読解試験批判への反駁


読解試験は読解力を向上させない、という主張をよく聞く。この批判の歴史は長い。おそらく国語科の試験が始まって以来、ずっとあるのではないだろうか。また、この批判は歴史だけでなく、かなり広い範囲に流布している。受験生当人からそれを過去に経験した大人や、さらには入学試験を課する大学関係者まで、この考えを持っている人が少なくない。結論を先に言えば、読解試験は読解力を向上させると私は信じているが、そう思うのはむしろ少数派のように感じる。

読解試験には意味がないという意見のなかで、よく聞くのは、「自分で解いてみたけど、できなかった」という作家からの言い分。この考え方は、読解試験を根本的に誤解している。読解試験の目的は題材となる文章、いわゆる出典を読み解くことではない、問題文を読み解くこと。言葉をかえれば、読解試験が目指すのは、出典の作者が書きたかったことではなく、問題作成者が聞きたいこと。

そのように考えると、出典の作者が読解試験をできない理由には、三通り考えられる。作者が文章に込めた意図を問題作成者が理解してないか、問題作成者の設問意図を読み込んで答える、つまり試験に対処する技術力を出典作者がもっていないか、あるいは、もともと作者が何も考えずに文章を書いていたか。

問題作成者は出典を読み、作者はこれを書きたいのだろうと推察して、それを問題にする。だからもし問題作成者が出典作者の意図をきちんと理解していれば、作者が解けるような読解試験ができるはず。もし両者の意図が違っても、少なくとも問題作成者は解ける。つまり、答えは必ずある。

だから受験生は、作者の意図を追ってはいけない。作者の意図を問題作成者がどう読み取っているかを推しはからなければならない。読解試験の目的は問題を解くことであり、作者の意図を探ることではない。まして自分の勝手な読み方で出典を読むことではない。

受験生の多くが自分の勝手な読み方を平気でするのは、「読み方に正解はない」という迷信を鵜呑みにしているから。国語には一つの正解がない、数学には一つの正解がある、だから、どちらかが好きでどちらかが嫌い、という言い方をよく聞く。これはとんでもない誤解ではないだろうか。数学こそ、無限に解法がある、そして国語の試験には一つしか正解はない、あってはならないと私は思う。

答え、すなわち読み方が一つということと、考え方が一つということは違う。ここを間違ってはいけない。考え方、あるいは思想と言ってもいい、それは人の数だけあるかもしれない。しかし言葉の受けとめ方、文章の読み方が人の数だけあったら、言葉は成り立たない。「赤は止まれ」という文を間違って理解したら、轢かれてしまう。だから「赤は止まれ」という文の理解に答えは一つしか許されない。それと、止まれを指す色は赤がいいのか、他の色でもいいのではないか、という多様な意見は、まったく次元が異なる。

単文だけではない。物語でも同じことが言える。むしろ物語になれば、事情はさらに複雑になる。「桃太郎」を読んで、「浦島太郎」と受けとめてはいけないはず。「桃」「鬼」「退治」という言葉の意味を理解して、話の展開をきちんと把握することと、「鬼退治はいいことか、かわいそうか」という議論はまったく別なことがら。多様な読みとは、言葉の意味、物語の意味が理解できてはじめて可能になるものではないだろうか。

読解試験を否定する人たちは、言葉の意思を伝える次元と、さまざまな意見を表現する次元を混同しているように思われる。もちろん、いい試験と悪い試験は存在する。何の根拠もなく、作成者の主観だけで正答を決めていたら、試験にならない。

同様に、いい文章と悪い文章も存在する。作者がどんなに明確な主張をもっていても、でたらめに言葉をつなげているだけでは、意思は伝わらない。それではその主張についての多様な意見を引き出して議論することもできない。だから、文章が持つべき最低限の条件は、伝えたいことが相手に伝わること、と言えるのではないだろうか。

伝えたいこととは、必ずしも言葉になっている気持ばかりではない。伝えたいことがもやもやした感情ならば、その気持が文章表現をつくる。読んだ相手が、書き手はもやもやしているとわかれば、「赤は止まれ」のように明晰に表現できなくても気持は伝わっている。

もやもやを伝えたいのに、元気で悩みはないと受け取られては、言葉としての役割を果たしていない。また、ある種の詩のように、読み手に多様な想像を促す表現もあるかもしれない。それを受けて、何の想像もふくらまなければ、やはり書き手の意思は伝わっていないことになる。

これまでの日本語教育、いわゆる国語教育では、言葉には意思を伝える次元があることを軽視していたように思われる。その代わり、さまざまな意見やもやもやした気持を表現する次元ばかりが重視されていたのではないだろうか。「言葉は道具」というと、どこか言葉の力を信じていないように受け取られやすい。そのうえ「言霊」という言葉に象徴されるように、日本語では表現する言葉と表現される気持の一体感が強く意識されている。

ところが、道具の次元を軽視し、言霊の次元にばかり重視すると、どうしても矛盾は避けられない。ほんとうは意思が通じていないのに、お互い通じていると思い込めば、それぞれの思い込みはいつか衝突する。あるいは一方が他方に思い込みを押し付けることになる。これは森有正が批判した、日本語の二人称問題が指す事態と同じ。

森の提起した二人称問題を私なりにまとめると、次のようになる。フランス語などのヨーロッパ言語は三人称を基本とする言語。言葉は事実を客観的に表す。これに対し、日本語は二人称の文化であり、言葉はつねに相手との関係で決まる。象徴的なのは助詞、助動詞のはたらき。ヨーロッパ言語では「これは本」と言うところを、相手により「本です」「本だよ」「本でございます」などと言い換えなければならない。それだけ相手との関係性を重視するという長所でもあるが、関係性に依存し、個人の独立を阻むという短所にもなる。

反対に、ヨーロッパ言語は事実説明が得意だけれど、感情移入は苦手ということもできる。男が女を口説くのも、子が親に甘えるのも、国王が臣民に賜るのも、ロック歌手が観客に叫ぶのも、すべてアイ・ラブ・ユー。「私」「僕」「オレ」「朕」の区別もなく、「愛してます」「愛してるよ」「愛してるぜ」などの使い分けもほとんどできない。

だからヨーロッパの言語では、いろいろな場面で同じ愛情表現を繰り返し口にしたり、おおげさに抱き合ったりするのかもしれない。意思の疎通は言葉だけでされるものではなく、言葉以外のしぐさや行動とともに達成される。会話のなかでは言葉そのものにも、声色や抑揚など、さまざまな表情や感情がこめられる。

ただし、二人称問題は日本語がもつ一つの傾向であり、本質ではない。同様にヨーロッパ言語の客観性も一つの傾向にすぎない。ヨーロッパ言語でも、言葉を尽くさず相手との関係に依存することもある。

クリシェ(cliché)と呼ばれる常套句や人を酔わせる美辞麗句はどんな言語にもある。フランス語やドイツ語では、二人称が二種類あり、その使い方は母語として話す人でもときに苦しむらしい。他方、日本語であっても以心伝心のような抽象的な交流ではなく、言葉としては自立した意思疎通はないわけではない。

だから日本語を使う限り二人称問題を脱することができないと悲観することもなければ、ヨーロッパ言語を少し学んだところで、それを克服したとうぬぼれることもない。もちろん外国語を学ぶことは、誰にとっても母語を客観的に見直す機会になるに違いない。

話を文章に戻す。言葉のなかでも文章の場合は、しぐさなどによる補助が期待できない。手書きであればまだしも、ワープロやケータイの文字はさらに個性がない。そういうなかで、日本語の性質を短所ではなく、長所として活かすためにはどうしたらいいか。

すでに多くの人が提案しているのは、日本語を外国語のように学ぶという方法。外国語を学ぶ際、いきなり多様な広がりをもつ詩から学ぶことはない。ふつうは基本的な単語や、例文の用法から学ぶ。人に会ったら何と言うか、お腹がすいたときは何と言うか、うれしいときは何と言うか、基本的な言葉な使い方の練習を繰り返す。それを通じて言葉の道具の次元を磨くことが有効であり、また、それしか言葉を使う能力、表現の次元の水準を高める方法はないように思われる。

こうした地道な方法は言葉に限ったことではない。楽器を弾こうとするとき、いきなり有名な曲を感情豊かに奏でることはできない。基本的な指使いや呼吸を覚え、同じ曲を何度も何度も弾き、ようやく自分の解釈をこめて演奏することができるようになる。言葉にも同じことが言えるのではないだろうか。

読解問題批判は、ほとんど常識のように広がっている。腹立たしいのは、試験を実施している教員や学校関係者にも平然と読解問題を批判する人がいること。彼らが言語の本質を理解していないことも腹立たしいが、それ以上に気に入らないのは、彼らには内部告発をしているという決意も責任感も感じられないこと。

大学人が試験を批判したら、受験生はどうすればいいだろう。批判がどれだけ正当であっても、目前の試験はそのままに行われる。「この方法は間違っているけれど、選別のためにはやむをえない」という態度で行う試験に、誰が真面目に準備するだろう。

嘘でもいいから、「この方法が、いま考えられる最適の方法です」と断言してくれる方が努力のしがいもある。できれば、「この試験に向けて勉強することが、能力を高める唯一の方法です」とまで言ってもらいたい。それができないならば、職を賭して不正と欺瞞を告発するか、ただ黙っていてほしい。

予備校や塾で教えている人のほうが学校の教員よりも、しばしば生徒の人気と信頼を集めるのは、一方は現実を受け止めたうえで、それに対処する方法を伝授してくれるけれども、他方は現実を批判するようにみえて、結局は黙認しているからではないだろうか。現実に直面する人がどちらの助けを必要としているか、考えてみればよくわかる。

そして、道具としての言葉を身につけなければ、表現としての言葉が使えないように、まずは現実を正面から受け止めない限り、現実に対する有効な批判も、現実を変えていくことも、いつまでもできないのではないだろうか。


碧岡烏兎