土を掘る 烏兎の庭 第三部
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11.29.08

死者のゆくえ、佐藤弘夫、岩田書院、2007

平田国学と近世社会、遠藤潤、ぺりかん社、2008


死者のゆくえ 平田国学と近世社会

うっかりいつどこで書いたのか忘れてしまったメモ書きが手帳のすみにあった。書名と著者を頼りに検索してみると、昨年出版された日本の死生観に関する歴史研究。書店で見かけたのか、出版社の広告で見たのか。メモのとなりには『戦争の世界史 大図鑑』(河出書房新社)、『薬師寺白鳳伽藍の謎を解く』(冨山房)の書名も書いてある。やはりどこかで広告から書き写したものらしい。

以前なら読んだ本はどれも、どこで知り、どこで手に入れたかをしっかり記録していたのに、最近はまるでおろそかになっている。新聞の切り抜きもしていない。

難しい本、長い本も読めなくなった。書名に惹かれて借りてはみたものの、専門的で分厚い『死者のゆくえ』も開かないまま返却日が近づいてしまった。思い切って読みはじめてみると、フィールドワークを中心にした研究はそれほど読みにくい本ではなかった。

著者は、日本列島に住む人々の死生観と死に関する儀礼をたどる。古代の人びとは生きる者の世界と死者の世界は地続きと考えていたという。今日では、昔からの行事であるように思われる盆、彼岸の墓参りも、墓石を立てて遺骨を納めるという習慣さえも、江戸時代にはじまったものという。

最終章では、日本における死生観の移り変わりが生者の世界と死者の世界、二つの円の交わり具合で示されていてわかりやすい。

いまでは当たり前のように思われている墓地への納骨もつくられてきた制度の一つでしかない。そして、現代では、儀礼的な制度は廃れはじめ、遺骨をアクセサリーに詰めて肌身離さずにいるなど、死者との関わりは変わりつつあるともいう。

大切なことは、死者がどこへ行くと考えられていたか、またいま、考えられているか。宗教史や思想史はそのように問う。死者がどこに行くのか、ということではない。それは宗教の世界の問題。宗教学や思想史では、直接にそれを問うことはない。

死生観は時代によって移り変わる、そうした認識を与えられただけでも私には新鮮に感じられた。死者はどこへ行くのか、どこにいるのか、という問題にとらわれすぎていたせいだろう。そんな大問題にすぐに答えが見つかるはずがない。まずは、生者の世界と死者の世界のつながりを人びとはどう考えてきたか、それを学ぶこと。そうすることが、大きな問題に近づいていく準備になる。本書は、気負いすぎた肩をポンと叩いて、新しいものの見方を教えてくれた。


巻末に厖大な文献、資料が列挙されている。ふと見ると、遠藤潤さんの名前がある。彼にはブログを通じて『土佐日記』の奥深さを教えられた

何ヶ月か前に新聞一面の下に並ぶ書籍の広告で、遠藤さんの新著を知った。近くに上梓されたばかりの本を贈ってくれた人がいたので、ありがたく頂戴した。

ところが、読みはじめてみると、本格的な研究書でなかなか読み進むことができない。少しかじった西洋政治思想史に比べると、日本思想史の知識は頼りないし、平田篤胤についてはなおさら。参考になるかと思い、未読だった島崎藤村『夜明け前』(新潮文庫)を読みはじめたけれども、最近の気分では長い小説を読み込む気力が続かない。

研究書としては比較的読みやすい『死者のゆくえ』を先に読んでみると、難解にみえた『平田国学と近世社会』を通して遠藤さんが明らかにしようとしたことが、おぼろげながらわかってきたような気がした。そういう気がしただけなのかもしれないが。

平田篤胤に予備知識はなかったはずなのに、『夜明け前』とあわせて読もうとしたことからも、ある先入観はもっていたらしい。その先入観では、後の時代の視点から篤胤を見ていたために、彼が同時代にあってどんな仕事をしようとしていたか、という点に目が届かなかった。

『死者のゆくえ』によれば、現代まで続いている墓地や火葬、納骨、盆と彼岸の墓参りなどの習慣は、江戸時代になって普及した。その背景には寺請制度のように人口管理を目的とする政策があった。もちろん、その政策には隠れキリシタンの撲滅のような思想統制の目的もあったに違いない。

つまり、江戸時代では、死はすっかり制度化、儀礼化、形式化、世俗化されてしまっていた。『平田国学』を読んだ限りの私の理解では、篤胤はそうした世俗化されたしまった死者の世界との交流について、少なくとも過去にはそうではない関わり方があったことを文献を通じて論証しようとした。

もちろん、そこには、古代の人びとが考えていたような死者の世界と生者の世界との交流が彼の生きた時代、すなわち江戸時代においても、可能になるだろうとの目論見もあったかもしれない。その目論見はおそらく究極的なものであって、篤胤にとって当面の課題は、世俗化しきった死者の世界との交流が、いまとは違うものだった時代があったことを知らしめることにあったのではないだろうか。

もし、平田篤胤の仕事をそのようにとらえることが間違いでないならば、後世への影響から篤胤を明治国家のイデオロギーの源泉とみるよりは、むしろ江戸時代を覆ったイデオロギーへの挑戦者として見ることができる。さて、このような見方が的外れでないのか確認してみるには、国学についてもまだまだ学んでみなければならないし、後世からみた篤胤観として『夜明け前』も読み終える必要があるだろう。


ところで、私自身は、いま、死者はどこへゆくと考えているだろう。

墓参りは、私はほとんどしない。「庭」をはじめて最初の冬に墓石の前まで行ってみたけれども、何の感慨もなかった。その時に思い出されてきたものは、納骨のときのもの悲しい雰囲気、重々しく聞こえてくる読経の声、それから、何の感情も、悲しいという感情さえ失った参列者のうつむいた顔。そんなものばかりが思い出されて、死者とふれあえるような気持ちにはまったくならなかった。

それ以来、墓地のわきを通り抜けることはあっても、墓参りはしていない。テレビドラマなどでは、よく墓石に話しかける場面がある。その気持ちは、私にはわからない。墓石の前では、私はなぐさめられたような気持ちになれない。

死者とのふれあい、ということを私はこれまで体験したことがない。ただ、おだやかな心持ちでその人が亡くなる前のことを思い出すことはある。それはたいてい、その人と、つまり、彼女と一緒にいった場所へ一人で行ったとき。

海辺であったり港であったり駅前の通りであったり古都の街角であったり。


死者がそこにいるというつもりはない。すでに死者となった者とかつてともに過ごした場所で、私の記憶の襞が震えているだけなのだろう。

死者はどこへ行ったのか。その問いはまだ大きすぎる。どうすれば記憶の襞を冷たい雨で濡らすのでなく、初夏の晴れた日に頬を流れていくようなさわやかな微風で揺らすことができるか。私にとって、当面の課題はそこにある。


さくいん:死生観



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