いつのころからか、木の写真を多く撮るようになった。その写真を正方形に切り取って飾っている。
はじめは樹の根や幹を撮っていた。そのうち見上げて、木の枝を撮るようになった。
好みの構図がそうして変化していることに、なかなか自分でも気づかないでいた。そのことにはっきり気づいたのは、大阪の国際美術館で日高理恵子の絵を見たときだった。
2メートルはあろうかという大きな画面いっぱいに黒々と枝が広がっている。これだ、無意識のうちに探していた構図は。一目で日高の世界に魅せられてしまい、その日見たデュシャンのことはすべて忘れてしまった。
1月27日の日経新聞で日高理恵子の個展を知った。記事には清澄とあったので、すぐみつかるだろうとよく調べもせずに地下鉄に乗り、清澄白河で下りてみた。画廊といえば伊勢英子『絵描き』の最後に出てくる。そんな場所を想像して探してみてもどこにもない。携帯電話で検索して、ようやく川沿いの倉庫の上にギャラリーを見つけた。
日高は、描こうとしているのは樹木ではなく、枝のあいだにある空、その奥の広がりという。その言葉を頼りに作品を見た。
作品を見ているときは特別なことは感じなかった。そのあと、歩きながら冬の枯れ木を見たとき、枝が空に向かって伸びているように見えてきた。
以前は、写真を撮るために木を見ていたせいか、枝と枝のあいだは平面的な隙間のように思っていた。いまは、目には見えないけれど、筋肉のすみずみに血管が広がっているように、細い枝が立体的な空間に向かって伸びているように感じられる。
もう一つ、日高の作品で気づいたことは、光源の位置がはっきりしないこと。
太陽に向かい、木洩れ日や幹から少しだけはみだす朝陽や夕陽をよく撮影する。そうすると、写真は逆光のためにほとんど白黒のような色合いになる。
日高の作品も白黒なので、逆光のなかで樹木を見ているような印象を与える。でも、木洩れ日や日差しは、はっきりと描かれてはいない。
光源のほか、描き込まれていないものはまだある。方角はどちらか、季節はいつか、風向きはどうか。日高の作品は、樹木を見上げて描いた構図を壁に吊るしてあるので、それだけでも空間が捻じ曲がっている。自分は横を見ているのか、上を見ているのか、わからなくなってくる。方位はまるでわからない。
写実的でありながら、きわめて抽象的でもある。空間そのものが描かれている、とはそういうことも指しているのかもしれない。
まぶしい光源を、黒々とした枝と枝のあいだについ探してしまう。一つの正解を答える問題集ばかりしているように。
私は、自分の写真に何もかも入れ込もうとしてしまう。空間そのものが、まだつかめていない。
さくいん:日高理恵子
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