まほうのはっぱのおまじない、泉啓子文、狩野ふき子絵、新日本出版、2001


『シキュロスの剣』を読んで以来、泉啓子は気にはなっていたけれど、ほかの作品を手に取る機会には恵まれずにいた。最近は、図書館へ行くと絵本だけでなく、原ゆたか『かいけつゾロリ』(ポプラ社)や、寺村輝夫『わかったさん』(あかね書房)のシリーズを探して児童書の棚もみるようになった。あ行の棚で泉啓子を見つけ、一冊ずつ手に取り立ち読みしているうち、狩野富貴子が絵を添えている作品をみつけた。

狩野は、気に入っている絵本画家の一人。二年前『もうひとつのピアノ』で知り、去年『鉢かづき』を読んだ。『鉢かづき』はあまんきみこの文。気に入った作家と画家の組み合せの絵本を偶然に見つけるとうれしくなる。どこかに波長のあう編集者がいると思うと楽しくなる。


『シキュロスの剣』は、児童暗黒小説と呼びたくなるほど息苦しい物語だった。泉は、現代の子どもが置かれているいびつで憂鬱な世界を仮借なく描く。そう、こわれているのは子どもではなく、子どもが生きている世界のほう。もっとも、子どもの世界はいつの時代、どこの世界でも、大人が思うほど無垢ではない。いつでも、どこでも、子どもには子どもの現実がある

狩野の絵は、かわいらしい表情の奥にある心情をとらえる。こわれた世界で健気に抗う子どもの姿を描く。

低学年向けに書かれたこの作品では『剣』ほど緊迫してはいないけれども、子どもの世界は、ここでもばら色ではない。それぞれは、それぞれの現実と向き合いながら、ときどきこわれそうになり、ときどき元気を取り戻し、少しずつ勇気を見つけている。月並みだけれど、大人になるということ、いや大人になっても、生きるということはその繰り返しなのだろう。

違いは、大人は繰り返すことに慣れてしまいがちなのに対して、子どもは身体も大きくなるから繰り返しが単なる繰り返しに終わらず、成長を促しやすい点にある。

その過程を共有できる相手が友達といえるかもしれない。ゆかとまりは互いの抱えている現実と秘密を共有することで友達になれた。現実と秘密といってもたいしたものではない。弟が生まれたばかりで母親はかまってくれないこと、ノートのすみに自分だけの絵物語を描いていること。どちらも、他人の目からみれば、どこにでもあることかもしれない。まりにとっては、どこにでもあるではすまない一大事。それをわかってくれる人が、友達。こっそり見せた宝箱をガラクタといった人とは、絶対に友達になれない。

それは、ゆかにとっても同じ。父親が仕事で大怪我をして入院していること、雑木林に子猫のはいった箱をかくしていること。どこにでもあることと片付けられたくない。でも、同情されたり、特別扱いされたりするのはもっといや。


松任谷由実「ずっとそばに」(『REINCARNATION』、東芝EMI、1983)に「疑うこともなく知り合う人々を友達と呼べた日々」という一節がある。

この言葉は、もっと幼い子どもの引越しと新しい友だちを描く『とんことり』(筒井頼子文、林明子絵、福音館、1989)には当てはまるかもしれないけれど、小学生ともなれば、もう知り合う人のすべてと友達になれるわけではない。もう少し複雑になる。疑うこともなく現実と秘密を共有できる人々が友達、といえるかもしれない。


大人は秘密に対し冷ややかすぎて、なかなか相手の懐にとびこめない。また、泉が描く今どきの子どもの世界でも、速度が早すぎ、情報が多すぎ、また緊張が強すぎて、自分の胸を広げて、相手の懐に飛び込むような思い切りをもつ余裕は失われている。

そんな、ぎすぎすした世界で、小さな勇気を積み重ねて友達を見つけた二人の物語。

文章だけでは暗い気持ちにさせる泉の作品に、狩野の絵がやわらかみを与えている。絵だけではかわいらしさが先に感じられる狩野の絵に、泉の文が隠された鋭さを引き出し、奥深さを感じさせる。

絵本の楽しさは、文章と絵との相乗効果にある。気に入った作家の絶妙な共同作品は、絵本探しを宝探しにしてくれる。