9/17/2011/SAT
夏のあいだにしたこと
何も書かないうちに夏が過ぎてしまった。忘れる前に夏のあいだにしたことを書いておく。
沢田聖子のライブに行った。彼女のライブに行ったのは初めて。プロの演奏を聴くこと自体、かなり久しぶりのことだった。
会場は横浜の小さなライブハウス。ギターとキーボードを自分で弾いて歌う。バックバンドもリズムマシンもない、「一人の音楽」をたっぷりと聴かせるひとときを楽しんだ
会場で観客からリクエストを募るコーナーでは、すこし興奮していたせいで、真っ先に手を挙げて「憧憬」と叫んだ。
声は届いたものの、ちょっと口ずさんだだけで、残念ながら私のリクエストは却下されてしまった。沢山のリクエストから選ばれたのは、デビューアルバム『坂道の少女』から「キャンパススケッチ」と、彼女曰く、「唯一のスマッシュヒット」の「卒業」だった。
帰り道、不思議なことが起きた。聴けなかった「憧憬」をイヤホンで聴きはじめると、さっきまで聴いていた沢田聖子の清々しい歌声が聴こえてきた。
間近で聴いた彼女の声の記憶が、録音された音の記憶を上書きしたのだろう。これから先ずっと、どんな機械でも、どんな解像度で聴いても、私にはあの夜の彼女の声が聴こえてくるだろう。
沢田聖子のライブの翌朝、早くから空港へ向かい、台湾へ翔んだ。行き先は、三度目の新竹。
三度目にして初めて街のなかを歩いた。市場では、木の台に鶏や豚の肉を生のまま置いている。こういう光景はこれまで見たことがなかった。同じ市場のなかでも、貝や魚は水を張った桶や氷の上に置いてあるのに、肉はなぜかそのまま。
肉はいずれにしても火を通すから、少し“熟成”させるくらいでもいい、あとでそう教えてくれた人がいた。ほんとだろうか。にわかには信じがたい。不思議なことに蒸し暑い夏の午後というのに、肉のまわりに虫がたかっているというわけではなかった。
初対面の人が多く、わずか二日でもとても疲れた。火曜日の夜には海鮮料理で宴会となったけど、ほとんど食べることができず、ホストには申し訳ないことをした。
本は相変わらず図鑑や写真集以外、ほとんど読んでいない。その代りに音楽はたくさん聴いた。お気に入りのブログで知った曲を図書館で探しては借りてきている。
この夏、繰り返して聴いたのは、太田裕美『Feelin' Summer』(1979, SONY, 1998)、Kohara, "The Best of Kohara" (EMI, 2003)、それから、Alexander Zonjic,“Reach for the Sky”(Heads Up, 2001)。
フルートで弾くスムース・ジャズという珍しいこのアルバムではEarl Klughがアコースティック・ギターを弾いている。
気に入ったアーティストが、気に入っているアーティストと仕事をしている。そういうことを知ると楽しい気持ちになる。
二枚のアルバムは、それぞれ違うブログで教えられたもの。図書館で借りて聴いた。ブログの名前はここでは書かない。ほんとうに好きなものは、ほんとうに仲の良いひとにだけこっそり教えたい。めったなことで口にするものではない。
思えば、Facebookをやめた理由のもう一つはここにあった。
ブログやFacebookには「好きなもの」や「お気に入り」のリストを記入する欄がある。こういうリストをつくることにためらいを感じる。
例えば好きな映画、と言っても、相手によって私は違う作品をあげるだろう。
生まれた国が違ったり、自分よりずっと若い人と話していたら、相手も知っていそうな、比較的新しい、世界中でヒットしたハリウッド映画から選ぶだろう。同じ年齢で、同じような暮らしを経てきた人が相手なら、ちょっとマニアックな作品を告げるかもしれない。
コミュニケーションの基本は、「私とあなた」ではないのか。それとも「私とみんな」なのだろうか。そう思う人は好きなもののリストに映画でも食べ物でも一つずつ書けるのだろう。
「私とみんな」の関係は、「私」を成り立たせなくする、私にはそう思える。「みんな」といってもそこにはたくさんの人が入っている。あっちにもこっちにも合わせていると「八方美人」という言葉を出すまでもなく、実体のない「みんな」に合わせることになってしまい、「私」はいなくなってしまう。
そうでなければ「人格のキャラクター化」と呼びたくなるような事態になる。芸能人がバラエティ番組で、ポジションを確保するためにしているようなことと同じように、どこでもいつでも「みんな」に気に入ってもらえるような「私」を演じることになる。
いちばん好きな映画は、もっと仲良くなったら教えてあげる
若いころ、少し打ち解けてきた職場の先輩にそう言われたと、日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」で誰かが書いていた。物忘れがひどいのに、メモをとることも怠っていて書いた人の名前はもうわからない。
名前は忘れてしまったけど、今年の夏のあいだに読んだ文章のなかでは感じのいい文章だった。「いちばん」かどうかは、ここでは書かないでおく。
9/24/2011/SAT
「もう、うんざりだ!」 自暴自棄の精神病理、春日武彦、角川SSC新書、2011
感想を書いた上記の本のほかに、この夏もう二冊、お金を出して買って読んだ本がある。順番で言えばその二冊を先に読んだ。本書はその読後感の延長線上で気になったということになる。
はじめの一冊は、『精神科医の見た聖書の人間像―キリスト教と精神科臨床』(平山正実、教文館 、2011)。そして、この本の参考文献にあげられていた、あまりにも直截な書名で驚きもした『自殺者の遺族として生きる――キリスト教的視点』(Fierce Goodbye: Living in the Shadow of Suicide, G. Lloyd Carr, Gwendolyn C. Carr, 2004、川越敏司訳、新教出版、2010)。
書店で平山の本を手に取ったのは、前に彼の著書を読んだことがあったから。『自ら逝ったあなた、遺された私―家族の自死と向きあう』(朝日選書、2004)。
この本を読んだときには、平山がクリスチャンであることは知らなかった。『精神科医の見た聖書の人間像』は、最初に巻末にあるインタビューから読んだ方がいいように思う。著者が精神科医となった理由や、どんなことを考えながら臨床現場で精神科医を続けてきたのか、そういった背景を知ってからのほうが、専門的で、患者や患者の家族の立場からはやや厳しい見方にみえる前半分も腑に落ちるのではないか。
私の場合、最初から読み、読後感はあまりよくなかったのだけれども、巻末のインタビューを読んでから、前半を読み返してみて、著者の意図が少しわかった気がした。
自死遺族の置かれている状況は、精神的にも社会的にも、また働き手を失った場合には経済的にも非常に厳しいものだろう。キリスト教、とくにカトリックの世界では遺族は「大罪を犯した者」の家族という罪の意識まで負わされているという。
先日も、期待して読みはじめたある本のなかで自死について「最悪の結果」と書かれていて、一瞬にして読み進める意欲を失ってしまった。
自死は最悪の結果なのか。では、震災で亡くなった人は最悪の死に方ではないのか、通り魔に殺された人は最悪の最期ではないのか。
どんな亡くなり方でも、遺された者は誰でも、何も知らない他人にそんな風に言われたくはないだろう。
そもそも最悪の結末でない死などあるだろうか。死の意味に程度の差などあるだろうか。
二冊目を読み終えて、癒しや励ましとか、そういったことは感じることができなかった。むしろ、読後には、自死遺族が偏見と自責の念から抜け出すことは、ほんとうにやさしいことではないとあらためて考えさせられた。
『自ら逝ったあなた』の感想は書き残してない。この夏に読んだ残りの二冊の感想も書くつもりはない。理由は何冊も読んでいるのに大原健士郎の本の感想を書き残していない理由と同じ。
写真は、5年前の春、ベルギーへ旅行したとき、地下鉄の車内で見かけた公共広告。短い乗車時間のあいだに急いで撮ったもの。
On a besoin de vous…Chaque jour, en Belgique, 7 personnes se donnent la mort……Suicide, il n'y a pas de solution miracle. Mais il n'y a pas plus de fatalité.
これくらいのフランス語はわかった。ベルギーやフランスなど、いわゆるカトリック系の地域でも自死は深刻な社会問題になっていることがわかる。宗教や、それに根差した伝統的な死生観は必ずしも有効な防止策にはなっていない。
ヨーロッパの北部からロシアまでの地域で自死の件数が多いのは、アルコール消費の多さとそれに伴う依存症患者の多さ、日照時間の短さと精神疾患との関連なども背景にあるのだろう。
古い写真で形もいつも掲げている写真とは異なるけれども、今日の文章を書きながら思い出したので、ここに貼り付けておくことにした。
上の日誌と書評は10月7日の深夜に書きあげた。今週は出張帰りの新幹線でもビールを我慢して、仕事と下書きを済ませた。駅に着いたらほっとしてしまい、帰り道にビールを買い込み、「週末の贅沢」を楽しみながら書いた。
今日は朝一番に歯医者を予約していたので寝坊はしなかった。先週は土曜日に呑み過ぎてしまい、また月曜日の朝まで寝てしまった。週末に用事を入れれば、少しは控えることができるかもしれない。
uto_midoriXyahoo.co.jp