日本の庭・世界の庭(自然の中の人間シリーズ[花と人間編] 9)、佐藤誠、農文協、2005


図書館の児童書新刊棚で見つけた図鑑絵本。庭の歴史、さまざまな庭の様式、西洋庭園と日本庭園の考え方の違いなどを写真をまじえてまとめる。現代家屋の庭づくりや造園用語の解説もあり、ビル街の庭などもとりあげられ、現代社会における庭の意味にまで著者は話題を広げる。

佐藤には「夏目漱石の庭園観」という論文もあるらしい。本書では庭を通じて禅の思想に近づいた夢窓疎石(国師)についても触れている。

佐藤の考えでは、歴史や様式はさまざまでも、庭は人間にとって大きな意味がある。

しかし、どの庭にも共通しているのが、庭がもつ人びとをほっとさせる効果、人びとに希望をあたえる効果です。最近よく耳にする「癒し」効果に通じるものです。
(あとがき)

自然と向き合うか溶け込むか、という態度の違いこそあれ、西洋でも日本でも庭が自然と人間を媒介する場所であることに違いはない。態度の違いより、この共通点は重要と思う人間は自然にそのまま入り込むことはできない。日本庭園でさえ自然を人工的な場に取り入れるのであり、自然そのものに住まうわけではない。


郊外の新興造成地で育った私にとって、自然は身近ではあっても、そのなかに溶け込んでいけるものでもない。雑木林を歩くのは好きだけれど、虫は嫌いで、カブト虫一匹とったことがない。私と自然の間には、仲をとりもつ庭がいる

庭のないところに住んでいる今の私には、庭と言えば、週末に散歩する公園と、このウェブサイト。

居心地のよい公園へ行くと、歩きまわって疲れてしまい、寝転んでつい眠ってしまう。ヴェルサイユでもエジンバラ城でも学校の芝生でも住まいに近い公園でも、私はよく歩き、よく呑み、よく眠る。草の上にゆったりできるところが、私には最高の庭といえる。


言葉の世界も、私には、身近でありながら、溶け込めない世界。私が生まれたときにはすでにあり、育てると美しくもなり、世話をしなければ荒れるところも庭に似ている。

言霊という言葉を字面どおりには信じない。すべての言葉に魂が宿るわけではない。思いのこもった言葉にのみ、意味がある。そういう言葉だけが、人の心を震わせる。


映画『風の谷のナウシカ』の中で、人間は呼吸さえできない腐海に育つ猛毒の植物を、ナウシカはこっそり自分の部屋で育てていた。隠し扉の先に彼女の庭があった。

彼女は深い井戸の底の土を鉢にいれ、井戸からきれいな水を汲んだ。すると、腐海の植物を並べた部屋の空気はよどむことなく澄んだまま。ナウシカの結論。

「汚れているのは、土なんです」

腐海の花に毒があるのは、花のせいではない。花を生かしている土や水が毒にまみれている。

言葉は、乱れたりしない。乱れているのは、それを使う人間のほう。どんなに「美しい言葉」を使っても、使う人の心が荒んでいれば、どこにも響かない。

思いを込めた言葉が書けるようになるため、日々耕す庭。土も花も目には見えないけど、もともと目に見えないものを育てているのだから仕方がない。私は、私の見えない庭を育てる。


佐藤があとがきに記した庭にまつわる中国のことわざ。

「一日を楽しむためなら友と酒を酌み交わして語らうとよい。一週間を楽しむなら豚を1頭ごちそうとして家族で宴を催すのがいいだろう。一月を楽しむなら嫁をもらって新しい生活と親族との絆を確かなものにするのがいい。そして、一生を楽しく暮らしたいなら庭師になれ。」

自然の庭を育てると心の庭が育つのか、その反対か、いまはまだわからない。ともかく見えない庭をきっかけにして、これまでほとんど興味のなかった見える庭にも興味をもつようになった。表紙に飾る花の写真を撮ったり、こうして庭の本を借りたり。

最近、植物の図鑑も買った。『しょくぶつ』(フレーベル館の図鑑ナチュラ)(無藤隆総監修、高橋秀男監修、フレーベル館、2004)。ひらがなが多く、漢字にはふりがな。絵も写真もきれい。

楽しいかどうかはともかく、仮想庭園(virtual garden)であっても、庭仕事のおかげで日々充実していることは間違いない。

庭師は一生かけても悔いのない仕事と言われると庭仕事にもまた精が出る。