烏兎の庭 第一部
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11.1.03

アーレント政治思想集成1 組織的な罪と普遍的な責任(Essays in Understanding: 1930-1954)、Hannah Arendt, Jerome Kohn編、齋藤純一、山田正行、矢野久美子共訳、みすず書房、2002

アーレント政治思想集成2 理解と政治(Essays in Understanding: 1930-1954)、Hannah Arendt, Jerome Kohn編、齋藤純一、山田正行、矢野久美子共訳、みすず書房、2003

人間の条件(The Human Condition)(1958)、Hannah Arendt、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994


政治思想史を少し勉強したことがあるので、アーレントの名前は知ってはいたものの著書をきちんと読んだことはなかった。主著『人間の条件』は持っている。労働や仕事について優れた洞察が書かれているとは聞いていたので、何度か読みはじめてみては、長くて難しく、結局放り出してしまった。家へきた友人が書棚に『人間の条件』を見つけて初期の論文集が最近出版されたことを教えてくれた。

図書館で探してみると、インタビューや書評など、比較的短い文章が多く収録されている。これなら読めるかもしれないと思い手に取ってみた。


アーレントというと、「公的領域を再発見した」、「公的空間の復権を理論化した」という教科書的な理解くらいはもっている。あるいは、そんな公式だけを覚えたことがかえって彼女の魅力を見えにくくしていたかもしれない。アーレントは新しい何かを打ち立てた人ではなく、打ちたてようともがきつづけた人だった。書評や時評など初期の「エッセイ」を読んでみると、彼女は理論家というより、思索家であったことがわかる。とりわけ「理解と政治(理解することの難しさ)」は、全体主義という彼女が生涯を通じて取り組んだ主題について問題そのものではなく、その問題について考え続ける態度に注目している。

理解することは、生きることのすぐれて人間的なあり方である。人間は誰もが世界――彼がそこに余所者として生まれ、他と異なるその唯一性を失わない限りいつも余所者にとどまりつづける――と和解する必要があるからである。理解は誕生とともに始まり、死とともに終わる。全体主義的な統治が私たちの世界の中心的な出来事であればこそ、全体主義を理解することは何かを赦すことではなく、そもそも全体主義を可能にした世界と私たちが和解することを意味する。
この活動は、闘いを直接鼓舞したり、何らかの目標――たしかにその活動がなければ見いだしえない目標ーーを与えることはできないが、それのみが闘いを意味あるものにすることができ、その闘いに勝利した後におそらくはじめて自由にはたらきはじめる人間の精神や心に新しい闊達な力をもたらすことができる。

全体主義とは、ナチズムや超国家主義だけを指すのではない。人間の画一化を進めるあらゆる動き、産業社会、情報社会、グローバリズムも全体主義の一形式。「理解と政治」での論考に従うと、全体主義に対して人間がとる態度は五つある。その5種類は私なりにまとめると、埋没、適応、逃走、抵抗、そして理解。


埋没とは、何も考えずに、時代の流れに呑み込まれること。適応は、全体主義の負の面から眼を逸らし、あえてそこに積極的な一面を見出す。逃走は、全体主義とは関わりのないように見える生き方を選ぶ。抵抗は、時代の流れに反発する。全体主義を推し進める制度、政策に具体的に抵抗する。理解は、アーレントの言葉にあるように全体主義のなかに生きながら、その精神との和解を模索する。

理解以外は、全体主義に対する解決にならないというのが、アーレントの考え。無言で従う埋没は論外としても、そこに生きることに積極的な意味を見出す適応にしても、自分は変わっても全体主義という世界は何も変わっていない点に問題がある。逃走は、実は消極的な解決にすらならない。事態は何も変っていないし、全体主義が社会のすみずみにまではびこっていることを忘れて逃げ切ったつもりでいることは、ある意味では埋没や適応以上に全体主義に侵されていると言える。

抵抗は、一見解決にみえるけれど、運動が継続されず、公式化され形骸化する恐れがある。その場合、今度は公式化した運動に対して埋没や適応がなされるために、本来の標的である全体主義に対する戦いは見えなくなる。また、抵抗する人にとっても、教えること、学ぶことがかえって、理解を阻むこともあるとアーレントは指摘する。

善意をもった多くのひとが他の人びとを教育し、世論の質を向上させるためにこの(理解の)過程を切り詰めようとしている。彼らは、書物は武器となりうるし、言葉で闘うことができると考えている。だが、武器や闘いは暴力の領域に属し、暴力は、権力とは違って言葉を必要とはしない。暴力は言論が終わるところで始まる。闘いのために用いられる言葉は言論(スピーチ)の資格を失う。それは常套句(クリシェ)となる。常套句が私たちの日々の言葉や議論に浸透するその度合いが、私たちがどれだけ言論の能力を奪われているか、そしてそればかりでなく、私たちの議論を終わらせるのに悪書(悪書にかぎってよい武器になる)よりももっと有効な暴力という手段に訴える用意がどれだけできているかを知る指標となる。こうした一切の試みがもたらすのは教化(インドクトリネイション)である。

残るは理解。理解は、何より個人の自発的な態度。理解は、全体主義に反発するのではなく、和解すること目指す。言葉をかえれば、全体主義のなかに生き、その力学に従いながらも、その力学を分析し、その力学そのものを変更することを試みる。いや、理解することにより、周囲は自然にそれまでとは異なって見えるだけでなく、異なって動き始める。それは何より自分自身が適用しようとか、抵抗しようとか意識しないでも、世界を変えていく行動をとりはじめるから。


理解は難しい。困難なだけでなく理解する態度は孤独を招く。埋没する人々からは、小難しいことをしていると思われ、適応する人々からは競争からの脱落者と見下され、抵抗する人々からは体制の恭順者と非難されるのだから。

孤独を招く理解は苦悩の自覚を促す。理解につきまとう孤独と苦悩は人間が個人で存在する以上不可欠な、本質的な孤独。逃げることも癒すこともできない。「耐える」しかない孤独と苦悩。それだけが、和解への途を拓くといってもいい。「理解と政治」の文章から、私はそのように受け止めた。

全体主義に対する戦いは、一度ではない。生きている限り続く。その意味では、生き方の問題であり、スタイルの問題でもある。理論によって解明されるものではなく、理解しようと努める姿によって、対決できる。このあたりに、アーレントと私の考えには接点がありそう。

真の理解は、終わりのない対話や「悪循環」に倦み疲れることはない。なぜなら、真の理解は、構想力がつねに最後には驚嘆すべき真理の光を少なくとも垣間見させてくれると信じているからである。
構想力は、私たちがもつただ一つの内なる羅針盤である。私たちは私たちの理解が及ぶ範囲で同じで生きているのである。私たちがこの世紀に安らうことを犠牲にしてもなおこの地上に安らおうと願うなら、全体主義の本質との終わりのない対話に加わるよう試みなければならない。

アーレントの文章を「理解することを試みる論考」、すなわちエッセイとして読むことがこれまでできなかったのは、これまで読んだ思想史の教科書に非があるわけでもなく、もちろん、アーレントに責任があるわけでもない。そうした文章の読み方を私が知らなかっただけ。このごろは文章を、できあがった思想の表現ではなく、思索を深めた場として読むようになっている。


もっとも、アーレントはインタビュー「何が残った? 母語が残った」の中で、よく考えてから書きはじめ、書きはじめてからはほとんどなおさない、というようなことを述べている。確かに文章は、明確に言い切ることが多く、思索によって文章の道筋が見えてくるような書き方ではない。考えながら書くのではなく、考えたことを書く、というのが、彼女の基本姿勢にみえる。

考えることと仕事をすることとは、けっして同時的には起きることのない、二つの異なった活動力なのである。世界に自分の思考内容を知らせたい思想家は、なによりもまず思考することを止め、自分の思想を記憶しなければならない。(「第三章 労働」『人間の条件』)

ところが、編者の序文には、アーレントの草稿には書き込みや紙片の貼り付けなどがたくさんあるとも書かれている。いずれにしても、アーレントにとって、書くということはどういうことなのか、考えること、理解することとはどのような関係にあるのか、なかなか興味深い問題ではある。

『政治思想集成』には、読み応えある文章がいくつも収録されている。「理解と政治(理解することの難しさ)」のほかにも、例えば、「アウグスティヌスとプロテスタンティズム」は、記憶と表現、思索と表現という私の関心事にとって示唆に富む。

それでもやはり、アーレントの文章は私にはよみにくい。今回も『人間の条件』は完読できなかった。「第三章 労働」と「第四章 仕事」を読み進めるのが精一杯。結局、我慢しきれず、終わりの第六章の結語部分に飛んで読み終えたことにしてしまった。


読みづらいというのは、難しさの程度の問題ではなく、質の違い。要するに肌に合わないのだろう。学ぶべき点はまだまだ多いはず。それでも読みづらいと感じてしまうのは残念ではある。とはいえ、スタイルは人の数だけあるという私の持論に従えば、同じ問題について似たように考えても、まったく違う表現方法をする人がいることを知ることは、むしろ喜ばしいことでもある。

共鳴することが共同することに結びつくとは限らない。音楽は倍音、すなわち数え切れないほどの異なる周波数で響きわたるもの。研究のために読むわけではない私にとっては、考え方が違っても、スタイルに共振する文章を、これからも読んでいくことになるだろう。いつかアーレントから響く倍音に気づくまで。


さくいん:ハンナ・アーレント



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