横浜 そしてパリ 銅版画家 長谷川潔展 作品のひみつ、横浜美術館、2006

銅版画家 長谷川潔 作品のひみつ、横浜美術館企画・監修、横浜美術館、2006


銅版画家 長谷川潔 作品のひみつ

横浜に生まれ、フランスに渡り、一度も帰国することなくパリで亡くなった銅版画家の回顧展。会期中に二度、見に行った。一度目は2月初旬、平日に仕事を休み一人で。それから3月にもう一度。

一度目に出かけたときには、見ている人も少なく連れもなかったので、静かに時間をかけて見ることができた。けれども、そのときは長谷川の作品を直に見ることができたのは初めてだったのに、特別な感動はなにもなかった。彼を最初に知った新聞記事にあった『コップに挿したアンコリ』も、ずっと大きい画面で見ているにもかかわらず、ただそれが本物であることを確認するだけで、新たな発見はなかった。

小林秀雄が、複製画を見て感動したゴッホを本物で見直したとき、最初の感動はもうなかったと書いていたことを思い出した。

確かめる感動というものもある。親しい人の家をはじめて訪ねたときに、並んでいる本や酒に、これまで知らなかった一面に驚くより、なるほどと思うようなことがある。ひとまわりして、若いころの油絵や、本の挿画や年賀状のような小さな仕事を見ても、これまで抱いていた私の長谷川像から離れたものは何一つないような気がした。

このとき、新たな感動がなかったことには、別の理由もあったかもしれない。その日、横浜へ一人で行った第一の理由は、『長谷川潔展』ではなかった。そのあと、美術館のある桜木町あたりから氷川丸のある山下公園まで思い出を探しながら、ひとり歩いた。一年以上前から計画していた散歩のことが気になって、絵をみることだけに没頭してはいなかったかもしれない。


少し暖かくなってから、また横浜へ行った。休日で美術館は盛況。こちらも、少しあわただしく少しにぎやかで、絵だけに心を傾ける余裕はなかった。人波のなかで、小さな影を追いかけながら、無意識のうちに目を留めていたのは、いくつかの人物画だった。

渡仏前の神秘的な女神や、妖艶な裸婦画。苦しい時代がはじまる直前に描いていた『聖体を受けたる少女』、緑色のクリスマス・ツリーのドレスをまとった女性をあしらった楽しいカード。これは前回、スタンプ・ラリーのおまけで絵葉書をもらっていた。そして、最後のマニエール・ノワール作品、『横顔』。

なかでも『横顔』は、静物や植物を題材にした作品がほとんどのマニエール・ノワールのなかで異彩を放っている。長谷川潔に興味をもったときに読んだ評伝、『長谷川潔の世界(下)渡仏後[Ⅱ]』(猿渡紀代子、横浜美術館学芸部編、有隣堂、1998)でも、この作品は長谷川の芸術人生で最後最大の謎と書かれていた。

長谷川を長年研究してきた猿渡は、象徴的な静物のあとでチャイナドレスをまとった金髪の女性の肖像を描いた作品を、東西の芸術の融合を目指した芸術人生の集大成として、その道程をたどってきた自分自身を描いた自画像とみる。


レオナルド・ダビンチ『モナリザ』も、実は自画像だったという説を聞いたことがある。突き詰めれば、すべての表現は自己表現であり、晩年の大作は自画像という見方は、そのとおりかもしれない。

長谷川には、鳥やジロスコープなど静物を象徴的に自分に見立てた作品が、すでにマニエール・ノワールにある。なぜ、あらためて人間を対象にした肖像画なのか。

人物、とくに女性は、長谷川が画業をはじめたときの中心主題だった。渡仏後、風景画で成功を収める一方、『聖体を受けたる少女』に至るまで女性を描いている。これが描かれたのは、1938年。ところが、戦争がはじまり、異邦人である長谷川は精神的にも経済的にも苦境に立たされる。

逆境のなか、樹木と語らう神秘的な体験を得て、長谷川は自然を描くようになった。樹木から草花、鳥、兎、人形、貝殻、コマ、円や円錐へと、対象はより静的で象徴的になっていく。


展覧会では、1969年の『横顔』は、1938年の『聖体を受けたる少女』の横にあった。ずっと離れていた、若い頃あたためていた主題を、何かをきっかけにして壮年を過ぎた版画家は思い出したのかもしれない。

30年の時間を隔てても、二つの作品には共通するものがある。長谷川の描く女性はどれもふくよかで、『横顔』でも、ぴったりとした服に胸元の曲線が艶かしい。

女性らしい一面を持ちながら、『横顔』はどこか人間離れした雰囲気も漂わせる。よく見ると、年齢も不明。少女にも見えるし、若い装いをした老女にも見える。そもそもこの肖像は人間のものなのか。肉感的な身体に反して、表情は人形のように硬い。

象徴的な表現を潜り抜けた画家の描く肖像画は、肖像画というより、人間を一つの象徴として描いているように感じる。象徴としての人間。宇宙の神秘のなかの、もっとも神秘的な存在としての人間。存在する、ただいることで、世界に意味を与える人間。

そう考えてから、買ってきた画集でもう一度、『横顔』を見る。長谷川が、白昼に視たものは、人間の、女性の姿をしていたのかもしれない。女神という主題は、彼が芸術の道を歩きはじめたとき、好んで描いていたもの。初期の作品には、「思想の生まる時」(“Penseeacuteé naissante,”1925)と名づけられた裸婦の作品もある。思想の誕生は、ヴィーナスの誕生によって表現されている。


思想」という言葉を作品につけたことからも、長谷川は、芸術作品を生み出すことを通じて思想を見出そうとしていたことがわかる。作品も理知的で、彼の文章や発言にも深い思索に支えられた重みが感じられる。

裕福な境遇に育った長谷川は、白樺派とも交流があり、どこかしら高貴な雰囲気がある。残された写真は、どれもネクタイを締め、スーツを着ている。芸術家というよりは銀行家かホテルの支配人のようなたたずまい。

彼の作品に生活感はない。それは彼が生活の煩わしさと無縁だったからではない。むしろ、実生活上でも苦労を重ねていた。それを自分の奥底へ封じ込んで、理知的で、高踏にさえ見える作品を創りつづけたところに、強靭な精神的貴族性がある。あるいは創作することが、孤独な生活者のなかに高貴な精神を養ったと言うべきかもしれない。

長谷川は、ヨーロッパの芸術作品を直接見たとき、「芸術的に頭が下がるものはほとんどない、あとは技術だけだ」と思ったという。それほど強い自信をもっていた彼でさえ、次々と主題を変え、技法を変え、作風を変えていった。

長い年月をかけて身につけた技をこめて、原点と言える主題に還る。名を成したあとでも、技を高める労を惜しまず、感性も衰えることがない。


長谷川潔を知った作品は、『コップに挿したアンコリ—過去・現在・未来』。図書館で画集を借りてきたとき目を引いたのも、草花や樹木を描いた作品だった。それは、書き残した感想文を読んでもわかる。二度目の展覧会で、女性の肖像画に目を留めたのはなぜだろう。

何も感動がなく見ていたようなあの二月の日、深い黒に縁取られた世界に、少女とも大人とも言えない女性の肖像を探していたのかもしれない。

あの日、海岸通を歩いていても、何ひとつ思い出すことはなかった。懐かしいはずのコンサート・ホールの前まで来ても、何も思い出さなかった。25年前に来た場所が、今も変わらずにあることを確認しただけったような気がする。

私が白昼に視たものは、ただ青い空だけだった。しかし、そういう確認も必要なことかもしれない。

不思議なことに、思い出したいことは何も思い出せないのに、思い出したくないことは頻繁に思い浮かんでくる

思い出すとはどういうことか、空しい思索を循環させながら、家路についた。その晩、ずっと前から書きかけのままになっていた書評を一編、書き上げた。


さくいん:長谷川潔横浜