「逆に」と「ていうか」日本語の乱れがあちこちで話題になっている。総合雑誌でも特集にしている。ときおり目を通してみるけれど、「逆に」と「ていうか」を取り上げたものはまだ見ていない。基本的には言葉は移り変わるものという立場から、「乱れ」も「変化」であると私は考える。それでも、どうしてもこの「逆に」は好きになれない。 「逆に」はとにかく濫用されている。とりわけビジネスの世界では、「正」の字を机に書きたくなるほど耳にする。今試しにインターネットで「逆に」で検索してみたところ、ざっと次のような用例が見つかった。 A 「簡単にアルバイト」が逆に借金の返済へ! こうした濫用の弊害は二つある。まず、本来さまざまな言葉を含意にあわせて使い分けすべきところを「逆に」だけですませることによって語彙が貧しくなっている。上の用例を見ても、違う言い方をすればより正確に文意が伝えられる場合が少なくない。「逆に」ではなく、「かえって」「むしろ」と言い換えたほうが意味のとおりがすっきりする場合が多い。 さらに一歩踏み込んで意味をはっきりさせるためには、「のはずが」(Aの場合)、「それならば」(Bの場合)、「結果的には」(Cの場合)、「違った意味で」(Dの場合)、「あるいは」(Eの場合)「実は」(Fの場合)、「なぜか」(Gの場合)などに言い換えてもいい。 また、もう少し説明を加えなければならないところを「逆に」だけですませているために文意が明瞭に伝わらない場合もある。Hでは「かえって新鮮な企画ができて」などの説明があったほうが言いたいことが伝わるだろう。 「逆に」とは文字通り逆接の副詞。ところが実際の用例をみるとまったく逆接ではない説明や対比、選択の用法にも使われている。意味や文脈に気配りながら言葉を選ぶことをしないで「逆に」ばかりを使っている。 これが、濫用の原因。逆接の接続が必要な場面は当然あるとしても、「反対に」「違う視点から見ると」など、そのほかの表現はあまり聞かない。 さまざまな状況を逆説でしかとらえられないということは、ものごとを二つのものの対立でしか考えられないということ。こういう思考方法に慣れてしまうと、やがて世界のすべてを善悪、明暗といった二項対立でしか見られなくなる。 見方をかえると、言葉を選ばずに貧しい語彙で話している結果、意思疎通そのものが貧相になっている。最近、とくに職業上での会話には、「逆に」を使ったパターンが多い。Aがある事柄を述べる。Bは「逆に」ではじめて、その内容に対して極端な場合や極端な事例などを挙げる。するとAは再び「逆に」と返して元のステートメントを再度提示する。単純化した例として次のような会話。 「明日は車で行こうかな」 このように、文章にすると間が抜けているとしか思えない会話が、実際には日常にあふれている。右のような会話は、それぞれが自分の意見を勝手に陳述しているだけで対話となっていない。会話は言葉のキャッチボール。それは同じ大きさのボールをただ投げ合っているだけではなくて、雪の玉を投げ合うようなもの。 投げて、受けて、小さくなってはこねて固めて、そうしているうち次第に玉は大きく硬くなっていく。うまく受け止められないときは壊れてしまうが、そういうときはまたこねて丸めて投げつける。ところが、「逆に」が濫用された会話にはそうした内容の展開がない。同じ平面で同じ価値の情報が行ったり来たりしているだけになってしまっている。 もう一つ、このような平板なコミュニケーションを助長する言葉の例に「ていうか」がある。大まかに言って「逆に」はビジネスや大人の世界、「ていうか」は若年層で異常なほど使われている。 「ていうか」も「逆に」と同様、もともとは相手の発言を受けとめて、自分の意思を付け加えて打ち返す際に使われる言葉。それが実際に使われている場面で聞いてみると、ただ異なる言葉に言い換えているに過ぎないことが多い。これがひどくなると言い換えですらなくなり、各々がほとんど同じ内容を違う言い方でぶつけ合うだけになってくる。 言葉の乱れを指摘する声は多いけれども、意思疎通の本質的な変容にまで踏み込んだ分析はまだ少ないように思われる。問題は、少し前に書いた教科書問題と同じで、あの単語はいい、これはよくないということではない。美しい日本語を話そうが正しい日本語を書こうが、言葉は相手に伝わらなければ意味がない。 相手にこちらの意図が伝わり、それを受け止めた相手からの意思が帰ってくる、その繰り返しから、お互いの理解が深まる。その意思疎通のあり方そのものが、日増しに乱れているような気がしてならない。 |
碧岡烏兎
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