最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

公園の竹林

2017年9月

9/1/2017/FRI

There Is No Panacea

仕事のあと、まっすぐ病院へ。

父の容態はだいぶよくなった。病室のカーテンを開けると、夕食を完食したところで、きちんとベッドに座っていた。

今日は介添えしてもらいトイレまで歩いたという。

3週間前、意識を失い呼吸困難になり、救急車で運ばれた人とは思えない回復ぶり。


顔色もいい。それでも医師からは厳しいことを言われている。

基本的に病気ではない。老衰で全ての臓器が弱っている。一つの臓器の衰えを遅くする薬は、他の臓器の老衰を助長する副作用もある。

しばらく不整脈と脳梗塞を予防するために血をサラサラにする薬を使っていた。すると今度は下血するようになり、貧血になった。そこで心臓の薬はやめて、貧血の薬を使う。そうすると脳梗塞のリスクは高まる。どちらを取るか、判断は難しい。


本人は帰宅する気満々なのは頼もしい。まずは気力、次に体力。

痛みがないのも不幸中の幸い。


9/3/2017/SUN

記憶、忘却と想起

満月

記憶と忘却」、「記憶と記録」と続けて書いてきた。

もう一つ、記憶をめぐって忘却と想起について書いておく。

人は自分に都合の悪い事実を忘れる、と書いた。それは加害の場合だけではない。受け止めきれない大きな悲しみと遭遇したとき、たとえば、大切な人を突然に失くしたとき、人は自分を守るためにその出来事を忘れようとする。

忘れられた悲しみの記憶は消滅するわけではない。心の奥底に沈められて封印される


その封印は、時に自分の意思とは無関係に解かれる。思い出そうと努力をつづけることでも、徐ろに封印は解かれることがある。

封印が解かれて心の奥底に眠っていた記憶がよみがえるとき、その記憶により癒されることもあれば、重しとなって自分を苦しめることもある。それは時と場合による。


写真は、遠くもなく、かといって近いわけでもない故郷の駅前で見上げた満ちていく月。

さくいん:悲しみ


9/4/2017/MON

不死鳥

父が入院して4週間になる。そのあいだに三度、危機的な状態に陥った。一度目は入院直後。二度目は粥も食べられず、もう口から食べることはできないかもしれないと医師に言われた。

三度目は先週


8月は毎週末、仕事のあとに実家に帰った。お見舞いをしてから平日は一人で過ごしている母と食事をした。

昨日、正午に病室へ行くと、ちょうど昼食を食べていた。

お粥と豆腐、黄桃。まだ柔らかいものばかり。全部たいらげて、まだ足りないよう顔をしていた。


一人で歩ける体力が戻り、介護サービスの等級と内容が決まれば、退院できそう。あと2週間くらいか。

それにしても、父の回復力には驚かされる。


9/5/2017/TUE

『この世界の片隅に』、Blu-ray & DVD 2017年9月15日(金)発売


この世界の片隅に

アニメ映画『この世界の片隅に』のDVDがもうじき発売される。

映画を見たすぐあとは、DVDが出たらすぐに買おうと思っていた。一度きりでは見ることができなかった細部をゆっくり見たいと思っていた。


原作を読み返した今、映画を最後まで見る自信がなくなり、予約もできないでいる。

怖い。歪んでいるすずさんを見るのが怖い。そして歪んでいるすずさんを直視できずに作品として”だけ”見ようとしている自分に嫌悪している。

わかっている。ほんとうは、歪んでいる自分を見ることが怖くてたまらない。


さくいん:こうの史代


9/6/2017/WED

FACEBOOKとアメリカ社会

一度開いたFACEBOOKのアカウントを閉じたとき、「平均化した自分」を嫌悪すると書いた。中学時代の友人から今の職場の同僚まで、同じ顔を見せているわけではない。

最近、考えが変わり気づいたことがある。FACEBOOKは自己演出のための道具であること。そして、アメリカ社会で生きていくためには自己演出は必要不可欠であること。


人種、祖先や親、自らの出生地、宗教などが多種多様な米国では、人々が共有しているものはせいぜい「自由に生きていけるアメリカ」という理念であり、日本のように「山といえば富士山」のような文化的な共通項は多くない。

日本社会は同調性圧力が高いと言われる一方で、アメリカ社会は「坩堝」(るつぼ)や「モザイク」と形容される。同調できるものが少ないことがアメリカ社会の特徴。

そういう社会では「私はこういう人間です」と自らアピールする必要がある。


FACEBOOKとは、もともと大学の新入生が自己紹介用に作る冊子を意味するという。「私はこういう者です。仲良くしてください」。

そういう自己演出の道具であると考えればFACEBOOKが米国で急速に普及した理由がよくわかる。

こんなことは、おそらく議論し尽くされたことだろう。気づくのが遅かった。


さくいん:アメリカ


9/7/2017/THU

落ち着かない

父が入院していることもあり、落ち着かない毎日がつづいている。本はまったく読んでいない。短い雑誌の記事さえ読み通せない。Twitterもほとんど開いていない。

幸い、父は快方に向かっている。近いうちに退院できる見込み。

耳が遠く、自分が言いたいことだけを喋り、話がわからなくなると癇癪を起こすところまで回復している。


ほっと一安心した時に疲れが一度に出るから注意しなさい、とS先生に言われている

一安心できるかどうかもわからない。帰宅してからは本格的な「介護」が始まる。

自分よりも心労が蓄積している母が倒れないようにしなければ。

救急車からICUへ直行したときには覚悟した。孝行できるのは今しかない。


9/9/2017/SAT

アップルのサポート

今日は半日、アップルのサポート窓口と電話をしていた。iCloud Drive問題の続き。

外付けHDDからiCloud Driveへ複数のフォルダをアップロードするとエラーになってしまう。これが最初の問題。そこで、1フォルダ、すなわち、1アーティストごとにアップロードする。これが先週、先方と到達した結論。

しばらくはうまくいっていたけど、「また容量不足です」のエラーが出るようになり、1フォルダでもコピーできなくなった。

そこで、もう一度アップルのサポート窓口に電話をして、助けを求めた。

「スペシャリスト」と呼ばれる技術担当者はとても親切で、ねばり強くトラブルシューティングに努力してくれた。アップルというと強気な会社のイメージがあり「それが仕様です」と言い放たれると思っていたので、丁寧な対応に感心するとともに驚いた。


以下、アップルのサポート窓口とのやりとりのまとめ。

原因:

iCloud Driveの仕様では、クラウドに置いたファイルを作業するときに一時的にローカルに落とし、作業を終えると自動でアップロードしたあと本体内のコピーを消去する。ところが、今回のケースでは、外付けHDDからiCloud Driveにコピーしているにもかかわらず、本体にファイルの一部が残る。

このファイルはシステムファイルに保存するため「このMacについて」でストレージの状況を見てもなぜ容量が足りなくなっているのか、わからない。


対策:

ストレージの状態を監視して、「その他」が増えてHDDを圧迫するようになったら、iCloudからサインアウトする。これでローカルにあったファイルは全部消去される。再びサインインしてから確認すると空き容量は増えている。

一度に多くのデータをアップロードしない。アップロードするデータ量が本体内の使用されていないデータ量を超えるとOSが暴走する。私の場合、再起動したときに主言語が英語になっていて日本語は設定から外れていた。この問題はサポートの助言で環境設定で日本語を第一言語に指定することで解決した。ただし、なぜ英語が第一言語になり、日本語が設定から外されたか、理由はわからない。

この問題はバグと言っていい。通常の操作をしているのに、エラー状態になり、エラー状態を避けるためにiCloudへのサインイン・サインアウトを繰り返すという通常ではない操作をユーザに強いるのだから。


結論:

現在のiCloud Driveは外付けHDDのように自由にデータを出し入れはできない。なぜなら、一度に大量のデータをアップロードできない。もちろん、データ転送の速度や上限にはLANやWi-Fi環境も関係する。

ネットワーク環境を別にしても、ファイル転送をする度にサインインとサインアウトをしなければならないのはかなり不便。親切だったサポート担当者には、改善の余地があるバグとして社内で報告するように依頼した。


9月14日追記。

iCloud全体からサインアウトしなくても、システム環境設定からiCloudを開き、iCloud Driveをオフにするだけで内部に滞留したデータは開放されることがわかった。


2020年4月24日追記。

同じ問題が再発してサポートに依頼したところ、上記のような挙動は「仕様」であると認めた。外付けHDDからiCloud Drivveにデータをコピーするときには移したいデータの容量が"ローカル"になければならない。


さくいん:Apple


9/10/2017/SUN

お宝

タイプライター、ケース タイプライター 試打

毎週末、実家へ帰っていても、病室にそう長い時間いられるわけではない。それ以外の時間は外出するわけでもなく、実家で過ごしている。

昔のアルバムを眺めたり、古い漫画を読み返したり。父が入院してからは気持ちが落ち着かず、新しい本を読んだり、テレビドラマを見たりすることはできないでいる。


先週末、以前から探していたタイプライターを見つけた。密閉度の高いケースに入っていたので中の本体はきれいなまま。

高校生の頃、このタイプライターを使い、タイピングの教則本で正しい運指を覚えた。おかげでワープロ、パソコンの時代になっても苦労しなかった。今でもタイピングは他人より速いと思う。

タイプライターというと、ルロイ・アンダーソンの有名な曲のほかに『刑事コロンボ』「魔術師の幻想」("Now You See Him,” 1976)を思い出す。この作品では、タイプライターが事件解決の鍵となる。

驚いたことにインクは乾いていなかった。キーを叩いてみたものの、思っていた以上にキーが重い。音楽のように軽やかには打てず、名前を打つのが精一杯だった。


さくいん:『刑事コロンボ』ルロイ・アンダーソン


9/11/2017/MON

終わりと始まり

「終わりのなかに始まりが」(Im Ende-der Anfang)、というモルトマンの言葉を頭では理解できる。その通り、と思うこともある。

でも、「終わり」から何かが始まるためにはまず「終わり」が来なければならない。

そして、死者が生き返らないように、「終わり」に「終わり」があるとは私にはとても思えない。

確かに大きな世界が終わったあとに小さな世界がいくつも生まれた。その小さな世界が私を穏やかな気持ちにさせたことは間違いない

ただし、それは終わった世界が再び始まったことを意味しない。

終わった世界は終わったまま、いつまでも終わっている。


今日はダメな一日だった。帰りの電車もバスも、ずっと沈んだ気持ちでいた。だから、こんな弱気な言葉を思いついたのだろう。

もう一つ、理由がある。帰りのバスで偶然、佐野元春「グッドバイからはじめよう」(1983)を聴いたせいもある。「終わりははじまり」という言葉を知ったのは、モルトマンを読むよりもずっと前にこの歌を聴いた高校生のときだった。

彼の歌は、いつも私をどうしようもないほどに困惑させる。


国分友里恵「愛せなくて」Paul Simon, "American Tune"を聴きながら、普段より少し長く風呂に浸かっていたら硬くなっていた心がすこしほぐれた。


さくいん:モルトマン佐野元春国分友里恵ポール・サイモン


9/12/2017/TUE

父の退院と不安な休暇

父が退院した。有給休暇を取り、病院から帰宅まで介添えした。退院の手続きは意外と煩雑で1時間以上かかった。これから先、介護の負担が増えることはあっても減ることはない。収入は減っても業務負荷の少ない勤務形態にしたことはむしろ幸運だった。

父の劇的な回復は珍しい例のようで、帰り際にお礼を告げた看護師は皆、口を揃えて「こんな元気になられて!」と驚いた顔をしていた。


入社して9か月経つ。仕事らしい仕事はまだしていない。会社は私が思っている以上に慎重で通勤に慣れるまで様子を見るつもりらしい。

資料作りだけでは物足りなく思うときもある。不安時に備えた頓服薬を使う機会もなくなった。

ところが今日、平日に有給休暇を取得してみて会社の姿勢が正しいことがわかった。

病院からの帰り道、タクシーのなかで、無意識にスマホのメールを開いていた。その時「トラブルが起きてなければいいな」という不安で動悸が高まっていた。もうスマホには仕事のメールは来ないのに。


緊張したまま過ごす休暇は2014年以前では珍しいことではななかった。実際、顧客や海外の本社や工場と運動会の最中に電話したこともあった。

話しながらタクシーを止め、行き先を告げてからも話し続け、支払うときまでスマホを耳にあてたままということもあった。

今は、そういう職務にない。にもかかわらず、今日、タクシーのなかで軽いフラッシュバックがあった。


父が退院して不安が一つ減った。そのため、別の不安が心を占めるようになったのかもしれない。そうとすれば、私の心にはいつも同じ量の不安で満たされていることになる。

「一安心したときが要注意」というS先生のアドバイスはこういうことを指していたのだろう。

今週末はもう病院まで行くことはない。長く、ぐっすり眠りたい。


今日の題名は「AのBとCのD」という形式をとる『カードキャプターさくら』、各話の題名を真似してみた。再放送が終わり、近々、『クリアカード編』の新巻が出る。


さくいん:S先生『カードキャプターさくら』


9/13/2017/WED

黄昏

M駅で見た黄昏

今日もダメな一日だった。

会社では、何か指示があるわけでもなく、自分だけ放置され、取り残されているような気がした

気分を換えようといつものそば屋でふだんは食べないカツ丼を食べた。食べてから後悔した。「カロリー高すぎた」。

午後、なぜか小腹が空いて、前はよく食べていて、でも最近は食べないようにしていた蒸しケーキを食べた。食べてからまた後悔。

帰宅途中、ビールと揚げ物の買い食いだけは我慢した。それでも、夕食のあとでアイスクリームの入ったシュークリームを一つ食べてしまった。

落ち着かない気持ちを食べることで誤魔化す。過食症はこんな風にはじまるのかもしれない。

何一ついいことがなかったような気がした今日一日。帰り道、きれいな黄昏の空を見たことだけはいいことだった。


9/14/2017/THU

黒い指環

今日は新入社員時代の先輩、Sさんの命日。彼が一時期、勤めていたブランドで買った黒い指を一日嵌めていた。

Sさんは私より先に会社を辞めて、アメリカでダイヤモンドの鑑定士の資格を取った。そして帰国してから世界的なブランドで働きだした。人あたりのいい彼は売り子としても優秀で店舗一の成績だったと聞いたことがある。

ところが、ブランド名のついた石を売るだけでは飽き足らず、Sさんはダイヤモンドの仲買人になった。しばらくアントワープに住み、一日中小さな石をループで選別していたという。


この指環は、2010年に買った銀の指環と同じブランドで同じデザイン。ブランドの頭文字と創立年が刻印されている。

ブランドの創立年が入るほどの定番だった銀の指環が廃番になった。黒い指環を探しているときに店で聞いた。うっかり買い逃してはいけないと思い、二ヶ月ほど前に購入して今朝までしまっておいた。

素材はチタン。駅や電車で眺めていると天井の蛍光灯が反射して不思議な輝きを放つ。

これから、「喪に服すとき」(ハンバートハンバート)、親しい人の月命日⋯⋯6日第一金曜日9日11日、14日、ほかにも⋯⋯⋯⋯に身につける。「いつか再びめぐり会える日まで」。


2017年12月3日追記。

黒の指環を身につける日が1日増えた。


9/15/2017/FRI

アサーションの実践

Assertionは難しい。資料の誤りを指摘すると、

そちらで直していいですよ
いや、作成者が修正してください

やんわり言ったつもりが相手は不満気。ぷいと立ち去りタバコを吸いに行った。

そうだった。会社員生活はこういうことの繰り返し。2年間の離職で忘れていた。

詰め寄られると受けてしまうのは私の悪い癖。相手が「キレる」ことが怖くて、つい、言う通りにしてしまう

今日は「主張」はできた。その点は進歩。ただし、解決は円満ではなかった。

難しい。今日のところは少し不安が残った。


9/16/2017/SAT

Drive, Russ Freeman, ビクター、2002


Drive

久しぶりにアルバム一枚をまとめて聴いた。Russ Freemanは80年代後半にデビューしたフュージョン/ジャズ・ギタリスト。

例によってどこで覚えたのか、忘れている。たぶん、フュージョン・ギタリストを特集したウェブサイトで知ったのだろう。まずは90年代に彼が率いたバンド、The Rippingtonsのアルバムを借りてきて聴いた。"Topaz"と"Sahara"にはハートマークがいくつもついた。


今回、2002年発表のソロアルバムを聴いた。どの曲もいい。いつの間にか全曲聴いていた。

"Soul Dance"のトランペットには聴き覚えがある。クレジットを見ると、やはりChris Botti。他にもキーボードでJeff Loberが参加しているし、Don Henley作曲作品もある。

調べるとDavid Benoitと親しく、Kenny GもThe Rppingtonsのアルバムに参加している。

好きなアーティストは別の好きなアーティトと共演している」という法則は、今回も正しかった。


iTunesを見てみると、手持ちのコンピレーション・アルバムのいくつかで聴いていて、ハートマークもつけていた。

名前に注目しなくとも同じミュージシャンの曲に印をつけている。ということは、私の音楽趣味には一貫した嗜好がある。

まだ言葉では説明できない。文章表現の宿題にしておく。


9/17/2017/SUN

キーマカレーとヴィシソワーズ

久しぶりに料理をした。作ったのはキーマカレーとヴィシソワーズ。

キーマカレーは、前回、失敗とまでは言わないまでも、ただの「辛いミートソース」になってしまったので、再挑戦。味は好評だったのでレシピは大きく変更しなかった。

キーマカレーは普通のカレーほど玉ねぎを炒める必要がないので、半日でできる。

改良した点は、トマトジュースを足したこと。これで汁気が出てカレーらしくなった。

具は牛豚ひき肉のほか、エリンギとズッキーニ。ニンジンはみじん切りにして玉ねぎと一緒に30分ほど炒めた。ニンジンが細かくなっていたなかったところが今回の反省点。玉ねぎのみじん切りは機械で上手にできる。涙も出ない。

カレーのときはルウ状態になるまで炒めるからくし切りで十分。キーマカレーの場合は炒める時間が短いのであらかじめ細かいみじん切りにしておく必要がある。

ニンジンは機械では玉ねぎほど細かくならない。自分で刻んだ方が細かくできる。

調理のポイントはやはりニンジンと玉ねぎを炒めるところ。細かく刻んではあっても、いわゆる「きつね色」にするには30分程度では足りない。

ヴィシソワーズは、蒸したじゃが芋があったので簡単にできた。炒めた玉ねぎに牛乳を加えて、煮込みながらじゃが芋を潰せば出来上がり。味付けは固形スープと塩。玉ねぎの甘みでカレーと好対照の味になった。

今回は見栄えも味も好評だった。鍋も二つしか使わないので効率がいい。

餃子に続く定番になりそう。


9/18/2017/MON

休日

昨日は一日家で過ごした。言葉通りの休日。

朝寝坊して、パスタを茹でて昼からビールを呑み、昼寝をして、ちょっと本を読んで、iTunesを整理して、ファション雑誌を眺めて、ベッドに寝転び、天井を見上げて、外のベランダの桟で膨らんでいる雨の雫を見て⋯⋯⋯⋯。

テレビは見ない。ラジオも聴かない。お気に入りのマイルドなジャズで部屋を満たす。David Benoit, Ron Carter, Kenny Drew, Michael Brecker, 木住野佳子⋯⋯⋯⋯。


毎週、三日休みがあるといい。一日目に一週間の疲れを落とし、二日目に何かをして、三日目は翌週に備えて休む。

現状の週休二日ではなかなか外出できない。実際、今年行くつもりだった展覧会はまだ一つも行けていない。週末は、土日二日とも休んでいることが多い。

今回は5週間ぶりに用事もなく、雨も降っているので、二日目にも何もしなかった。

次の三連休は10月第二週。今度は中日に何かする。出かける先はもう決めてある


さくいん:木住野佳子


9/19/2017/TUE

私のマウスは左利き

右利きの私、パソコンのマウスは左手に持つ。これが便利。

マウスを動かしながらテンキーで数字を入力できるし、右手でメモ書きもできる。


左手マウスに換えたきっかけは右手の腱鞘炎。右手でクリックするたび手首から肘まで痛むようになった。重症ではなかったものの、使えば痛むし使わないわけにもいかない。

仕方なく左手でマウスを動かすと、これがなかなか便利。以来、ずっと左手でマウスを動かしている。


そもそもマウスはあまり使わない。

事務用ソフトはほとんどキーボードのショートカットキーで操作する。

これが一番効率がいい。


9/20/2017/WED

NFLとNBAは見る。MLBは見ない

NFLが始まった。オードリーの番組で各試合の見どころを楽しんでいる。

サンフランシスコ49nersが、昨年、地名は変えずに本拠地をシリコンバレー、サンタクララに移した。馴染みのある街なので今年は49nersに注目する。

NBAももうすぐはじまる。今年はウォリアーズの連覇がかかる。ほかのチームがウォリアーズの圧倒的な強さを止めらるか、これも楽しみ。

MLBは見なくなった。理由ははっきりしている。選手が試合中に唾を吐くから。見ていて気分が悪い。以前、日米野球のあとの両軍のベンチを写真で見たことがある。米側はゴミが散乱していて試合前のようにきれいな日本側と対照的だった。

日本の野球はアメリカのBaseballと違うスポーツ、と誰かが言っていた。日本の野球の過剰な根性主義はどうかしている。でも試合中に選手が唾を吐くこともどうかしている。見ていて気持ちがいいものではない。

ところで、NHKはバスケットはNBA、フットボールはNFLと呼んでいながら、野球だけ今でも「大リーグ」と呼ぶ。そろそろ変えたらどうか。『巨人の星』でもあるまいし。


さくいん:アメリカ


9/21/2017/THU

夕暮れ物語

土曜日が祝日なので予約をして夕方に病院へ。

いつもは土曜日の朝に行くので、散歩のついでみたいに軽い気持ちで通院している。

夕暮れに繁華街を抜けて灯りのともる病院へ着くと、気分がちがう。あゝ、そういえば病気だった、としみじみ思う。もう12年目。

S先生に報告したことは3点。

  • 父が退院したこと。言われていた通り、疲れがどっと出たので三連休は休んでいたこと。
  • 仕事が辛かったことを思い出したこと。会社で、ほかの人の忙しそうな仕事ぶりを見ているだけで、勝手にこちらも疲れてしまうこと。
  • 会社で時間を持て余していても、自分から積極的に業務を増やす気にはなれないでいること。

S先生は上記3点を肯定した上で、「突発的な出来事にも対応できたし、今後も無理をせずに、のんびり行きましょう」。いまのペースを崩さないでいることに注力するように助言を受けた。薬の種類と量にも変更なし。


病院を出ると外はもう夜。辛い話はなかったのに、風も少し秋めいてきたせいか、しんみりした気持ちになった。

診察のあと、コンビニの前で、缶ビールを呑みながら自分に言い聞かせるようにトワ・エ・モア「誰もいない海」を聴いた。


「夕暮れ物語」は伊藤つかさが1982年に発表した曲。知ったのは数年前のこと。安井かずみ作詞、加藤和彦作曲。


さくいん:S先生加藤和彦


9/22/2017/FRI

お母さんか、母か

歌手や芸人がインタビューで「お母さんが」と言うのがきになる。公の場では「母は」と言うものではないか。

事務所はそういう教育をしないのか。番組のディレクターは指摘しないのか。誰も何も言ってないとも思えない。そうとした不思議というほかない。

実は、ある有名人のブログに老婆心ながら苦言を書き込んだことがある。

書き込みはすぐに消された。そのあとその人は「母は」「父は」と言うようになった。

「私が大人の掟を教えた」と密かに悦に入っている。


9/25/2017/MON

David Benoit & Russ Freeman(ミラージュ)、David Benoit & Russ Freeman Project、ビクター、1994


Mirage

大好きなギタリストEarl KlughがピアニストのBob Jamesと共演したアルバム"Cool"や"Kari"、"Two of a Kind"に勝るとも劣らない華麗なピアノとギターの共演。おまけにベースはNathan East。

Freemanの演奏は、エレキギターもあれば、アコースティックギターもある。最後はピアノとクラシックギターだけの曲で静かに終わる。

好きなアーティストは好きなアーティストと共演する

Russ Freemanでまた見つけた。この法則の正しさはもう揺るぎない。

個性あふれる3人の豪華な共演を楽しんだ。これから繰り返し聴く定番になりそう。


今年、通いはじめた職場近くの図書館がいい。これまで行っていた図書館にはないアルバムをたくさん持っている。

最近、借りたアルバムからひとつかみ。

Michael Hedgesは、最初に聴いた"Beyond Boundaries"(2001)で前衛的な印象を持っていた。1990年発表のアルバムはWindhamhillから、それこそこのレーベルらしいNew Age的な曲やボーカル入りの曲まで入っていて驚いた。


さくいん:マイケル・ヘッジス


9/27/2017/WED

靴下ひとつで

洗濯機に入れるときには確かにペアだった靴下。

干すときになって片方見つからない。

こんなことでも、朝から今日一日について不安でいっぱいになる。

何か悪いこと、嫌なことが起きそうな気がして落ち着かない

会社に着いて、引き出しから不安を鎮める頓服薬を飲む。何も変わらない。

仕事も上手くいかないし、何から何まで上手くいかない気がする


夕方、帰宅して見ると、洗濯ネットのなかにもう片方の靴下があった。

確か朝にも探したはず。何度見てもなかったはず。

こんなことばかり。

こんなことで一日中、モヤモヤした気分でいたのだから情けない

靴下ひとつで、なぜこんなことになるのか、わからない。

21時を過ぎている。もう寝る。


上の文章は午前3時に目が覚めてから書いた。

よく眠った。睡眠時間、5時間41分。快眠度、57%。数字以上に気分はいい。


9/29/2017/FRI

ミルグラム実験と体罰

テレビ番組『100分de名著ハンナ・アーレント『全体主義の起原』』、最終回、アイヒマン裁判の翌年に行われたミルグラム実験が紹介された。

この心理実験は、「ごく普通の人も、一定の条件下では権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超えて、かなり残虐なことをやってのけるということ」を明らかにした。

このことは私自身経験がある。管理と暴力が常態化していた中学校時代は、ミルグラム実験そのままの世界だった。運動部の顧問や学年主任が管理や暴力をも日常化させると、やがてほかの穏やかな性格の教員まで生徒に平手打ちをするようになった。

暴力を振るう教員にしても、ふだんはいたって普通の人たちで、にこやかに授業を行う日もあった。

「悪は陳腐である」という公式は、私の中学時代にぴったり当てはまる

あの教員たちは、おそらくはアイヒマンと同様、罪の意識などなく、平穏な学校を運営するために必要な当然の行為と考えていたのではないか。とすれば、仕事を全うした充足感だけが残り、懺悔の気持ちなどないだろう。

私の場合、残る気持ちは違う。

アーレントは、全体主義社会や道徳性のない法が支配する社会においては「悪法」への服従は積極的な支持と同じと断言し、アイヒマンの「遵法的態度」を指弾した。

私も、アイヒマンと同じ「陳腐な悪」の一人だった。

恐怖を感じながらも抵抗するどころか進んで服従し、服従しないほかの生徒を見下し、自分だけ生き残り、上昇しようとしていた。その後悔にいまも苦しんでいる

学校なんて、そんなものさ。いい成績を取るための努力に過ぎないよ。

そんな風に言えたら、どれほど楽になるだろう。


さくいん:ハンナ・アーレント体罰