おとなになれなかった弟たちに…‥、米倉斉加年文・絵、偕成社、1983『どの本よもうかな? 中学生版 日本編』(日本子どもの本研究会編、金の星、2003)で紹介されていた本。書庫から出してもらった。この物語も、ずっと気になっている「生き残った後ろめたさ」あるいは「生き残った傲慢さに耐え切れない苛立ち」が主題になっている。戦争が舞台になっているけれど、必ずしも戦争が主題ではない。さらに普遍的な問題を扱っていると思う。 生き残る意味。正義は実現されず、不正、不公平、差別が横行する。いい人は早死にし、救世主は現れない、そんな世界に生き残る意味について考えることは、文学の普遍的な主題といっていい。ところが、日本語で書かれた文章では、絵本から専門書まで、この問題をとりあげるときに戦争、とりわけある特定の戦争を舞台にすることが不均衡に多い。 そうして、生き残る意味、言葉をかえれば「ヒューマニズム」の問題が戦争と短絡的に結び付けられてしまい、かえって、この問題について考える間口を狭くしているような気がしてならない。 戦争に反対することと、生き残る意味を考えぬくことは、即座に同じにはならない。同じになる場合もあるかもしれないが、そのためには多くの思索と決意がいる。まして、前者が後者を含むわけでは絶対にない。 歴史は、むしろ後者がしばしば前者を呑み込んでしまうところに大きな逆説と不幸がある。だからこそ、後者、すなわち「ヒューマニズム」がつねに普遍的な問題として人々の表現の対象になってきたのではないか。 読む側はもちろんのこと、作者の側でも自分がみたあの戦争の悲惨さを描こうとしているのか、戦争によって引き起こされる「ヒューマニズム」の危機という普遍的な主題を描こうとしているのか、自覚的であることはむしろ少ない。本書でも、作者自身はあとがきで強調していることから、あの戦争を主題にしていると自分では思っているようにみえる。 しかし、自分が弟の死を早めたかもしれないという自責の念は、作者の意図を越えて、より普遍的な問題に突き刺さっている。題名に戦争を指す言葉はなく、「弟たち」と複数形になっていることも、彼自身の体験だけを物語にしたのではないことを示す。この点に気づかなければ、この絵本は、教科書に出ている戦争悲話の一つに終わってしまう。 確かに戦争は、被害の規模においても、凄惨さにおいても、他の不幸な出来事とは比較にならない。そのために経験を共有した人のあいだでは象徴的な意味を帯びる。しかし、集団的な象徴性はときに幻想化し、本質を見誤らせる。 生き残る意味を問う場面は、戦争だけにあるわけではない。戦争以後も、おそらくはそれ以前でも、あふれているというほどではないにしても、日常生活にはありふれている。 つまり、弟のミルクを飲んでしまうようなことを人間は日々繰り返している。だから、私はこの絵本を読んでも泣けなかった。それどころか背筋が凍るような戦慄を覚えた。これは、いまの私自身だから。 なぜ、戦争を描く物語に引きつけられるのか、同時に、なぜ、そうした物語に引きつけられながらも、もの足りなさや、ときに反発さえ感じるのか、ようやくわかったような気がする。 戦争を描く物語は一つの入口、少なくとも、あの戦争を知らない私にとって、そこは出口ではない。 |
碧岡烏兎 |