世界の終わり


Why does the sun go on shining?
    Why does the sea rush to shore?
    Don't they know it's the end of the world
    'Cause you don't love me anymore?

    “End of the World,”Skeeter Davis, lyrics by Sylvia Dee, 1962

鷲田清一は「全体という擬制」(「時代のきしみ <わたし>と国家のあいだ」、TBSブリタニカ、2002)のなかで、V・ジャンケレビッチ『道徳の逆説』(仲沢紀雄訳)を引用して次のように述べている。

   <人類愛>は逆説を含んでいる。というのは、人間一般を、人間であるというだけの理由から愛するのは【矛盾を含んでいる】からだ(「9 同化」)。

人間は化物や未開人をつねに想定し、それに含まれない仲間を「人間」あるいは「人類」という言葉でくくってきた。だから未開の地がなくなった時、はじめて人類は人類を人類であるという理由だけでひとまとめにできるようになった。鷲田は次のように説明する。

   「人間」とは「じぶんたちのようなひとびと」、つまりその本質においてじぶんたちと同一のものを共有している存在のことにほかならなかったのである。ただし、異人を同化するということ、他の人種を同じ「人間」の亜種として認めるということは、異人との出会いのなかで「わたしたち」の自己イメージを更新するということでもある。「人間」はだから発明されたのである。

しかしこの「人間」という概念は矛盾をはらむ。あるいは循環論に陥らざるをえない。「人間」はつねに他者を想定した仲間意識であった。だからその他者が存在しなくなったとき、「人間」という概念は自己撞着とならざるをえない。

人間は、他の人間の権利や生命を尊重すべきだという観念を持ちうる。そのとき、なぜ人間以外の動物の権利や生命は同じように尊重されないのか、という疑問は棚上げにされる。棚上げにされなければ、人間のあいだで権利も生命も尊重することができなくなる。

鷲田はこのような問題意識を出発点にして、国家という擬制を前提にした市民権を相対化し、市民権を国家制度に派生するものとしてではなく、むしろ国家を市民権発動の舞台や装置とするような意識へ議論を展開している。

そうした鷲田の試みに私は反対するものではないし、いわゆるグローバル時代における政治意識のあり方としてきわめて有効な議論だという印象も受けた。ここでは、そうした議論は鷲田の緻密な論考にまかせて、鷲田が出発点とした「人間を人間であるという理由だけで愛することは矛盾する」という問題意識を自分なりに考え直してみたい。

鷲田が抱いた疑問と似たような関心を、私は「世界の終わり」という言い方で持ってきた。「世界の終わり」あるいは「地球滅亡」「人類滅亡」などという言葉が子ども時代を過ごした1970年代後半、公害問題や東西対立を背景に第三次世界大戦からノストラダムスの大予言までさまざまな形で流布された。

その頃私のなかでは、「世界」といえば、誰もが同じことを想定していると疑うこともなく思っていた。だから「世界の終わり」と聞くと、とんでもない事態になってしまうと胸が騒いだ。ところがいつの頃からか、「世界」といっても人によってはまったく違う「世界」を指しているのではないかと思うようになった。

私が抱いた疑問は、たとえば古代エジプト人がもし現代社会を見たとしたら、彼らは自分たちの「世界」が終わっていると思うか、続いていると思うか、ということ。あるいは、肌の色で人間を差別する人たちにとって、もし違う肌の人ばかりが生き残った世界はどう映るのか、という問い。

そのとき、「世界」は終わっているのか、まだ残っているのか。人種差別を助長するつもりはないけれど、そのような人々にとっては肌の色が違う人は化物であり、「同じ人類」ではない。つまりそのような人が生き残ったとしても、「世界」は終わっているのではないだろうか。

このような疑問について考えてみると、「世界」という言葉は必ずしも普遍的、一元的な意味ではないと思われてくる。個人からみた「世界」を考えるとさらに意味は拡散する。たとえば、ある人間、マリリン・モンローでも、毛沢東でも、天皇でも、家族の一員でもいい、心なかの多くの場所を占めている人がいなくなってしまえば、その人のいた「世界」は終わっているのではないだろうか。

人類は生き残っていても、大切な人やものを失ったとき、人は「世界」が終わったと感じることがある。王や天皇がなくなったときに殉死する人もいる。戦争に負けて国がなくなったときに自決する人もいる。彼らは、ある人物や国がなくなったとき、生きる「世界」も失われたと感じたのではないだろうか。

「世界」は終わるだけではない。突然はじまることもある。例えば子どもが生れたとき、特別愛情を注げる対象をみつけたとき、昨日までの「世界」とはすべてが変わったように、すなわち新しい「世界」が生れたように感じることがある

この考えをさらに進めると、「世界」は毎日、始まったり終わったりしているということになる。もちろん殉死を選ぶ人のように自らの世界を終わらせるほどの一大事は何度もないかもしれないが、毎日何かが起こるのだから、「世界」は毎日更新されていると言ってもいい。

だからどうだという結論があるわけではない。こんなことを考えるようになったのは、世界平和や地球環境、人口爆発、人類の将来、といった大問題を考えるときに、人はつい大上段に構えがちではないかと思い始めてから。「世界」といってもそれほど大それたものではない。始まったり終わったりしているもの。確かに問題は深刻で急を要するものでもあるのだけれど、少し肩の力を抜いてみるのも悪くないような気がする。

最近、大地に還元される化学繊維ができたと聞いて驚いた。トウモロコシの組織から抽出されていて、捨てれば土に返るという。こうした技術がさらに進歩すれば廃棄物はなくなり、すべてのエネルギー、物質を人間の手で循環させることによって、人間の「世界」を永続させることも不可能ではないかもしれない。

カール・セーガンの作った地球カレンダーという暦を見たことがある。宇宙のはじまりを1月1日とし、現在を大晦日として惑星史の悠久を体感する暦。それによれば、人類が生れた数万年前は大晦日の深夜近くのことになる。

冷戦のさなかにこうした暦を作成したセーガンの目論見は、ほんの最近地球に現れた生物である人類が、あらゆる生物を破滅させる核兵器をもつことの愚かさを訴えることにあった。確かに人間の手で人間の世界が終わることは愚かなことだと思う。だが、その一方で今や、大地に還る素材まで発明して、破滅どころかずっとずっと人間がこの地球を支配するかもしれないところまできている。

「傲慢すぎるホモ・サピエンス」とは、谷川俊太郎が若い頃に書いた詩句。あらゆる生物を破滅させる道具をもつ人間は傲慢に違いない。その一方で、人類を人類であるという理由だけで愛し、その他の生物を同様に愛する義務を留保する人間が、滅びることもなく永続的に地上に君臨しようとするのも同じように傲慢ではないだろうか。それこそ神をも怖れぬ行為だろう。

そんなふうに、いずれにしても傲慢な人間を、それでも赦す神など、果たしているものだろうか。それは人間にとって都合がよいだけの人間による想像、創造の産物ではないだろうか。


碧岡烏兎