9/22/2017/FRI
負け組「50代」になる人の特徴 - 「平均収入未満の50代」500人のアンケートで判明!、週刊SPA! 9/18, 26合併号、扶桑社、2017
久しぶりに駅の売店で週刊誌を買った。グラビアのページも多いので電車のなかでは読まず、帰宅してから読んだ。買ってまでして読んだのは、男性学研究者の田中俊之がコメントを寄せているとツイッターで知ったから。「負け組50代」という言葉にも反応した。
「勝ち組」と「負け組」と言う分類が妥当かどうかは別として、田中が指摘する「ダメな50代」の特徴は、「社会性の欠如」。
- 客観的視点の欠如
- 自分の世界に引きこもりがち
- 政治や教育、家族など社会問題に対して軽々しく語る”にわか評論家”
- 家庭を”個室”と捉えている(亭主関白を気取っているつもりが実は疎んじられている)
- 仕事を離れた友人がいない
どれも納得もするし、耳が痛くなる指摘。痛い耳を押さえながら納得しながらも、あえて逆張りしたい気持ちになった。
上の指摘は、かつて丸山眞男が日本の学問世界を批判するときに使用した「タコツボ」という言葉に似ている。学者たちは自分たちだけの世界に閉じこもり、実社会と関わろうとしないのに、実社会を批判する⋯⋯⋯⋯。中島みゆきの言葉を借りれば、「包帯のような嘘を見破ることで学者は世間を見たような気になる」(「世情」『愛していると云ってくれ』)。
多くの人が肯いた「タコツボ」をあえて批判したのは森有正。「一人一人がしっかりとした自分の世界を持っていないから"群れる"」とタコツボの本質を森は指摘した。
「ダメな50代」についても同じことが言えるだろう。しっかりした自己を持っていないから、高いモチベーションを維持して働くわけでもなく、「労働は生活のため」と割り切り会社以外の場所で楽しむことも自分を磨くこともしない。
自分が楽しみたいことがわかっていれば、一人でも週末を楽しめるし、のめり込むほど楽しむことがあれば"評論家”ではない、自分なりの見識を持つこともできるだろう。
客観的視点を持てないのは、主観的視点がふらついているから。
ここまでは、自分に言い聞かせながら書いた。
「勝ち組」「負け組」という分類に興味はない。他人から見れば私はきっと「負け組」だろう。自分では「抜け組」「降り組」と自負している。「一抜けた」とゲームかを辞めて、競争からは降りた。
自分から進んで選んだ結果ではなかったとはいえ、今は自分らしい選択だったと思っている。
こうして週末に早起きして、お気に入りの音楽を聴きながら文章を書くとき、私は自分が作ってきたタコツボに篭っている。
蛇足ながら追記。
「自分のタコツボ」は、いわゆる戦後啓蒙思想が主張した「主体の確立」とは異なる。自律する個人という理想形はありえない。
人は一生、理想の自己になれるものではなく、できることは、せいぜい理想に近づこうと努めること。
人は弱く、傷つきやすい。同時に人は他者を傷つけやすい。人は、他の人を押しのけ、動物を殺して生きていく宿命にある。
他者との連帯や衝突、全体から疎外された孤独など、さまざまな「関係」のなかで、常に発展途上のものとして「自己」は生まれる。この点は、いま読んでいる本の感想をまとめるときにあらためて考えたい。
さくいん:田中俊之、丸山眞男、中島みゆき、森有正、労働、孤独