硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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9.24.11

「もう、うんざりだ!」 自暴自棄の精神病理、春日武彦、角川SSC新書、2011


フォローしているTwitterで引用されていた文章に軽い衝撃を受けて、本書を読むことを決めた。ふだん本はほとんど図書館で借りて済ましてしまう。今回は新しい本なので、買って読んでみた。

前半は、主に著者の読んできたさまざまな小説から「自暴自棄」という概念を定義することを試みる。とはいえ、それほど専門的に論考を進めているわけではないので、「自暴自棄」という概念はあまりはっきりしない。

本書が面白く、というよりも読んでいて空恐ろしくなってくるのは自暴自棄がいわゆる視野狭窄へ進み、希死念慮、さらにはその実行へと突き進んでいく心理を分析した後半部分。


取り上げられているのは、ここでも小説や最近の事件。臨床医の観察眼は自死がどのように起きるのか、細やかに明らかにしていく。漠然としてでも「自暴自棄」のような気持ちに身に覚えのある読者ならば、著者の診察を受けてもいないのに心の奥底まで見透かされたようで恐ろしい気持ちになるだろう。

Twitterでも引用されていた、自暴自棄が自死の実行に転がり落ちていく過程を書いた部分。

   自殺は、残された人々に対して暴力的な性質を帯びている。それゆえに、精神が自殺を決意したわたしモードに入ることには屈折した喜びが伴うだろう。他人を欺いたまま自殺という秘密を心の中で弄ぶことには、優越感に似たものが生まれるだろう。それが、自殺を思いつかざるを得ないほどの悲しみや苦しみをいくぶんなりとも和らげる鎮痛効果を発揮する。当人へ同情しつつも自殺に背徳的なものを感じ取らずにはいられないのには、相応の訳があるということになる。
当初は、悩みや苦しみや空虚感から逃走するための選択肢のひとつに過ぎなかった筈の「自殺という着想」は、最後には<きっぱりと死んでみせるか、臆病風に吹かれて逃げ出すか>という二項対立を当人へ迫るようになる。「自殺を決意したわたし」という精神モードは俗世間に対する超越性ゆえにどこか甘美なものがあるけれども、危険なのは、いつしか死ぬ度胸の有無といった問題にすり替わってしまいかねない性質を秘めていることだろう。それは精神が視野狭窄状態に入っていることであるし、人間は最後までおかしな自尊心に縛られ続ける存在であるという証左なのだろう。

ここまで行ってしまうと、ほんの些細な出来事でさえ「実行」する最後の引鉄を引くきっかけになる。著者があげている不快な出来事や聞いてもらいたい気持ちを無視された場合だけではなく、「些細な幸福」も背中を押してしまう危険な風に思える。つまり、「もうどうでもいいや」と思うだけではなく、「もうこれで十分だ」と思ってしまうことも、自死への道を選ばせてしまうのではないか。


生きることへの執着、という意味で食欲や性欲といった欲望は必要。もちろん程度の問題はあるにしても、程度も問題にならないほど「欲」がないような状態では、問題はより深刻。人生に満足しきってしまったら、『死なないでいる理由』がなくなってしまう。

この点は著者も別のところで指摘している。視野狭窄に陥り「世界で一番不幸な人間」と思っている人にとっては、些細なことでも自分の人生のすべてが報われたと思うほどの「至福」に思われてしまうかもしれない。

どうすれば、ほとんど戻ることのできないところまでいってしまったこの状態から戻ることができるのか。「ふみとどまる」という言葉を著者は使っている。経験豊富な医師のふとした一言で「ふみとどまる」ことができた人も少なからずいたという。

その一言が「ふみとどまる」ことを促すか、あるいは、分不相応の幸福と受け取ってしまい、ここから立ち去り「突き進む」ことを促してしまうか、そのあたりはほんの紙一重ではないか。

そう思うのは、諦めではないし、まして自死を肯定するつもりからではない。


これから先、起きてしまうかもしれない自死を止めることはできる、その方法はある、きっと、そう信じたい。

しかし、これまで起きてしまったことについて「止められたはず」と言ってしまったら……遺された者に立つ瀬はない、そう思うだけ。



uto_midoriXyahoo.co.jp