時代のきしみ―<わたし>と国家のあいだ、鷲田清一、TBSブリタニカ、2002


これまで読んだエッセイ集にちりばめられていた思考のエッセンスが深く掘り下げられている。所有、幸福、国家、宗教モード家族、など。それだけ難しさも深まり、読むのに苦労した。読了はしたが、消化はまったくできていない。

国家について論じるなかで、鷲田は国民国家という擬制に吸収されていく個を、公共性をもちながら、とりもどすことはできるのか模索している。その問題意識は、岡野八代『法の政治学』や、時代は異なるが高橋和巳「孤立無援の思想」にも共通する意気込みを感じる。


引用された文献も多岐にわたり、示唆に富む。なかでも、マックス・ピカート『騒音とアトム化の世界』にある、四十年以上前になされたテレビ・メディア批判には驚いた。鷲田が描くテレビ・ニュース・ショーの「内部的な連関性の喪失」には、体験と重ねあわせて絶望をこめて同意する。

まだ毎晩ニュース・ショーを見ていたころのこと。ある晩、その日はとくに凄惨な殺人事件だったか、悲惨なルポルタージュだったかが放映された。その後、おきまりのスポーツ・ニュースがあり、最後に鷲田の言う「微笑みのエンディング」となった。ここでキャスターはなんと、「今日はこんなところです」とのたまった。言葉を失った。それ以来、テレビのニュースはだんだんと見なくなった。


実は、「内部的な連関性」を喪失しているのはテレビではない、テレビで育った私自身。件のテレビ・ニュースをパチンと消して、何も見なかったかのように寝入り、翌朝にはいつものとおりの日常を再開したのは、他の誰でもない、私自身。

鷲田の批判は、「時代のきしみ」でなく、この時代に育てられた、現代っ子の存在のきしみに気づかせる。鈍い痛みが伴う読書になった。


碧岡烏兎