烏兎の庭 第一部
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4.4.03

読者は踊る、斎藤美奈子、マガジンハウス、1998


斎藤の作品を読むのは『紅一点論』『趣味は読書。』に続いて三作目読本さん江』は少し立ち読みしたものの読みきることができなかった。ては、同書でもとりあげられている井上ひさし『自家製文章読本』が文心構えについてはすべてを語っていて、『文章読本さん江』もまた、余足しに過ぎないように感じられたから。

『読者は踊る』は『趣味は読書。』より前に書かれた作品。切って捨でなく、お奨めの本も紹介されていてバランスはとれている。言葉を換『趣味は読書。』の方が毒気は強い。あえて嫌われ役だけを演じた理由ると、それだけベストセラーとそれ以外の本の差が大きくなったからでろうか。売れている本を批判して、同じ主題の良書を紹介するというふり方ではもはや対処できないほど、書籍の市場はベストセラー至上主義いる。

読書はもともと個人的で、内面的な趣味。気の合う友人に薦められて自分で好きな作家や分野を読みあさったりするところに楽しさがある。現代の読書はどうも違う。著名な人が書いているから売れ、売れているに売れる。

恐ろしいのは、同じ本が売れるだけでなく、読後の感想まで、「元気た」と判で押したように同じものになっていること。しかもこの感想はから本の広告にコピーや、これまた著名人の感想として書かれている。

これでは驚きも発見もない。あるのは予め決められた感想を追体験しストセラーを読んだと人に言うためだけに頁を繰る、空しい作業。

考えてみれば、これは読書だけに限ったことではない。雑誌にとりあレストランで食べ、ブランドの服を着て、売れている音楽を聴く。その分が気に入ったというのでも、信頼できる人にすすめられたというので雑誌に出ているから、ブランドだから、よく聞くから、というまったくない理由による。そうした傾向はファッション、食事、音楽など趣味のではない。教育や職業、結婚、生活のすみずみまでが、主体的な選択でブランドや権威付けられたものへの無批判な追従によって汚染されてい

そうかといって、主体的な選択を努めればいいというものでもない。完全に主体的な選択などあり得ないから。産業化社会、情報化社会である現代にあって、純粋な出会いというものはほとんどない。書店で平積みになっているのは、書店がそれを売ろうとしているから。その本を手に取るとき、題名、著者、装丁なども、純粋に自分の嗜好によってではなく、最近耳にした言葉、よく知っている作家、今流行りのデザインなどに少なからず影響されている。

だから主体的な選択などという妄想はもたないほうがいい。選んでいるのではなく、選ばされている。そう思っておいたほうが用心深くなる。むしろ問題は、選ばされたものをどう受け止めるかにある。用意された感想どおりに感じるか、自分の批評眼に従って感想を持てるか。

ここでも「素直な気持」に黙って従うと、用意された感想を知らないうちに心に植えつけることになるから注意しなければならない。素直な気持を疑うもう一人の自分がどうしても必要になる。「邪悪な読者」と「踊る読者」がいるのではない。誰の中にも「踊る読者」はいる。それは「素直な気持」をもっているのだから、けっして悪いばかりではない。ただし、同時に、誰でも「邪悪な読者」を内面に見出し、育てなければならない。

『読者は踊る』で斎藤が批判するような本に心から感動する人がいても構わないと思う。「邪悪な読者」を気取って、誰が書いたからダメ、何の二番煎じだからダメと知った風なことを言う方がおかしい。訳知り顔でイデオロギー暴露をする人に限って、実は別なイデオロギーに凝り固まっているもの。批判すべきは、感動してしまう内なる無邪気な「踊る読者」。作品や著者ではない。


さくいん:斎藤美奈子



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