硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2012年3月


3/3/2012/WED

癒しとしての痛み―愛着、喪失、悲嘆の作業(Den nodvendlige smerte, 1987, Healing pain: attachment, loss, and grief therapy, 1991)、Nini Leick, Marianne Davidsen-Nielsen、平山正実監訳、長田光展訳、岩崎学術出版社、1998

久しぶりに大事と思うところを抜き書きしながら本を読んだ。ところが、抜き書きはしても、それがどの章のどの節にあったか、全部記録できていない。いま書いてある引用元は一部間違っている可能性がある。近いうちに借り直して再読する。

ここのところ、すこしおかしい。前は梅雨のころによくなっていた頭がぬるま湯につかったようなぼんやりした気分が続いている。その上、ときどき前触れもなく不安が沸いてきて、どんどん増大していく。起きていると自分自身の感情がどうなって、何をしでかすのかもわからないので、先週末は土曜も日曜もずっと眠っていた

職場では普通にしている。むしろ張り切ってるくらい。空元気というものか。実はひどく緊張していて、帰宅して安堵すると疲労が一気に吹き出す

文末の整理がまだできていない。結語にも不満が残る。率直な感想とはいえ、いい締めくくりとは言えない。これまで書いてきた文章のあちこちにもっと多く補助線を引いてみたい気もする。

近ごろ、調子が悪いのは、この本の読後感がとても重かったせいもある。

すこし時間をおいてから、読み返しと書き直しが必要。


3/10/2012/SAT

同和と銀行 三菱東京UFJ“汚れ役”の黒い回顧録 (現代プレミアブック)、森功、講談社、2009


同和と銀行

ずっと前に図書館で予約しておいた本が一度にまわってきた。ここのところ、集中力を欠いていて厚い本は読めず、図鑑のような本を眺めるだけだった。全部読めるかという不安は杞憂だった。どの本も魅力的で貸出期間の内にすべて読み終えてしまった。

本は読み終えたものの、感想文は今週と来週とに分けて書くことにする。

『同和と銀行』はまだ日刊ゲンダイを毎日読んでいた頃、書評で見つけてメモしてあった。図書館の予約でかなり待たされてようやく読むことができた。

表の世界と裏の世界の蝶番になっていた一人の銀行員。著者は彼に取材を重ねながら、裏の世界への窓口となっていた男の生涯を描く。知人には「『ナニワ金融道』と大藪春彦の企業小説と田岡一雄の伝記が一緒くたになったような本」と薦めた。

表と裏の金のつながりという本書の主題はもちろん興味深いものだった。読みながら私が驚いたことは、銀行でも企業や暴力団でも、組織のトップのあいだの人間関係でものごとが決まっていることが思いのほか多いこと。社長や頭取というといわゆるオーナー社長は別にして、皆、神輿に乗っているだけで、ふだんは部屋ではんこを押しているだけのように思っていた。

そうではない。大事な場面ではトップにいる者が交渉し、判断する。しかも、そこでは組織の論理だけではなく、人間関係の密度によって交渉や判断が左右されている。

組織の末端にいるヒラ社員のほうは組織の論理やトップの判断に従わなければならないから、いわゆる担当者レベルでは、情実だけでものごとが動くことはあまりないように思う。私の場合、本書に出てくるような濃密な人間関係のなかで仕事をしたことはないし、今もしていない。


3/16/2012/FRI

いま、働くということ、橘木俊詔、ミネルヴァ書房、2011


いま、働くということ

働くとはどういうことかずっと悩んでいる。いまの職業でいいのか、いまの働き方でいいのか、いつも迷っている。だから『いま、働くということ』という書名にまず惹かれた。

仕事についての考え方はいろいろあっていい、人それぞれでいい」。本書の主旨を私はそう受け止めた。もう一つ、「仕事とはまず生活するためにしなければならないこと」。この二つの命題は、仕事について悩みがちな私の気持ちをすこし軽くしてくれた。

私は心のどこかで、仕事のなかに「働きがい」や「生きがい」を見つけなければいけないと思い込んでいた。著者はそうは考えていない。働きがいや楽しみが見つかるのなら、それはそれでいい。見つからなくても、無理に見つける必要はない。働くことは人生のすべてではないのだから。

働いているのは、生活するお金を稼ぐため。単純明快。そのことをしっかりと肝に銘じておかず「働きがい」など意識してしまうとかえってモチベーションを落としたり、好き嫌いで仕事を判断するようになってしまう。

今週、仕事で大きな失敗をした。今はまだ解決の見通しもない。前の仕事では一つのミスがあとあとレイオフされる伏線になった。今回も対処を誤ると職を失うことになるかもしれない


仕事で失敗をすると自分が人間としてダメなように思えてくる。迷惑をかけた人に命までとられるように思ってしまう。

よく「命までは取られないから」という言葉で人を鼓舞する人がいる。今や、「命まで取られる」ことが起きている。仕事に命を取られる人はけっして少なくない

クヨクヨ考えるのは私の悪い癖。仕事上のミスは仕事上のことでしかない。私の場合は、そういう割り切り方をすこし覚えたほうがいいかもしれない。来週は、そういう気持ちで向かってみよう。それで職を失うのなら、また職を探せばいいし、そうするほかない。

思い返してみれば、前からそういうことはわかっていた。ただ、実際の職業上でも苦痛が少なくなかったので、自信をもてずにいた。


さくいん:橘木俊詔労働


3/17/2012/SAT

もしもノンフィクション作家がお化けに出会ったら (幽ブックス)、工藤美代子、メディアファクトリー、2011



心霊体験というものはやはりあるらしい。ノンフィクション作家が正直に脚色なく書いていると説得力がある。興味深いのは、そういう体験はしたくてできるものでなく、したくないからといって避けられるものではないということ。

さまざまな不思議体験のエピソードが語られているなか、あちこちに家族史や自分史も織り込まれていて優れたパーソナル・エッセイになっている。

久しぶりに心地よい読書をした。


3/18/2012/SUN

日本人の死生観を読むーー明治武士道から「おくりびと」へ、島薗進、朝日新聞出版、2012


日本人の死生観を読む

日本では、宗教を信じている人は多くないのに、霊魂の存在を信じている人は意外に多いと本書で島薗は指摘している。

私はどうか。信じたいとは思っていても、心霊体験もないので、霊魂の存在を信じることができないでいる。

一口に死生観と言っても、三つの視点がある。

一つめ。自分の死に対する考え方。自分が死んだら自分という存在はどうなるのか、という問い。二つめ。ある共同体で死はどのように受け止められ、人の死が生き残った人たちにどのように伝えられ、受け継がれているか、という問い。三つめ。身近な人の死をどう受け止めるか、という問い。

『日本人の死生観を読む』の構成をみると、武士道の追究やがんを告知された宗教学者の自問は一つめの死生観。柳田邦男や折口信夫の民俗学研究は二つめ。三つめの死生観は吉田満を取り上げた章にあたる。

本書は、通史的な見方をしている一方、死生観の視点については三種類が混在しているので、全体としてのまとまりはわかりづらい。本書は、もともと入門書なのだから、それでいいのかもしれない。それぞれが興味をもった視点に読書や考察を深めていけばよいのだろう。

私が興味をもつのは、三つめの死生観。吉田満にとっての特攻隊の仲間森有正にとっての長女石原吉郎にとっての収容所の仲間、山口瞳にとっての幼い頃の友人、森山啓山形孝夫にとっての母親。これまでの読書は、身近な人との死別体験を書いた人の作品が少なくない。

私がキリスト教に関心をもっているのも、イエスの教えよりも、イエスの死を受け止め、生涯をかけてそれを引き継ごうとした使徒の思いを知りたいから

第一の死生観、すなわち、自分が死んだらどつなるかという問いに対し迷いはない。死んでしまえば私が意識している「私」も、「私」と思っている私もなくなるのだろう。私がすでに生まれたときの記憶を失っているように、今の記憶も存在しているという意識そのものも失われるのだろう。そう思っているし、そう期待している。


霊魂があるとするなら、死んだ人はどこへ行くのか、霊魂はどうなるのか。「風になって見守っている」とか「心のなかで生き続けている」など、最近ではよく言われている。

もし、死者の霊魂が自分の心のなかに宿るというのなら、故人がかかえていた怒りや悔しさ、成し遂げられなかった夢や無念さも一緒に受け継ぐことになる。それを引き受けなければ「心のなかにいる」とは言えない

自分にとって都合のよい思い出だけが心のなかに映っているのならば、それは死者ではない。偶像というものだろう。そこから生まれるのは独善的な感傷だけだろう。

死者の思いを受け継ぐということは、簡単なことではない。もはや語りかけることのない死者の思いを過剰に受け止めてしまえば自滅してしまう。かといって忘れてしまえば——忘れることができるとしても——遺志は受け継がれることがない。


私はどうか。死者の思いを受け止め、引き継ぐことができているのか。そんな段階に届いているとはとても思えない。私はまだその事実を受け入れることさえできていないのだから

だから、亡霊にさえ会うことができないのだろう。


さくいん:島薗進死生観吉田満


3/20/2012/TUE

シティ・ポップス

最近、1980年代後半から90年代前半くらいまで、シティポップスと言われた女性ボーカルのアルバムを続けて図書館で借りてきている。時代でみれば、ニューミュージックとJ−POPのあいだ、ジャンルでみれば、アイドルとシンガーソングライターのあいだ。自作の曲も歌えば、売れっ子作家の作品も歌う。歌詞なら松本隆や康珍化、曲なら林哲司や鈴木茂。

70年代後半から90年代前半までの音楽、特に女性ボーカルを新しく聴くきっかけをくれたのは、ウェブサイト“Music Avenue”。このサイトが「木綿のハンカチーフ」以外の太田裕美と歌手としての和久井映見の魅力を教えてくれた。70年代の太田裕美とは、松田聖子以前の松本隆の仕事という意味でもある。

以下、感想は省略して最近聴いているアルバムを書き残しておく。

『ポプコン バラードコレクション』では、石川優子「ニール・サイモンも読みかけのままで」(1986)と相曽晴日「レイク・キャビンのほとりにて」(1983)がお気に入り。

彼女たちの歌声を聴いていると、なつかしくて、それでいて悲しい気持ちにはならない。


3/24/2012/SAT

昨日は卒業式があり、お祝いのランチがあり、夜にはテレビで『ルパン三世vs.名探偵コナン』を見た。

ルパン三世の声が山田康雄から栗田貫一にかわってもうしばらくたっている。今でも山田康雄が生きているように感じる、と書いたら栗田貫一はがっかりするだろうか。もう今では、「山田康雄のまね」ではなく、すっかり栗田貫一のルパン三世になっている。

話は少し変わる。

ずっと前、社会人になりたての頃、ある研修で「未来のコンピュータ技術」という課題を与えられた。私が思いついたのは、「お墓コンピュータ」。

これだけコンピュータの処理速度が速くなり、大容量のメモリも安くなり、巨大なデータベースの構築も可能になると、一人の人間をすべてコンピュータに入れ込んでしまうことも可能ではないか。そうして死んでしまっている人をあたかも今も生きているように映し出すことも可能になるのではないだろうか。その人の思考パターン、、口癖、3D映像での身振り手振り。そうして、あたかもその人がまだ生きているかのように会話をすることも、おそらく最新の技術をもってすれば不可能ではないだろう。

すでに映像や声では実現されている。オードリー・ヘプバーンや松田優作は今もCMで活躍している。知らない人は、彼らを存命の人たちと思っても不思議はない。CG技術を使えば残された映像を元にして、亡くなっている俳優を主役にした新作映画も可能かもしれない。Twitterではbotから亡くなっている著名人の発言が定期的に発信されている。タイムライン上では、死んだ人の言葉か生きている人の言葉か、区別することはできない。

身近な遺族でさえ、万能の「お墓コンピュータ」の前では生身の人間とデータベースから生成された仮想人間の区別をつけることは難しいかもしれない。生身の人間を知っている遺族にとっては、いまも生きているかのような映像を見せられることは、喜ばしいより、つらいことではないか。いつまでたってもその死を認め、受け入れることができないのだから。

問題は二つある。一つは、死とは何か、ということ。目の前からその人がいなくなるだけでは、もう死とは言えない。生前の映像はいくらでも再生することができるし、新しく追加することもおそらくは可能だから。むしろ、現代では人は簡単には死ぬことができない。いつまでも仮想状態で生き続けている。

二つめ。では、生身の人間と関わる、とはどういうことか。人間にかなり近いやわらかい表情をもつアンドロイドも開発されている。ただ、人間の肌やぬくもりは簡単には開発できないだろう。とすれば、身体接触、極端にいえば、性交渉こそ、生身の人間と生身の人間が交際する原点なのか。では、人と人の心のふれあいとは何か。いま生きている人と触れ合う、関わる、理解し合うとはどういうことなのだろうか。


上に書いたことは前にも一度書いたことがあるような気がする。検索しても、それらしい文章を見つからない。何度も心のなかで下書きしておきながら書いていなかったのかもしれない。


さくいん:『ルパン三世』


3/25/2012/SUN

今日、つぶやいたこと

ふと思いついて、2件、ツィートした。以下、加筆修正して転記しておく。


昨日のこと。寝坊しました。ブログを書きました。焼きそばを作りました。昼寝をしました。歯医者に行きました。金歯を入れてもらいました。たくさんお金を払いました。買い物をしました。前に住んでいた団地を通り抜けて帰りました。また昼寝しました。餃子を作りました。ビールをのみました。たくさん呑みました。いつもの時刻に寝つきました。


吉本隆明のことはよく知らない。よく知らないので鶴見俊輔の言葉を引用したときにも名前は伏せておいた

ただ、最近、あとになってみれば最晩年にあたる時に反・脱原発の論者として引っ張り出されたのは気の毒に思える。あれは、原発推進派が助っ人として呼び出したのではなく、脱原発派の一部がいくらでも叩けるサンドバッグにしようと隠居した老人を無理矢理引きずり出して何か言わせようとしたのだろう。

高度消費社会を礼賛したと言われる(これは追悼記事で知った)人物が高度情報消費社会にネタとして消費されてしまったのは、皮肉というよりも、可哀想なことだったと思う。


3/26/2012/MON

電脳なをさん Ver.2.0、唐沢なをき、アスキー・メディアワークス、2011


電脳なをさん Ver.2.0

一冊を一気に読むとへとへとになる。週刊で読むくらいが健康にはよさそう。

でも、きっと作者は一週分描くのに読者が一冊読み切るくらい精魂込めていると思う。

私の仕事場には、唐沢なをきが描いた肖像画が掛けてある。ジョブズの台詞は「ハングリーであれ、バカでアホでマヌケであれ」


さくいん:唐沢なをきスティーブ・ジョブズ


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uto_midoriXyahoo.co.jp