賞の実情とはずれている。とはいえ、ギルド入会審査と割り切っていて、その結果を心配しているとすれば、それはそれで奇妙な話。

もはや商業出版に純文学などない、とまでは言わないけれど、音楽業界が産業ロック論争やインディーズ・ブームを通じて、アマとプロの相違、商業的な成功の是非といった問題が、つねに業界、評論家、ミュージシャンのあいだで論争となっているのに対して、文学や出版の世界では、関係者の誰もがいまだに自分たちの世界に対してナイーブな幻想を抱き続けているように見える。それは読者から見れば、ナイーブどころではなく、身勝手きわまりないものである。


4/16/2003/WED

昨日の続きを、齋藤孝問題と合わせて考えてみる。

齋藤孝については『読書力』(岩波新書)も気になって立ち読みしたけれど、それこそ承知之助とはいえない議論だった。本をたくさん読んできたのに、読書に意味がないというような大人は卑怯だ、成長したのは読書のおかげなのだから、正々堂々と、それを若い世代に伝えるべきだと、齋藤は書いている。言いたいことはわからなくはないが、若い世代に伝えたい、あるいは伝えるべきは読書の楽しみであって、読書の効用ではないだろう

齋藤は読書に鍛えられて現在の職業についたように述べているが、それはあくまで大学教員に就いた自分の場合であり、多くの人にとって読書と職業は直接関係がない。一般的に職業に関係があるのはもっと実務的な読解力や作文力であり、それは齋藤のいう読書力とは少し違う。その一方、職業以外の場面での読書となれば、それはやはり楽しみだろう。心を豊かにするといっても、苦い強壮剤のように飲み込んでも栄養にはならないはず。

心を豊かにするものは、けっして読書だけではない。映画、演劇、音楽にスポーツや武道、華道、茶道その他の伝統芸、何でもある。そのどれを選んでいくかは、出会いと選択の問題であり、優劣の問題ではない。

もちろん言葉は人間活動のほとんどの場面において欠かすことはできない。しかし、その場合に必要な能力は、読書力以前のきわめて基本的な言葉の能力にすぎない。不可解な言葉を連発する人でも世紀の大打者で、希代の人気者になったのだから。

ところで、物書きを職業にする人は、一般の人が公開を前提に文章を書くことをあまり快く思っていないように、感じる。荒川洋治は以前ラジオで、「最近は皆本を読むより、書きたがってますから」と言っていた。必ずしも批判や揶揄ではないが、歓迎しているようでもなかった。

斎藤美奈子も『趣味は読書。』のはしがきで「頼まれもしないのにネットで読書日記を公開する人」と書いている。ここでは、ベストセラーの宣伝文句に刷り込まれた感想を、何の疑いもなく、無邪気にネットで披露したり、出版社へ読者カードを返送する「善意の読者」について書いているので、文章を書くこと自体を批判の対象にしているわけではない。それでも、どことなくネット上の素人文章への敵意を感じないわけではない。

執筆者は忘れたけれども、『世界』でも、報酬もないのにネットで文章を書く人の気が知れないというコラムを読んだことがある。素人文章に対するプロの目は厳しい傾向があると言って間違いなさそう。

音楽の世界では事情は少し違うような気がする。鑑賞するだけでなく、演奏することも音楽の楽しみの一部として充分に認知されている。音楽店のとなりではたくさん楽器が売られているし、楽譜も売られている。音楽教室も、子どもから大人まで通って繁盛している。自宅で演奏することだけを楽しむ人もいれば、場所を借りて家族や友人に腕前を披露する人もいる。

そうしたアマチュアの音楽をプロの音楽家が批判するというのは、あまり聞いたことがない。また音楽に関しては読書ほど説教じみた勧誘もあまり聞かない。バッハが最高、とか、ビートルズが私のすべて、といった個人の偏った趣味や主義を聞くことはあっても十代のうちに何かの音楽を聞くかどうかで、その後の人生が変わるというような言い方までは聞かない。

学者や作家への読書アンケートでは、ドストエフスキーを読んだかどうかで、人間の質まで違うかのような極論も珍しくない。音楽についてはそこまでの極論は聞いたことがない。「ボヘミアン・ラプソディー」を聴いたことがあるかどうかで、人間の質が違うという人はいない。むしろ、音楽業界はカラオケを筆頭に素人の参加を歓迎しているし、前提にもしているようにみえる。

スポーツでも同じようなことがいえる。頂点を極めたプロ選手も、「外で身体を動かせ」「がむしゃらに挑戦しろ」とは言っても、十代の間にこのスポーツを体験しておけ、という言い方はふつうしない。なぜ読書と文章だけは、まるで十代のときの関わりが人間性を決めるかのような言われ方をするのだろう。

その理由の一つは、プロとアマの境界線が明確ではないことがあげられそう。音楽やスポーツの世界では、プロとアマでは技術に雲泥の差がある。また、野球選手やサッカー選手のように、プロ集団に所属しなければなければ、自称だけではプロとは呼べない分野もある。

文芸においては、高い技量をもつプロがいないわけではないが、その差は誰にでも見えるわけではない。極端にいえば、作家は自称すれば誰でもなれる。寡作の作家もいないわけではないから。そのせいか、むしろ本も読まず、文章も書いたことのない人ほど、小説や詩なんて誰でも書けるものと侮っている節がある。

一方、プロの方でも、アマチュアの過小評価に対して、力量の差を歴然と見せつけるのではなく、今現在、プロであるという事実だけでアマチュアとの差別化を図ろうとしているようにみえる。ギルド入会審査としての文学賞もそうだし、ペンクラブや作家連盟など物書きが作る団体は、どうも選民意識が強い。

とりあえずの結論。出版業界、そこにぶら下がる、いわゆる論壇、文壇も商業の世界であることを一度全面的に認める必要があるのではないだろうか。そこではビジネスの論理、マーケティングの法則がつきまとうことを受け入れた上で、いいものと悪いものを選別すべきではないだろうか。

作家たちがつくる会社や、斎藤美奈子のベストセラー批評は、こうした動きが文壇、論壇と呼ばれる業界でも起こり始めていることを示しているように思う。

さくいん:斎藤美奈子


2/5/2004/THU追記

先週、出張先の大阪で大型書店へ立ち寄った。エスカレーター近くの大きな飾り棚一面に谷沢永一『本はこうして選ぶ読む』(東洋経済新報社、2004)が並べてあった。地元関西では、とりわけ人気があるのかもしれない。立ち読みしてみると、齋藤孝に対する批判が延々と書かれている。政治的な主張を述べた文章ではほとんど共感することはないけれど、「本は、無理して読まなくてもよい」「読書は楽しむもの」ときっぱり主張するこの一章は面白く読んだ。


4/17/2003

雑評「空の風景(けしき)」を随筆・雑文の頁に植栽。


4/19/2003/SAT

文章を書こうと思うのは、他人の文章を読むだけでは飽き足らなくなるから。濫読を続けていると、他人の言葉で自分があふれかえり、こぼれてくる。最初の言葉は他人の言葉。引用だったり、模倣だったり、ただ「読了」という記録だったり。

結局のところ、人は何を読んでも充分に満たされないから、あるいはそう感じた時に、書きはじめるのではないだろうか。そのとき人は、自分自身を読みはじめる。自分自身の経験を自分の言葉で読みとる。

なるほど、だから読書は「他人の頭で思考すること」と言われるのだろう。


4/20/2003/SUN

庭師紹介から出生年を削除した。もともと「庭」では、本名、住所、職業、経歴、学歴など一切を伏せてきた。にもかかわらず、出生年だけは無意識に表記してきた。これは自分のなかにある、世代論へのこだわりとも無関係ではない。自分の出生年とものの考え方には密接な関連がある、そう思っている。そうした認識をもつことも間違ってはいないし、その認識もおそらく間違っていない。しかし年齢にこだわりすぎることは、エイジズムとも言われるように不要な偏見の遠因ともなる。

年齢だけでなく、居住地、職業、経歴、そうしたものから無縁な思想などというものはありえない。純粋な思想などというものは、ありえない。存在拘束は誰にとってもある。大切なことは、存在拘束を無視することでもなければ、過剰に意識し、思想の根を張り付けてしまうことでもない。そこから偏見やイデオロギーが生まれる。

だから大切なことは、存在拘束を不断に自らの力で批判、解体し、それでもなお残る自己存在の本質を析出し、その本質的と思われる属性、性質に対して、さらに解体と析出を繰り返すことだろう。言葉を換えれば、自分の個別性、特殊性を突き詰めていくことでしか、普遍的な思想にたどりつくことはできない、その逆はありえないということ。これもまた、森有正から学んだこと。

意識しないままで紹介文に表記していたということは、裏を返せば、出生年と年齢について思索することが私にとって、国籍や学歴以上に自分の本質に関わる問題、ということでもある。70年代80年代、という世代論にも、ついつい傾きがち。もちろん、自己紹介として掲げた文章に書かれた年から計算すれば、出生年や今の年齢も明らかになる。問題は、文章の中で自明であるにもかかわらず、わざわざ別に太字で表記していたこと。

自己批判とか総括というものは、教条主義者が言うほど簡単なものではない他人に糾弾されてできるものではないから

庭師紹介の頁から出生年を削除。合せて、紹介文を剪定。

書評「さとうきび畑」「さとうきび」を植栽。


4/22/2003/TUE

荒川洋治のラジオ・コラム。

新書ブームが続いている。岩波書店、中央公論社、講談社の老舗御三家に加えて、文春、集英社、光文社がすでにあり、今回、新潮まで加わった。新潮の第一弾のうち、養老孟司『バカの壁』はすでに重版となっている。最近では、百点もの新書が毎月発売されている。

現在見られる新書ブームの傾向は、ワン・テーマと時事的な話題。ひねり技としては、時事的な話題に結びつく専門的な話題。たとえば、『江戸時代の子育て』。主題は江戸時代の子育てで終わらず、それを起点に現在の教育論議への一提言となっている。

ワン・テーマ以外にも、歴代天皇総覧などの事典的な内容や、カー『歴史とは何か』のような古典も恒常的に売れている。中心の読者層は四十歳代。

新書編集者に聞いてみると、新書は「新聞の読み溜め」として読まれている。つまり、新聞に日々現れる報道のなかで、傾向的な、あるいは流行している話題、事件、技術、概念について、もう少し深く、手軽に知りたいという需要がある。そうした需要にあわせながら、ロング・セラーとなるような本を作り出すのが、編集側の難しさらしい。

初めて新書を書いた著者の一人によれば、新書を書く喜びは、装丁が出版社ごとに統一されていて、全体としても落ち着いた意匠で異同が少ないことにあるという。価格も手ごろで、駆け出しの物書きには名を知られるという意味で、単行本より読者の間口が広くなる利点がある。現在では、出版されるまで、どんな装丁になるのか、著者自身も知らされない場合が少なくないらしい。

森本は、「ちょっと知的というところが受けるのでしょうね」とまとめた。

以前は新書には、明らかに下敷きになる単行本があったような気がする。最近では、はじめから新書向けに企画され、書き下ろされている本が少なくないようだ。ある面では原酒を薄めて販売するような手法よりは、手早く調理されていても初めから即席として作られたもののほうがおいしい、と言える。

経験からいっても、既刊の単行本、専門書を要約した新書は結局、欲求不満が残る。ただしこの場合、欲求不満は決して不健全ではない。新書をきっかけにして単行本や専門書を読んだり買ったりすることもあるから。単価が安いのは、単行本への導入、広告の意味合いもあった。

ところが、現在の状況をみると新書を最初に書く人もいれば、新書ばかり書く作家も少なくない。こうなると、新書で完結してしまう手法は、出版社にすれば両刃の剣に違いない。身近な話題、手軽な装丁、求めやすい価格で読者を広げたところで、知的な欲求不満にもならなければ、より高度な、また高価な単行本へ読者を向かわせることもできないから。新書が売れて、また新書が増える、新刊点数を増やさざるを得ない現状は、利益の確保と顧客の拡大、すなわち薄利多売のディレンマに、そのほかの企業同様、出版社を陥らせるだろう。

それを防ぐのは、ワン・テーマで完結せず、次の読書へ広がる作品、そういう作品を生み出す編集。例えば荒川の近著『日記をつける』(岩波アクティブ新書)は、好奇心と向学心を向上する刺激が満載。巻末の参考文献が次の読書への案内にもなっている。

いつかは個人全集を。車の宣伝のように、出版会社も高額製品を上手に買わせる手段を考えたほうがいい。でもそんなことを顧客に言われてどうする。しかも一般的には、すでにそうしたマーケティング手法は批判の対象になっている。


4/23/2003/WED

年収300万円時代を生き抜く経済学 給料半減が現実化する社会で「豊かな」ライフ・スタイルを確立する!、森永卓郎、光文社、2003

年収300万円時代を生き抜く経済学

書店で立ち読み。夕刊紙やラジオでその主張は聞いていたので、走り読み。日本国が合衆国型階級社会に近づいているという指摘だけでなく、サービス型経済は貧富の差とともに仕事量の差を急速に拡大させるという指摘はするどい。

多品種が供給される高度産業社会、その多品種についての情報が無数にあふれる情報化社会では、消費する側からすれば自分の眼力だけでは選択できないから、ついブランドに依存してしまう。その結果、強力なブランドが一人勝ちになる。プロ野球でも、一部の熱心なファンを除けば、瞬間的に活躍している選手だけを追うしかない。そしてその選手が、CMなどで他選手がまとめてかかってもかなわないほどの収入を得る。

メディアは、こういう事態を助長する取り上げ方をしてもいる。よほど入れ込まないと、それ以外の選手の情報は得にくい。これは、プロ野球だけのことではない。森永がみのもんたを例にしているように、テレビには同じ人ばかりでているし、同じシリーズばかりがベストセラーになっている。多様性の時代などというけれども、実際には、自力で自分の趣味に合うものを探すのは、容易なことではない。

大競争に追われて身を削るより自分の幸せを探せ、と森永自身もあとがきで述べているけれど、このところの彼の売れっ子ぶりをみると、彼も勝ちの組に入り身を粉にして働いているように見える。これは嫌味ではなく、大競争社会にはそうした皮肉な構造があるように感じる。

つまり、俺は競争を降りる、と言い切れるくらいにしたたかに自分を持っている人は、技能を発揮して勝ち組になれてしまう。ところが一度勝ち組になると、なかなか降りられない。一年で賃金労働者の一生分くらい稼いでいても、一年で辞めて南の島で暮らすというプロ・スポーツ選手というのはほとんどいない。一度、勝ち組になると、自分の生活以外にも背負うものが大きくなるから。

不況と競争激化で経済新聞やビジネス雑誌は、生き残るためには必死になれと鼓舞する記事ばかりでうんざりしてくる。その一方で、スローライフ、男性も育児休暇とお題目だけは家庭欄にかまびすしい。もちろん、降りる、降りないを決めるのは、自分であってメディアではない。にしても、どちらかの極端な記事ばかりで、近ごろは読めば読むほど混乱してくる。

働くこと自体を否定することはなかなかできない。だから、企業労働について考えようとしても、真面目に考える人ほど、経過はどうあれ、労働を否定しきれないために企業労働を肯定し、形式的な結論としては現状を追認することになりやすい

本書は、政策論など社会構造的な説明を踏まえた上で、一人一人の働き方、生き方について考えるきっかけをくれる。現実を無視した極論や無茶苦茶な一刀両断ばかりが目立つなかにあって、良心的というか親身になった文章。こういう論客は非常に珍しい。

さくいん:労働


4/25/2003/FRI

おやつ、渡辺香津美、domo、Polidor、1994

シャコンヌ~プレイズ・バッハ、福田進一(ギター)、コロムビア、2000
坂本九 メモリアル・ボックス――シングル・コレクション3、坂本九、東芝EMI、1994
おやつ シャコンヌ~プレイズ・バッハ、福田進一 坂本九 メモリアル・ボックス

渡辺香津美が新盤を出した。初めてのギター・ソロ・アルバム。題して『ギター・ルネッサンス』。店頭で試聴もしたし、購入の意志は固めたけれど、今月は夏川りみ『空の風景』に加えて、谷山浩子の旧盤『たんぽぽサラダ』を買ったので、購入は延期。タワー・レコード発行のフリー・ペーパー『ミュゼ』42号では、渡辺と村治佳織が対談をしている。購買衝動を抑えて、対談でも触れられていたソロ中心の旧盤を図書館で借りる。

渡辺を初めて聴いたのは、坂本龍一「千のナイフ」。このギター・ソロは衝撃だった。それ以後、ラジオ、テレビの出演は気にしていたが、小曽根真との共作『ダンディズム』以外は、アルバムとして聴いたことはなかった。


対談では、渡辺の友人として、また村治の師匠として福田進一が話題となっている。渡辺と福田に共通して感じるイメージは、いくつになっても野心的な青年。対して、山下和仁は寡黙な職人。渡辺、福田には、燃えるような野心や意欲の奥底に確かな技術、山下は緻密な技巧に秘められた静かな炎。同じシャコンヌでも、山下はそれを含む組曲全曲を録音、福田はそれを題名にして、アルバムの中心にすえる。

村治は炎を感じさせないほど穏やかで、それが一般的な知名度を高めている理由の一つだけれど、従順なだけの学徒ではない。炎を抑え、それでもなお吹き上がるような地熱。これは演奏だけでなく、とりあげる作品の傾向、売り出し方まで含めた印象。

『おやつ』には「上を向いて歩こう」がカバーされている。ギターとボーカルだけのこのバージョンもしんみりしていい。ボーカルは桑名晴子。

これまで聴いたバージョンの中では、RCサクセションのものが破壊的で印象深い。ライブでの「日本の有名なロックン・ロール」という清志郎の紹介からして独創的な解釈。


その「上を向いて歩こう」が収録されていない坂本九のベスト・アルバムは、「夕焼けの空」一曲を聴くために借りてきた。この曲はNHK人形劇『新八犬伝』の後主題曲。人形劇の筋書きはほとんど忘れているけれども、「仁義礼知忠心孝貞、いざとなったら玉をだせ」という主題曲とともに、この歌はずっと記憶に残っている。ようやく再聴した。

作詞は、『新八犬伝』の脚本を書いていた石山透。「上を向いて歩こう」と同じ永六輔と思っていたけれどそうではなかった。

ひとりぼっちじゃないんだ
まだ知らないだけなんだ
胸を割り心開いて
語り合い信じあう友はきっと
どこかでどこかで待っている

この歌を口ずさむと八木重吉の第一詩集『秋の瞳』の「序」にある、「私は、友が無くては、耐えられぬのです。しかし、私にはありません。」という悲痛な言葉をいつも思い出す。思えば、「庭」の門にかかげた言葉は、八木重吉の「序」のパロディでしかない。

渡辺香津美坂本九RCサクセション八木重吉


4/27/2003/SUN

オールド・ノリタケ名品集 里帰りした陶磁器、若林経子・大賀弓子編、河野利彦・伊藤千晴写真、平凡社、2001

オールド・ノリタケ名品集

読みかけ、書きかけがあるので、息抜きになりそうな写真集を借りてきた。

陶磁器には、賢島のホテル大倉陶園の大皿を見て以来、興味はあるけれど、語るほどの知識は何もない。ノリタケが地名ということもはじめて知った。日米貿易のはじまりが陶器にあったことも知らなかった。

森村兄弟の弟豊が商店を開いたのは1876年(修好通商条約から18年後、維新から8年後)、場所がニューヨークで、ブロードウェイというのにも驚く。

さくいん:ニューヨーク


4/28/2003/MON

二枚の絵、高階秀爾・平山郁夫・丸谷才一・和田誠編、毎日新聞、2000

二枚の絵

古今東西から二つの絵を選び、選者の文章を添えたアンソロジー。当然ながら、選者によって対比も随筆も面白かったり、そうでなかったりする。以下、印象に残ったものを列挙しておく。これまで知らなかった画家を知ったのも収穫。とくに「最後の浮世絵師」と呼ばれた小林清親は陰影鮮やかで、ポップ。19世紀の作品とは思えない斬新さ。

編者の名前から予想できていたが、巻末の座談会は「日本」「日本文化」「日本人」と相変わらず思い込みだけの概念を振り回していてつまらない。

野見山暁治(画家)、雪舟「天橋立図」とエル・グレコ「トレド風景」
永田生慈(太田記念美術館副館長・葛飾北斎美術館館長)、小林清親「開化之東京両国橋之図」とジェイムズ・A・M・ホイッスラー「青と金のノクターン」
木村重信(兵庫県立近代美術館館長・民族芸術学会会長)、「不動明王二童子像」とエル・グレコ「聖衣剥奪」
高階秀爾(美術評論家)、ディエゴ・ベラスケス「女官たち(ラス・メニーナス)」と「源氏物語絵巻:宿木一」
建畠晢(多摩美術大学教授)、ポール・セザンヌ「さくらんぼと桃のある静物」と狩野山楽「犬追物図」
北澤憲昭(跡見学園女子大学教授)、高橋由一「山形市街図」と岸田劉生「道路と土手と塀(切通之写生)」
山下裕二(明治学院大学教授・日本美術史)、ピート・モンドリアン「木々のある風景」と雪舟「秋冬山水図」
中村桂子(JT生命誌研究館副館長)、植村松園「長夜」とオーギュスト・ルノワール「ピアノの前の少女たち」
俵万智(歌人)、ギュスターブ・クールベ「画家のアトリエ」と鴨居玲「1982年 私」
田中英道(東北大学教授・西洋美術史)、ティツィアーノ「ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリッヒ」と墨斎「一休宗純」
大高保二郎(上智大学・西洋美術史)、ホセ・デ・リベーラ「えび足の少年」とバルトロメ・エステバン・ムリーリョ「蚤をとる少年」
鈴木杜幾子(明治学院大学教授・西洋美術史)、ジャン・A・D・アングル「トルコの浴場」と鳥居清長「女湯」
勝國興(同志社大学教授・西洋美術史)、小出楢重「横たわる裸女(B)」とルーカス・クラナッハ「横たわる泉のニンフ」
杉本秀太郎(フランス文学者)、ハンス・メムリンク「パテシバの湯浴みを盗み見るダビデ王」と菊池溶斎「塩谷高貞妻出浴之図」
高村薫(作家)、入江波光「彼岸」とヒエロニムス・ボス「快楽の園」
森洋子(明治大学教授・西洋美術史)、ヒエロニムス・ボス「快楽の園:地獄」とピーテル・ブリューゲル(父)「悪女フリート」

碧岡烏兎