8/18/2015/TUE
働くことの意味 (叢書・働くということ)、橘木俊詔編著、ミネルヴァ書房、2009
考えてみれば、いまの「日常」は自分が望んでいたものにかなり近いと見るべきかもしれない。
仕事はせず、これまでに稼いだ金で暮らす。保険からの給付金は自分が掛けた金が元手になっているし、今回の給付は、会社も医師も認めたもので、後ろ暗いものではまったくない。長い旅行や豪華な外食のような贅沢はできないにしろ、好きな音楽を聴きながら、好きな本を眺め、気が向いたときに、思いついたことを文章を書く。
晴れていたら散歩。雨の日は読書。疲れたら午睡。酒は週末にすこし。晴耕雨読ならぬ晴歩雨読の毎日。ときどき襲ってくる猛烈な鬱や、将来への不安をうまくやりすごすことができれば、「日常」は穏やかに過ぎていく。
今日も、雨降りのなか、図書館まで歩き、雑誌や大型画集を眺めたりして過ごした。
問題は、稼いだ金と健康保険から給付される疾病手当には限りがあること。いつまでもこんな生活が続けられるわけではない。
いずれ、賃金労働を再開しなければならない。
図書館の労働に関する本の棚で、8冊からなる「叢書・働くということ」を見つけた。第1巻「働くことの意味」の冒頭で編者代表の橘木俊詔が「働くことの意味ーー偉人たちはどう考えたか」で、労働観の歴史を概観したあと、持論を披露している。
著者は長いあいだ、労働に対する考え方を考察していて、今回の主題と同じ『いま、働くということ』は3年前に読んでいる。また、日本社会の「格差問題」を社会階層、地域、性別、学歴など、さまざまな角度から観察してきた。
彼の主張は、単純。「人は(少なくとも日本社会にいる人は)ほどほどに働けばよい」。主張は『いま、働くということ』から変わっていない。
橘木の主張に対して予想される反論と、それらに対する応答も本文に書かれているので、ここでは割愛する。
この主張には、大いに賛同する。自分でも、「選ぶのは「生き方」であり、「職業」でも「働き方」でもない」と題して、少々肩に力の入った文章を書いたことがある。主旨は、橘木のそれと変わらない。
問題は、組織のなかで、どこまでそれが実践できるか、に尽きる。
周囲を見ていると、大企業で働いている人たちの労働時間は異常に長い。友人の一人は、夏休みもなく、週末も満足に休めていないとこぼしている。
最終的には追い出されるような形にはなってしまったものの、20年ほどの私の労働生活は、自分の周囲やメディアを通じて知る日本のホワイトカラーの労働環境と比べれば、過酷なものではなかった。むしろ、自分の耐性が低かったことが原因で、社歴と年齢が上がるたびに比例する責任の重圧に耐えられなくなった。
ここに将来への不安がある。
「ほどほど」ですむ仕事ならば、何とかやっていけそうな程度に回復してきた、とは思っている。しかし、要求される条件が厳しいものであったら、どうだろう。
今から心配しても仕方がない。少なくとも、「成功願望」や「出世願望」は捨てた。自分と家族の健康的な生活を第一の条件として仕事を探すことになるだろう。「働きがい」はその次。
写真は、三菱グループの総本山、丸の内パークビルのファサード。