メビウスの輪としての言葉――類義でもなく、対立でもなく、逆説でもなく


言葉は、何かを定義するもの。そしてエッセイは言葉によって思索を表現するもの。だからエッセイという文章表現を究めようとすれば、一つ一つの言葉の違いに敏感にならないではいられない。言葉を厳密に区別していくことが、思索を深めることだと言い換えることもできる。

言葉について考えるとき、一つの言葉だけではなく、別の言葉として比較してみることが少なくない。二つの言葉を並べてみると、似ていたり、反対だったりしていることがわかる。

ところが、よく考えてみると、同じような意味に見える言葉に、まったく正反対の含意が見出されることがある。また対立している言葉が、実は向かい合って対になっているのではなく、むしろ、意味の端が、まるで二匹の蛇が互いの尾に食らいついているように、つながっているようにみえることがある。あるいは、意味がねじれて、互いが接着しているようにみえることもある。

言葉の意味をたぐっていくと、反対の意味の言葉にたどりつく。その言葉について考えていると、またはじめの言葉に戻る。二つの言葉には、メビウスの輪のような関係が、ときに見られる。

これから、そんなメビウスの輪のような言葉について、いくつか考えてみる。


理解と説明

理解と説明は、一見似ているが、まったく違うことを指している。

ハンナ・アーレントは、「理解と政治(理解することの難しさ)」と題された短い文章のなかで、全体主義という時代の趨勢に立ち向かうためには、理解することが必要だと述べている(『アーレント政治思想集成2 理解と政治』、Jerome Kohn編、齋藤純一、山田正行、矢野久美子共訳、みすず書房、2002)

理解することは、わかる、納得するということとは違う。アーレントの文章を読んで、そう感じた。わかる、納得する、とは、説明を受け入れるということ。

全体主義とは何か、なぜ発生したか、どこで、どのようにして時代の流れになったか。そんな説明はいくらでもできる。例え話を通じてやさしく説明することも、学問的に詳しく説明することもできる。しかし、いずれも理解とは異なる。

説明を、解釈という人もいる。だいたい、喩え話にしろ理論しろ、説明などは一切聞かずに全体主義に抗う人もいれば、知識だけは豊富でもそれに埋没したり、適応したり、むやみに抵抗する人もいる。

アーレントは理解とは和解である、とも言っている。頭でわかることではなく、身体でわかることだ、と言ってもいいかもしれない。それだけではまだ足りない。わかる以上の、行動につながるような心理的態度を和解という言葉は示している。しかも、その態度は自覚してではなく、自然に身に備わっているもの。

森有正は、「理解」という言葉じたいを無化する。

それを「理解すること」は、本当はあってもなくてもいいのであり、事柄にとって何の重要性ももっていいない。真実に、そういう関係の中に「在って働く」(原典傍点)ものにとって、その関係を定式化したデカルトの理論を知っていてもいなくてもどうでもよいのである。(「大陸の影の下で」『森有正エッセー集成5』二宮正之編、ちくま学芸文庫、1999

理解している人には、理解という言葉さえも必要ない。理解にとってもっとも大切なことは、「在って働く」すなわち「存在して行動する」「生きて暮らす」ことだから。


理解と説明 つづき

理解と説明は、似ているようで違う。けれども、二つの言葉はつながっている。説明を突き詰めていくと理解につながる。理解の度が過ぎると説明に戻る。

例えば、全体主義という言葉を知らなくても、それを理解し、つまりただ埋没したり、適応したり、抵抗したりするのではなく、そのただなかにありながらそれを変えていこうと働きかける人がいる。けれども現実には、先に言葉を知ってしまう場合がほとんど。教育や情報化が進んだ現代ではなおさら。全体主義のただなかに生きていることに自分で気づく前から、全体主義とは何か、どのように発生したのか、どうすれば適応したり抵抗したりできるのか、あふれるほど説明が与えられる。

全体主義という言葉を知らなくてもそれを理解する人はいるとしても、多くの人は言葉を先に知ってしまうから、直接理解にいたることはほとんど不可能。いつも説明を受け入れながら理解を試みることになる。そうなると、説明は理解をすすめる手助けにもなる一方で、自分では理解、すなわち全体主義のなかでそれを変革すべく生きているつもりが、いつのまにかその説明を受け入れるだけの生活に陥る可能性もある。

確かにこうした説明は、全体主義について多くを教えてくれるし、何より自分がそうした時代状況に生きていることを知らせてくれる。けれども、説明過多は理解から遠ざかることに手を貸すだけ。説明が多いほど、その説明を納得するために労力が必要になる。疲れきってしまえば、納得することさえあきらめる。


職業と仕事

職業と仕事は、似ているようで違う。

職業はこなすもの、仕事は見出すもの。

職業は生活を支えるもの、仕事は人生を支えるもの。

だから、職業には目的がある。仕事には、目的がない。あるとすれば死ぬこと。いつか死ぬために、仕事をする。それを遅らせる抵抗ともいえるし、それまでの暇つぶしともいえる。

職業と仕事が一致することもあれば、一致しないこともある。どちらの場合にもそれゆえの喜びもあれば、苦しみもある。つまり、仕事と職業が一致するかどうかは、幸福とは直接関係ない。

やりたいこと、すなわち仕事を職業にするという考えをもっていると、やりたいことだからつらいことに我慢する、やりたいことでないから我慢できない、という論理に陥る。

実は、仕事はやりたいこととは限らない。やらなければいけないものでもない。いつのまにか、自分がするように仕向けられているもの。誰によって、か。それによって仕事の受け止め方が変ってくる。

職業には、制約がある。仕事には、制約がない。仕事にあるのは、条件。

制約のなかで、どれだけ効率よく、利益を出すか、効果を得るか、努めるのが、職業。制約を外せば、効率も利益も効果も増大するのは当たり前。しかし、それにはリスクとコストが伴う。

制約と条件は、似ているが違う。制約は、犠牲(コスト)を払えば乗り越えられる。あるいはコストを払わずに、あるいはコストを減らして制約をとりはらうのが、イノベーションというものだろう。条件は、乗りこえられない。乗りこえる必要もない。それは「いま、ここ」を形成する土台だから。

このように職業と仕事は、違うものだけれど、自分がどちらに関わっているか、簡単にわかるものではない。仕事をしているつもりで、職業の制約のなかでもがいているだけかもしれないし、職業に没頭しているつもりが、自分だけの仕事を見出していることもある。

お金をもらってしているから職業、そうでないから仕事というものでもない。


プロフェッショナルとアマチュア

プロフェッショナルとアマチュアの違いは、プロ意識とアマ精神という言葉に端的に現れている。プロフェッショナルは意識、自覚。アマチュアは精神、魂。

前者は自覚すること、自覚しなければいけないこと。後者は自覚できないこと、無自覚なこと。福沢諭吉の言葉を借りれば、無意であること。この言葉は、大阪淀屋橋に今も残る適塾の床の間に掛けられた書にあった。

スタイルという観点からみたときのプロとアマのもう一つの違い。人は誰もスタイルを一つもつ。けれども、スタイルが表現される方法、形式、様式はさまざま。一つの表現形式で、一つの様式だけをもつのはアマチュア。一つの表現形式でも、多様な様式、スタイルの変奏ができるのがプロフェッショナル。

何を書いても、同じ文体になるのはアマチュア。一つのことについて、いくつもの文体で書けるのがプロフェッショナル。ただし、プロはそのすべてを発表するとは限らない。能ある鷹は爪を隠す。いくつもの変奏が可能であっても、あえて一つの様式を選ぶことができるのがプロ中のプロ。何を描いているのかわからないような抽象画を描く画家が、実は精緻な素描をしている。


知識人と大衆

知識人と大衆は、同じもの。どちらも、現代に生きる人間。見方によって、同じ人でも知識人にもなれば、大衆にもなる。確かに知識人と大衆は、一般的な意味では反対ことば。だから、知識人と大衆は、二枚の短冊のうち、一枚を裏返して貼り付けたメビウスの輪のようなもの。意味を裏返してたどっていくと、いつのまにか、元に戻る。

現代人はみんな大衆。自分が、とりかえのきかない、かけがえのない、たった一人の人間であることに気づいていない人は、みんな大衆。

自分が、とりかえのきかない、かけがえのない、たった一人の人間であることに気づいたとき、人はもう大衆ではない。知識人となっている。

知識人はみんな大衆。自分でも知らないうちに他人の意見に惑わされ、他人に属し、他人と同じ行動をとる人は、みんな大衆。知識人は、自分だけはそうではないと思っている。だからこそ、知識人は大衆。

大衆は、気づいていない、一人であることに。

知識人は、気づいていない、埋もれていることに。

一人であることに気づくとき、大衆は知識人になり、埋もれていることに気づくとき、知識人は大衆になる。

知識人は説明をつくり、大衆は説明に溺れる。知識人が大衆になるとき、説明は理解になる。大衆が知識人になるとき、埋没、適応、抵抗は理解にかわる。


碧岡烏兎