硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2010年9月


9/25/2010/SAT

死なないでいる理由、鷲田清一、角川文庫、2008

ようやく一冊の本を読み終えた。難しい本ではないのにひと月以上かかってしまった。

鷲田清一の著作はこれまで多く読んでいる。この本も書名だけは知っていた。ただ、もう20年近く前のあるとき、ある出来事をきっかけにして、もう二度と読まないと決めた出版社から出ていたので、書店でも図書館でも、背表紙だけを眺めていた。

最近、別の出版社から文庫本で再販されていることを知り、手に入れた。この書名に私は惹かれていた。この本を読むことができる日を待っていたと言ってもおおげさではない。

『××できる人の法則』『××したければ○○しなさい』、そういう書名の本を新聞広告に見つけては毛嫌いしていながら、私は『死なないでいる理由』という本に「死なないでいる理由」そのもの、すなわち「生きていける理由」が書かれているだろうという期待をもって読みはじめていた。

読み終えてみて、その答えは書いていなかった。すくなくとも私には読みとることができなかった。読解力や読書の集中力が落ちているかもしれない。言葉に対する感度も鈍っているのかもしれない。しばらくの間、まったく活字を読んでいなかったから。


ちょっと気になるところもあった。

愛情や好意の対象でなくてもいい、憎しみの宛先であっても、鬱陶しい対象とされてもいい、それでも他者が無視できない存在としてわたしがあるときには、<わたし>は存在する。

そうだろうか。もし、この一文の言うとおりなら、いじめパワハラによって引き起こされる自死はどうしてなくならないのだろうか。この表現は、いじめやパワハラによる自死を否定しているようにも読める。一つの局面を説明しようとするために修辞が優先されてしまい、観察している局面から、別のもっと重要な局面が捨象されてはいないだろうか。

鷲田が言わんとするところはわからないではない。彼の著作を読み重ねていくうちに、私は、鷲田と私では同じ事象を似たように問題と思いながらも、その捉え方がまったく違うように感じることに気づいた。

この本ではいろいろな場所で発表された文章が集められている。『死なないでいる理由』の単行本とはほとんど異なる内容になっていて、書名にそった短文を集めたとあとがきには書かれている。

確かに、人間は自ら選んで生まれるのではないという指摘も、人間は一人で生きているのではなく、互いに寄り添って存在しているという指摘も「死なないでいる理由」の一端ではあるかもしれない。でもいまの私には、その指摘が言葉で書かれている以上に心の奥底に響いてくるものは感じられなかった。

集められた文章に一貫性や何かしらの脈絡があるようにも感じられなかった。おそらく、原因は多分に私のほうにあるのだろう。

つまり、正直なところ、「死なないでいる理由」を私はいまの自分自身に見い出すことができないでいる


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uto_midoriXyahoo.co.jp