最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

東洋文庫ミュージアム、知恵の小径

9/28/2017/THU

100分de名著ハンナ・アーレント『全体主義の起原』、仲正昌樹、島津有理子、伊集院光、NHK Eテレ


100分de名著ハンナ・アーレント『全体主義の起原』

三木清『人生論ノート』のときとは違い、原著を読んでいないので、要約を聴くだけで終わった。そういう物足りなさを感じがする。中身を深く理解することはできなかった。

もともと25分x4回の100分しかないので、大部の作品を取り上げると中身に踏み込む前に、要約を紹介するだけで時間を使い切ってしまう。

さらに浩瀚な書物となると、要約さえアニメの手を借りた簡略版にならざるを得ない。『正法眼蔵』のときがそうだった。

もっとも、この番組は名著の世界への招待であり、番組を見て読んだ気になってはいけない。


『全体主義の起源』は未読ではあるものの、有名なので中身はあらかた知ってはいる。初期の論文『アウグスティヌスの愛の概念』や短い論文をまとめた『アーレント政治思想集成』も読んだことがある。アーレントについての著作も読んだことがあるのでまったく知らないというわけではない。

だから、内容で特別、新味に感じることは少なかったけれども、出演者の二つの言葉が記憶に残った。

一つは伊集院光の言葉。記憶によれば、次のような発言があった。

全体主義に進むプロセスがこんなに見事に説明されたら、どこで止めたらいいのか、どこなら止められるのか。そういうところが見つかりません

この問いに対する回答は「常に」「ふだんから」ということになる。最終回での仲正のまとめ。

   アーレントのメッセージは、いかなる状況においても「複雑性」に耐え、「分かりやすさ」の罠にはまってはならない---ということであり、私たちにできるのは、この「分かりにくい」メッセージを反芻しつづけることだと思います。
(「誰もがアイヒマンになりうる」、テキスト、第4回)

「自由及び権利」は「不断の努力によって」守られるという言葉が我らの日本国憲法にある。「不断」は民主主義の基本ではある。とはいえ、アーレントの思索は、社会が全体主義に進む「過程」に焦点を当てていて、「処方箋」については詳しく論じていない。


この点について、「アーレントの『政治』に対する考え方は”青い”」という発言が仲正からあった。この言葉も印象に残った。

アーレントは「悪の陳腐さ」を明らかにする一方で、彼女の出発点はやはり「成熟した市民社会」であり、そこでは政治は最低限の道徳をもつ市民が参加する場所だった。ここには矛盾がある。

現代の民主主義政治は、道徳心を持たない人間も、利己的な人間も、またアイヒマンのように自分の目の前しか見ていない無思想の人間も参加することができる。アーレントが考える政治はそのような混沌とした場所ではない。

ただし、この点は見方を変えると、矛盾ではなく、アーレントが思索を続けた軌跡とも言える。

第1回、アーレントはワイマール時代に中産階級の家庭で生まれたと紹介されていた。市民社会が溶解し、全体主義に呑み込まれる事態を目の当たりにしたアーレントにとって何よりもその過程が驚きだっただろう。だから、大衆社会に生まれて全体主義を教科書で学んだ私とは思索の起点と軌跡は反対になっている。

アーレントはアイヒマンに杉原千畝のような自律した行動を期待したのだろう。でも、それは違う意見を持つ人の存在を認める「複雑性に耐える」ことよりはるかにハードルが高い。


全体主義が衣替えしたポピュリズムは「分かりやすい」メッセージで「付和雷同」組の人たちを釣り上げ、先進諸国で勢いを強めている。

すでに「複雑性に耐える」だけでは立ち行かないところまで来ている。

ここで止められるか。

いま、自分自身に対しても肯定的になれず厭世的な気分に沈みがちな私は、悲観的な見方に傾いてしまう。

”青い”アーレントについてとやかくいう前に"黒い"自分を何とかしなければならない。

まずは、自分が取り続けたアイヒマン的姿勢を直視すること。それに気づいているにもかかわらず、その最初にすべきことができずにいる


さくいん:ハンナ・アーレント(Arendt, Hanna)