さとうきび畑、寺島尚彦詩・葉祥明絵、二見書房、2002

さとうきび、石垣博孝文・絵、福音館書店、1990


夏川りみの最新アルバム『空の風景(けしき)』に「さとうきび畑」が収録されている。「さとうきび畑」は必ずしも反戦の歌ではない。大切な人を失った純粋な悲しみが歌われている。戦争は悲しみを呼び込んだ原因に過ぎない。だから戦争は悪いとも、戦争に反対とも直接には言わない。戦争に対する態度表明はどこにもない。ただ悲しいだけ。透きとおった夏川の声は、戦争という政治現象を突き抜けた悲しみの純粋さを、原曲以上に浮かび上がらせている。

絵本『さとうきび畑』は寺島尚彦の詩に、葉祥明が絵を添えた作品。葉の絵は、夏川の歌と同じように「さとうきび畑」を生々しい反戦歌としではなく、透きとおった挽歌として描いている。さとうきび畑は緑に、海は青く、空に浮かぶ雲は白く輝いている。


さとうきび畑は、悲しみを彩る美しい舞台であるばかりではない。『さとうきび』に描かれる南方の人々にとっては、さとうきび畑は苦しい労働の現場であり、さとうきびは家族を養い、生きていく生活の糧である。石垣は、さとうきび畑に働く家族の一年をどっしりとした絵筆と、禁欲的で武骨な文章で描く。読んでいると、以前、ワイキキで開催されたNHKのど自慢で聴いた、ハワイへ移民した人々がさとうきび畑での辛い労働のかたわら歌った労働歌が思い出される。

さとうきび畑で、人々は悲しんでいるばかりではない。人々は、種をまき、育て、刈り取る。人々は働いている。悲しみが純粋であるということは悲しみという感情だけが独立していることではない。情緒がいわゆる形而上の世界に浮遊しているということとは違う。日々の暮らしのなかに生きる喜びと同時に、働く辛苦と亡くした人への追悼がある。だからこそ、つまり生活に密着しているからこそ、人間的な意味で純粋になる。

『さとうきび』は残念ながら図書館にしかない。雑誌「こどものとも」として発行された後、限定で図書館、学校向けにハードカバーが出版されたらしい。


ところで、「さとうきび畑」と同じように戦争を舞台にしながら、戦争に反対するのではなく、戦争に失われた人を悼む作品に、あまんきみこ「すずかけ通り三丁目」(『車のいろは空のいろ』ポプラ社、1977)がある。

この作品をモチーフにした谷山浩子の同名曲(『眠れない夜のために』、ポニーキャニオン、1991)は、戦争、空襲という舞台装置をすべて捨象し、遠い記憶と忘れていくにつれ深まる悲しみだけをすくいとる。

自分はどんどん年をとっていくのに、思い出の中の人はいつも若々しい、その悲しさと思い出の美しさ。谷山の感性豊かな批評眼によって、作品の本質だけが美しい旋律を通じて蒸留されている。原作を読むまで、この曲は初恋の感傷的な記憶を歌っているものとばかり私は思っていた。

ここでもやはり、主人公の女性は悲しみだけにもたれているのではない。日々の生活を生きながら、それを精一杯生きているからこそ、一年に一度だけ、不思議な力を秘めたタクシー運転手、松井さんのおかげで、押し殺していた純粋な悲しみに出会うことができる


戦争は、なぜいけないのか。人が大切な人を失うから

それでは、人が大切な人を失うのは戦争だけか反対すべきは戦争だけか

少し考えただけでもわかりそうなもの


碧岡烏兎