12/11/2016/SUN
この世界の片隅に、こうの史代原作、片渕須直脚本・監督、のん主演、GENCO製作統括、東京テアトル配給、2016
2014年の夏、出張のあとで呉に行った。そのとき、この作品の映画化が計画されていることを知り、原作を読んだ。『夕凪の街』は原作も読んだし、映画も借りて見た。
『この世界の』も、原作を読んでみたのに感想は書かなかった。映画製作のためのクラウド・ファンディングにも協力しなかった。
なぜか。理由は二つある。
一つ目。日常生活を描く物語をアニメ化したところで面白くはならないのではないか、と思っていた。
二つ目の理由は、原作を読んだときにははっきりわからなかった。映画を見終えて、気づいていなかった自分の気持ちがわかった。
一つ目の理由は、映画を見初めてすぐ氷解した。
SFでなくても、アニメーションはアニメーションにしかできない表現方法で、日常を淡々と綴る物語を、深く広く描ける。
人の思いが絵と色で表現され、現実には起こらない風景になる。こんな表現の仕方もあるのかと驚く場面がいくつもあった。
哲学者、西田幾多郎の言葉は、そのまま本作の感想になる。
我々の最も平凡な日常の生活が何であるかを最も深く掴むことに依って最も深い哲学が生れるのである。
戦前の広島の街並が緻密に再現されているということは見る前に聞いていたため、さほど驚くことはなかった。行ったことはあっても、私が広島の街に詳しくないせいもあるだろう。
この作品はDVDを買うつもりなので、じっくり見れば発見があるかもしれない。
感想を書けなかった理由の二つ目。
『この世界の』は、「希望」の物語。「絶望」の物語である『夕凪の街』とは正反対。続編である『桜の国』で中和されているとはいえ、『夕凪の街』だけを見れば結末は闇。
この物語の最後から戦後復興は始まった。そして、現代の私の生活はすずと周作の努力に負っている。戦後を生きた人たちへ敬意を表したい。
私の視線は、しかし、「希望」とは別の方向に向いていく。
すずは、これから何度も右腕の先にあったものを思い出すだろう。かつて誰かとつないでいた手の先に、いまは暗黒が広がっている。
そして、思い出すたびに、全身がきしむような痛みを感じるだろう。
それに耐えていけるだろうか。耐えて、生きて、復興を支えた人たちは本当に強い心を持っていたと感嘆せずにはいられない。
失くしたものの代わりになるものを見つけられたとしても、失くしたものそのものは二度と帰ってくることはない。どうしても、そこにこだわってしまう。
問題は、作品にではなく、「希望の物語」を素直に受け入れることができない、私の方にある。
映画を見た夜、原民喜「夏の花」と「心願の国」を読み返した。
「心願の国」に共感してはいけない。わかってはいても、「希望」とは正反対にあるものに気を取られてしまう。
『この世界の』でも、控えめにではあるものの、闇は描かれている。
「何がよかったんだ」という台詞が聞こえたとき、『夕凪の街』で読んだ「ぜんたい、この街の人たちは不自然だ」という台詞が耳の奥でこだました。
この点でも、「希望」の物語を受け止められない自分がいる。
DVDで見返せば、違う感想を持てるだろうか。
12月27日追記。
日経新聞の夕刊で、映画評論家の村山匡一郎が「心に残る2016年の映画」、三本の一つに『この世界の片隅に』を挙げている。
人生の現実味とアニメの持つ空想力を巧く融合させて見応えがある
この作品の良さを的確にまとめている。
辛い気持ちとはいえ、ここまで心を揺さぶられたのは、作品にそれだけ力があったからこそ。
写真は、夜の海、七里ヶ浜。