鉢かつぎ、あまんきみこ文、狩野富貴子絵、西本鶏介監修、ポプラ社、2004


『千と千尋の神隠し』を見たあと、この物語は昔話「鉢かづき姫」を下敷きにしているという説をあるウェブサイトで知った。ちょうど同じ頃に、狩野富貴子の挿画作品を探していたところ、図書館の検索で本書を見つけた。

狩野は『二つのピアノ』で知ってから、『あいつのリンドバーグジャケット』(森忠明文、教育画劇、1993)と『のれたよ、のれたよ、自転車のれたよ(「生きてます、15歳」より)』(井上美由紀文、ポプラ社、2001)を読んだ。前者は、森忠明が得意とする少年時代の切ない記憶の回想。後者は目の見えない少女が思い切って自転車に乗るまでの手記。


狩野の絵は、柔らかな光線と穏やかな表情のなかに、子どものかわいらしさだけではなく、怯えや意地などが込められている。大胆な構図も印象に残る。例えば本書では、知っている人なら長谷寺とすぐわかる回廊の場面や、鉢が割れ、鉢かづきの顔がはじめて現れる場面。

あまんきみこも、小学三年生のとき国語の教科書で読んだ「白いぼうし」や「すずかけ通り三丁目」『車の色は空の色』で親しみがある。この作品では登場人物に尊敬語を使い、古文の現代語訳の調子に乗せながら、原作の雰囲気を伝えている。


『鉢かつぎ』は典型的な継子物語の一つ。鉢は目に見える徴となって主人公に差別をもたらすだけでなく、彼女の個性の一部として彼女の命を救う役割も果たす。物語では目に見える徴、いわゆるスティグマとされているけれども、目に見える何かである必要はない。実際、鉢がとれたあとでも意地悪な兄嫁達は姫の魅力を理解しようとしない。

鉢は、母親がいまわの際に娘にかぶせたもの。なぜ母親はわが子に災いをもたらすかもしれない鉢を与えたのか。ここでも、鉢は目に見える徴というより、この世から立ち去る者が残る者に伝えたい思いととらえることができる。

自分がいなくなれば、やがて新しい母親が現われるだろう。継母だからといって必ず意地悪とは限らない。優しくしてくれるかもしれない。そうしたらもう自分のことは忘れてしまうかもしれない。自分とともに、ひとときの間を過ごしたことを忘れずにいてほしい、この世を去る者がもつ当然の思いが、「鉢」という形になって姫にとりついたのではないだろうか。


いや、鉢を目に見えるものにしているのは、去っていったものではなく、残された者。そうとらえたほうがいいかもしれない。自分を残していった者の気持ちを慮るからこそ、姫は生き残っても、生き残らされた徴を強く感じる。だから、姫は「鉢」から逃げることはできない。無理にとろうとすれば、かえって自分自身を苦しめることになる。

そして「鉢」を姫の脱ぎ去ることのできない一部と気づいた人が現われたそのとき、初めて「鉢」は目に見えないものになる。