烏兎の庭 第一部
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筆蝕の構造――書くことの現象学(1992)、石川九楊、ちくま学芸文庫、2003


「書く」とは、どういうことか。自覚的に文章を書くようになった二年前から、ずっと気になる問題になっている。そのために、いくつもの随想が書くことについて書かれている。石川九楊の名前は、出張先の宿で読んだ「京都新聞」一面のコラムで知った。そのうち読んでみたいと思っていたところ、書店で「書くことの現象学」と副題のついた文庫本を見つけた。

本書は副題が示すように「書くこと」について考察している。ただし、私が関心をもっている文章、作品を書く、ということとは少し違う。石川が考察の対象とするのは、文章や作品を書く前にある文字や言葉を書くこと。副題にある「現象学」とは、言葉を書くことについての原理的考察という意味。言葉と作品。この違いこそ、石川の論考と私の考えていることの分離点であり、共感も違和感も、この一点から広がる。

書き言葉は、話し言葉とはその生成の仕方からしてまったく違う、ということが石川の基本的な考え方。言葉を書くとは、尖端で紙、机、大地、を圧しつけ、ひっかくこと。そのひっかかり、彼のいう筆蝕から文字が生まれ、書き言葉が生まれる。これは書くことの原初的意味の再発見といえる。

今日、言葉は機械を通じて書かれることが圧倒的に多い。書くだけではなく、読むことでも印刷された文字を読むほうが多い。だから手で書くことを通じて、忘れられようとしている書くことの原初的な意味を再発見することができるだろうし、何といっても機械では表現することのできない筆蝕を字にこめることができる。手で書くといっても、ペン、鉛筆だけでなく毛筆で書いたり、刀で彫り込むこともできる。それぞれに、それぞれの筆蝕がありうる。

書家でもある石川は、書くことの再発見を促している。けれども彼は書字の復権をもくろんでいるのでもなさそう。本書のなかで彼の書字に対する思いは好悪混ざっている。両義的といってもいい。なぜなら書くことはもともと政治権力の独占していた行為であり文字を書く、碑文を彫るということは、時の権力に反対するという態度も含め、政治との関わりが避けられないから。

わかりやすく言えば、東アジアの漢字は、文字以前の形象と文字以降の形象とが決定的な断絶をへずに、連続的な階調で繋がれており、心性的に、アジア的専制とは、いまだに完全に切れているとは言いがたい。(一 書くことと話すこと「書くこと」の政治性)

だから、書くことの原初的な意味を再発見した石川であっても、単純に書道を奨めたりはしない。むしろ、毛筆の練習をするくらいなら、何でもいいから書いてみて「言葉と文体の世界を磨き上げる」ほうがいいと書いている(四 スタイル)。にもかかわらず、石川は、パソコンによる作文に対しては徹底して批判的。それは口述筆記を機械で文字に変換しているだけで、書くことではないとまで言い切る。ここまで書かれると、パソコンを使って書くことについて考えている身としては、何か反論したくなってくる。


書くことは、圧しつけること、彫ることという考え方には、私も共感する。書きながら、そんな風に感じることがあるし、文章自体を浮彫という隠喩で表現したこともある。けれども、それはあくまで心理的なこと。

実際に紙に筆で書くのではなくても、筆蝕は感じられている。その感覚はまったく嘘というものではないと思う。むしろ、見方によってはより本質的で深刻な摩擦や傷をもたらしている。活字を読んでも、心が傷つくことはある。つまり、書くことは原理的には、圧すこと、彫ることであるとしても、すべての書く行為が現実に身体的な筆蝕を伴わなければほんとうに書くことではないとは言い切れないのではないか。そう考えるのは、排他的な原理主義であり、手で書くことのできる人間の傲慢にすら感じられる。

例えば石川も引き合いにする音楽。何かを実際に叩いたり擦ったりしなければ、音は出ない。だから音楽にならない。けれども壮大な交響曲を生み出す作曲家は、すべての楽器を弾きながら楽譜を書くわけではない。楽器を弾かなければ楽譜が書けないというのであればむしろ素人同然。

オーケストラが目の前にいなくても、作曲家の頭の中ではたくさんの楽器の音と、それらが奏でる和声が響いている。そうして、心のなかに聴こえた音楽を楽譜という記号に書き換えているのだろう。そして同じように、今度は楽譜を見るだけで、心のなかに交響曲を奏でることができる人もいるに違いない。

言葉についても、同じことが言えるのではないか。口述筆記は喋るだけとは言い切れない。頭の中でただ思うだけではなく、言葉を選び、文を作り、文章を組み上げることは不可能なことではないと思う。もちろん、音楽にも文章についても身体的、原初的ないし原理的な意味がないわけではない。とはいえ、心のなかで描くのはあくまでも心理的、擬似的なものにすぎない。

擬似的、ということは、にせものということとは違う。身体的なものと心理的なものは、最終的に表現される音楽としては同じように聴こえてもまったく別の過程で生成される。真偽や優劣を比較できるものではない。パソコンや口述筆記だから、ほんとうの書くことではないとは言えない。どちらもほんとうに書いている。


そこでパソコンで作文することについて考えてみる。副題を借りれば「パソコン作文の現象学」。石川は、人の思いが言葉になり文字になるまでの過程を、身体的、物理的な筆蝕という概念を通じて考察する。ふだん目にしている言葉や文字は筆蝕を通じて生み出された手書きではない。圧倒的に多いのは印刷された言葉、文字、そして文章。とりわけ文学作品とよばれる文章ではほとんどの場合、印刷された活字を読むことになる。

つまり、文学を言葉による芸術表現としてみた場合、それは人の思いが言葉になり、文字になるまでの過程と、文字になった言葉が印刷される過程の二つの過程から成り立っていることがわかる。そして後半の過程はグーテンベルグの印刷機の発明以降、読むことを広く普及させると同時に、書くことを知識人と呼ばれる一握りの人たちに独占させた。

石川がいうように、書くことがアジア的専制政治と切り離せないなら、作品を書くことはヨーロッパ的近代資本主義と切り離せない。この点については、図らずも、石川自身が認めている。

「浄書」が発生する根拠は、詩文としては推敲され、もはや手を加える必要がなくなった決定稿といえども、そのままの形態では、いまだに社会的に存在し、通行する形態としては不十分であるという点にある。現代の作家の小説であっても、印刷され、本として上梓されないかぎりは、いまだ完成した著作でありえないのと同じことだ。(三 <筆蝕>と文学 下書きと浄書)

本にしたものだけを作品と呼ぶ、作家による作品の独占状態は、いま崩れようとしている。もちろん、かなりの資金がなければ、本という形に残すことは難しい。けれども、パソコンがあれば、誰でも印刷された本のような作品を書くことができる。画面のなかでは、編集され、印刷され、販売されている作品と変らない見栄えを生み出すことができる。それどころか、より多くの人に、本が流通していない遠くにいる人にまで、読まれる可能性を秘めている。これは画期的。ワープロが筆蝕を喪失させたことと同じくらいの意味があると私は思う。


もう一点、書くことを、言葉の一つ一つでなく作品を書くという観点からみた場合、パソコンには別の利点がある。パソコンは書くことを描くことに近づける。おかげで言葉の集積を作品化する労苦はかなり軽減される。つまり、才能の欠如をテクノロジーによって補うことができる。

文章は、基本的には初めから終わりに向かって直線的に読まれる。けれども、読まれる文章は直線的に書かれるわけではない。語句、断片、断章、書き出し、引用、結論などを、ばらばらに思いついたり、別々に準備することは少なくない。もともと、言葉になっていない漠然とした思いに形を与えることが書くことだとすれば、そういうほうがふつうだろう。

パソコンは、そうしたばらばらに書いた断片、断章を文章に組み上げるときに非常に便利。また、書き上げた全体を見渡しながら、語句を統一したり、段落の順序を入れ替えたりすることも簡単にできる。こうした利点は、単なる言葉や文の羅列ではない、有機的な構造をもった作品を書こうとする場合に間違いなく役立つ。パソコンは、作品を書くことを、言葉を綴るだけの行為から絵を描くような立体的な行為に広げる可能性をもっている。

結論として、私は石川ほど悲観的ではない。

<筆蝕>のうちの<蝕>を失い、擬似的な<蝕>しか残されぬことが意味するものは、<蝕>こそが言葉を生み出すという原理からすれば、少なくとも、従来の伝統的な意味では、「書かれた言葉」が消滅する時代、「書く」ことを通して考えることをやめる社会であり、<蝕>によって支えられてきた人間のひとつの表現の美質を失う時代である。(四 スタイル <筆蝕>の終焉)

人間は新しい道具を一つ作り出すたび、身体的な機能を一つ失うと聞いたことがある。乗り物が、歩いたり泳いだりすることの意味を失わせたように、パソコンは手で書くことの意味を失わせるのかもしれない。しかし、考えてみれば、文字を生み出したことじたい、文字以外の表現だけで表現する意味を失わせたとも言える。現代人は、もはや踊りや太鼓の音だけで歴史を伝えるようなことはできないし、火と煙だけで、意志を伝えることもない。


それでも、新しい道具は新しい意味を生み出す。そう信じるほかない。信じる、信じないに関わらず、必ずそうであるに違いない。乗り物が大量輸送や速い移動を可能にしたように、文字が文学を生み出したように。

ただし、新しい道具は新しい機能をもたらすとしても、新しいスタイルはひとりでに湧き出るものではない。文字が生まれて身振りが失われたようには、パソコンは手書きを一掃しないだろう。手書き文字には個性や思い入れがこめられているという信仰はいまだに強く残っている。電子メールが普及しても、年賀状や誕生カードはなくなっていない。私信のなかで、手書き文字は残っていくに違いない。

そうした私信のなかの手書き文字は、個性の一表現。書き手の人となりをそれとなく告げてしまう。それもスタイルではあるけれど、芸術のスタイルではない。スタイルは滲みでてしまうものであると同時に、自分の意志で表現するものでもある。自分の意志でスタイルを表現するためには、技術がいる。高度な技術を身につけるためには、継続的な修練が必ずいる。また、スタイルを自分の意志で表現するためには、心理的であれ身体的であれ、筆蝕、すなわち削ること、彫ることが必要になる。削るのは紙でも石でもない、自分の魂。その意味では、すべての芸術は魂の彫刻。

どんな書き方でも、愛する人の書いた手紙はうれしい。けれども、それは他の人には何の感動もあたえないかもしれない。反対に、優れた書家が書いた字は、その人を知らなくても、感動をもたらすことがある。パソコンでつくられたウェブサイトでも、知人だけが楽しむものもあれば、多くの人が楽しめるものもある。表現の場所に優劣はない。そのために使う道具や方法にも優劣はない。また、個人のスタイルにも優劣はない。ただし、芸術のスタイルには優劣がある。それは、魂の彫刻に対する自覚と、あくなき技術の追求に収斂する。




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