土を掘る 烏兎の庭 第三部
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9.13.06

愛の戦士 レインボーマン キャッツアイ作戦編(1972)、川内康範原作、東宝、2001

愛の戦士 レインボーマン サイボーグ軍団編(1973)、川内康範原作、東宝、2001

エスパー魔美(1987)DVD 第1巻、藤子・F・不二雄原作、フロンティアワークス、2007

エスパー魔美(1987)DVD 第8巻、藤子・F・不二雄原作、フロンティアワークス、2007

エスパー魔美 星空のダンシングドール、東宝、1988


レインボーマン エスパー魔美

夏休みに見た映像作品。

『レインボーマン』は、筋書きは何も覚えていなかったけど、「阿耨多羅三藐三菩提」という変身するための呪文(DVDでは、メニュー画面の背景に書かれている)、女怪人イグアナの目、それから「死ね」を連呼し、日本人を“黄色いブタめ”と罵倒する「死ね死ね団」の歌、どれも子ども時代の記憶のなかに突き刺さったままでいる。

初回から見なおしてみて、印パ戦争の戦場ではじまることに驚いた。以降、筋書きは“ありえない”展開を当たり前のように進んでいく。21世紀の子どもはところどころ「ありえねぇ」とツッコミながら見ている。70年代に見ていた私は、真剣にではないにしても、ごくふつうのヒーロー番組として見ていた。

1970年代には、こうしたアナーキーで、グロテスクとかキッチュとかサイケデリックとか言われる一面が、子どもの日常生活にまで入り込んでいた。こういう色彩や言葉遣いや物語を吸い込んで暮らしていたのか。自分のことながら、奇妙に感じる。

川内康範は、愛国心から『レインボーマン』の物語を構想したという。図書館の音楽の棚で見つけた『昭和ロマネスク』(黙出版、2002)でそう書いていた。日本人はアジア人に愛されていない。戦争犯罪の清算もしないまま、今度は経済進出でアジアを蹂躙する日本人。そういう日本人を憎みつづけているアジア人は少なくないだろう。最終回で戦いは終わらない。日本人を憎むミスターKはいまも生きている。

70年代にそこまで川内の意図を読み取った子どもはいなかったに違いない。理解されようがされまいが、己のメッセージを力任せに叩きつける。多くの人がかかわって出来ているにも関わらず、『レインボーマン』には、アウトサイダー・アートの匂いがする。

70年代は、アウトサイダーが表舞台にいた時代だったのかもしれない。


『エスパー魔美』は、藤子・F・不二雄のなかで一番好きな作品。といってもアニメだけで原作は読んでいない。

この作品の魅力は何か。思いつくままに書いてみる。

毎回ほろりとさせる人情話。ただし、結末はいつももうすこし見ていたいと思うところでスパッと切り落とされる。そのせいで、押し付けがましくはなっていない。

人情話を貫いているのは、マミと高畑の過剰とも言えるほどの正義感。マミもそれに気づいていて、自分のことを「おせっかい」と言っている。どこにでもいそうな子が正義の味方になれる、この発想は、『パーマン』や『キテレツ大百科』に通じる。

過剰な正義感は、思春期に特有なもの。やがて、自分の精神の成長と比例するように世界の広がりを感じる一方で、肉体の成長と反比例するように、自分の小ささに気づく。

もちろん、この作品では過剰な正義感の先に待ち構えている青春の挫折は描かれていない。描かれているのは、どこまでも過剰で、純粋な正義感に満ちた幸福な思春期のひととき。


高畑の存在も面白い。知的な人物は『ドラえもん』の出来杉や、『ちびまる子ちゃん』の長山君のように脇役で登場することはあっても、準主人公にまでなることはめずらしい。むしろ弱虫で劣等生の主人公が多い藤子・F・不二雄作品ではとくに珍しい。マミのような中学生はいそうな気がするが、高畑のように沈着冷静な中学生は、ちょっといそうにない。

一つ、思い出したのは、NHK少年ドラマシリーズ『なぞの転校生』の岩田広一。原作でもドラマでも勉強とスポーツが万能の中学生として描かれている。そういう人物でなければ、異次元から来た人と交流したり、彼らを助けたりする役割はこなせないからだろう。

ふつうに考えれば、高畑のほうがよほどエスパーに近い。彼の存在は『君たちはどう生きるか』に登場する主人公コペルにものの見方を教え諭す「おじさん」のようにみえる。

それくらい、高畑はいつも落ち着いていて、大人びている。だから、彼が迷いを見せる「第88話 ターニングポイント」は、彼の人物像を奥深いものにしている。私の好きなエピソードの一つ。

シリーズのなかで一番好きなのは「第39話 雪の降る街を」。超能力が時間を超える。まずは最初の巻と、この話の収録された巻を借りてきた。

『エスパー魔美』には個性的な人物が多数登場する。今風の言葉を使えば、「キャラが立っている」とも言える。

重要なことは、登場人物の個性が、台詞の言葉尻や服装にではなく、行動に現われていること。こういうところが、アニメでありながら物語にリアルさを感じさせている。

あとで実写ドラマになったことにも納得がいく。

この作品では毎回、衣装も変わる。冬には冬の姿で、冬の話が続く。季節感に富んでいる。この点も、リアリティを高めている要素の一つ。もっとも、人物は藤子・F・不二雄の児童漫画そのまま。マミの裸身も艶かしく描かれているわけではない。でもマミの動作はきめ細かく、ときどきはっとさせる場面がある。

この点では、そのあとに登場した『セーラームーン』や『カードキャプターさくら』のような成人男性の市場を狙ったようなところはない。その意味では、少年漫画や少女漫画ではなく、児童漫画の世界にとどまっている。

なぜ、主人公が頻繁にヌードで登場するのか、よくわからない。その場面がなくても、話はつながるし、マミや高畑の性格に違いが出るわけでもない。

マミの裸身が重要なのは、画家である父親にとってだろう。大人になって見てみると、『エスパー魔美』は父と娘の物語であることがよくわかる。十代の終わりに見たときには気づかなかった。


さくいん:『愛の戦士レインボーマン』『エスパー魔美』



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