最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

根津美術館 吹上の井筒

11/28/2016/MON

就活の総括



うつ病を患い2014年末に会社を辞めた。2015年は丸々休養に充て、2016年1月からは就労移行支援事業所に通い、まず毎朝同じ時間に起き電車に乗って事業所に通い、規則正しい生活を整えた。事業所では、ストレスや怒りを暴発しないようにやり過ごす術(stress coping, anger management)や自分の気持ちや主張をうまく伝える方法(assertion)など心理面の訓練を受けた

就職活動をはじめたのは5月下旬。予定より一月遅れた。最初の目標は6月までに内定、7月1日出社。健保組合から支給される傷病手当金は6月分が最終月だったため。

この目標は達成できなかった。結局、就職先が決まったのは10月の半ば。半年もかかった。入社日は12月16日


転職はこれまでに5回経験している。今回の就職活動はこれまでのどの転職よりも苦労した。それは、今回の転職が障害者枠への求職だったためと年齢が40代半ばを過ぎていたため。

一般的な転職でも40歳を過ぎると難しいと言われる。

転職回数も障害になった。終身雇用を標準とする日系企業の場合、人手不足から中途採用をする場合でも転職回数が少ない人を好む傾向がある。

これまでずっと外資系企業で働いてきたので、できれば外資系で働きたかった。新卒のときに日本企業で働いたので、所属意識に重きを置く文化に馴染めないことはわかっていた。


どんなスキルを活かしてどんな仕事をしたいのか。「キャリアの棚卸し」と呼ばれる作業を就職活動中、何度か行った。

約20年、営業職をしてきたものの、好きでもないし、スキルもない。40代半ばとなれば、得意先の上層部や出世頭と人脈ができていないといけない。そういうことはまるでできていなかった。交渉事は苦手で、接待も嫌だし、ゴルフもしない。営業職はもうしたくない。

その反面、自己分析すると社内での意思疎通はうまくできていた。生産部門やマーケティングなど本社の各部門や、台湾や中国にある生産拠点の人たちとはどの会社でも良好な関係を築くことができていた。

社内で認められることが多かったのは、きちんとした英語を身につけていたからだった。

海外にある本社や生産拠点と日本の営業部門との意思疎通を支援する部署。「キャリアの棚卸し」から見つけた希望の仕事はそういうものだった。


希望の職種は想像することができたけど、そういう求人はなかなか見つからなかった。

そもそも障害者枠にある求人はデータ入力や書類整理など、事務補助的なものがほとんど。専門的なスキルを求める仕事はほとんどない。

目標の6月末までに仕事が見つかりそうにないとわかると、事務補助でもいいから早く仕事を見つけたいと思うようになった。

ところが、事務補助をするには、私は年齢が高すぎ職歴が豊富過ぎた。企業が想定している精神の障害者は、年齢が若く、職歴も少なく、簡単な事務作業しかできない人で、かつ、それに見合う給与で満足できる人だった。


精神疾患、とくにうつ病を患うビジネスパーソンは増えている。若者だけでなく仕事の責任や重圧が高まる中年層でも増えている。ところが、受け入れる企業側で準備ができていない。精神疾患や発達障害などの知的障害は一人一人、症状が異なることがまず企業側をためらわせる。

そして、外から受け入れる前に、社内ですでにうつ病の人がいて、彼らの処遇に困っているという現状もある。言うまでもなく過労状態が日常化していることがそういう現状を作っている。


ここで今回の就活の統計を書いておく。

ほとんどが門前払いだったことが一目瞭然。

書類選考で次々落ちて失望していた頃、ハローワークの職員の一人が言った。

最初はダメなもの。たくさん落ちて、もう就職活動もやめてしまおうかと思う頃、なぜか書類選考が通って面接が増えてくる。なぜかわからないけど、皆そういう風に決まっていくよ

そのときは、励ましの決まり言葉と受け止めていたけれど、結果的にその職員が言った通りになった。

10月に入り急に書類選考が3社で通過し、入社することになった会社は、応募から書類選考、人事面接、受入部門の面接まで立て続けに入り、応募から3週間後に内定を出してくれた。


病気による退職から再就職に漕ぎつけるまで、何度も感じたことがある。それは適切な情報を入手することと適切な助言者と支援者を見つけることの大切さと難しさ。

いま、日本には病気により休職や退職を余儀なくされた人に対してさまざまなセーフネットや支援制度がある。ところが、そうした支援をワンストップで得られる場所はない。一つ一つ、管轄する機関が異なり、申請にも手間がかかる。表立って宣伝していないので、自分から進んでいかないと見つけられない制度も少なくない。

単に行政が縦割りだからということではない。「餅は餅屋で」と言うべきか、それぞれに担っている業務が違う。

気持ちが沈んでいるときに、役所を回り提出書類の細かい記入欄を埋めるのは辛い。そうしたときにも、上に書いたハローワークの職員のように、うまいタイミングで励ましてくれる人がいるとありがたい。

  • 病気と体調は病院
  • 規則正しい生活習慣と復職の心構えは、就労移行支援事業所
  • 障害者手帳や治療費の公的支援は保健所
  • 求人検索はハローワークと民間の求職サイト
  • キャリアカウンセリングと応募職種の相談は「東京しごとセンター

複数の人から助言をもらうと助言の信頼度が上がる。

うつ病の患者は猜疑心が強いと言われる。だから、「元気そうですね」という言葉も一人だけに言われてもただの挨拶にしか思われない。それが、同じ日に別な人に「顔色がよくなったみたいです」と同じようなことを言われると「ほんとうにそうなのかも」という気にもなる。

うつ病患者は、自分に自信がないから、おだてられると素直に喜ぶ。結果としてそれは回復に寄与する。


それぞれの場所で、多くの人に励ましの言葉をもらった。特に印象に残っている三人について書いておく。偶然、三人とも頭文字がHだった。

一人目のHさん。最初に面接まで漕ぎつけられた会社の採用担当者。きっかけは民間の人材企業が主催した集団面接会。一人5分程度しか持ち時間のない場で私の自己アピールを拾ってくれた。

職歴や自分で思う長所短所など、定石通りの質問をしたあと、その人は言った。

面接しておいておかしいけど、あなたにふさわしい仕事はこの会社の障害者枠にはない。でも、きっと適職があるはずだから妥協しないで就職活動を続けてください。

この言葉は、職歴とスキルに自信を取り戻しはじめるきっかけになった。


二人目のHさんは、東京しごとセンターのアドバイザー。長年、人事や採用をしてきた初老の男性。腰が低く、人当たりもやわらかい。でも、相手の長所から短所、その日の気分まで見抜いてしまう眼力も持ち合わせていた。

この人は励まし上手だった。

面談では「顔色がよくなってきますよ、いい感じです」、応募書類を推敲すると「方向が見えてきましたね」、書類選考が通れば「一歩前進です、近づいてます」、面接まで進むと「いい方向に進んでます、焦らず進めましょう」と会うたびに具体的な助言で背中を押してくれた。

もう一人、きっとこれから忘れることがない三人目のHさん。最後に面接まで進んだ2社の内、内定をもらえなかった会社に私を推薦してくれていた。

二次面接の日取りが決まらないまま、就職先が決まったことを知らせに行くと、会った途端、「ごめんなさい、進展がなくて。先方には毎日、問い合わせしてるんだけど」と頭を下げた。「実は別のところで決まりました」と伝えると、「よかった、よかった」と両手で私の手を握りしめて喜んでくれた。そのとき、その人は目を潤ませているようだった。


障害者の就職活動は福祉の面もあるので、もともと世話好きな人が多い。三人目のHさんは世話好きを越えてお節介なほど応援してくれた。職種の選定から応募書類の添削、面接前には想定問答までしてくれた。余りの過剰応援に嫌気が差してぶつかることもあった。

衝突は、相手の要求を断ったり自分の要望を伝えたりする、意思疎通トレーニングの実践になった。これは意外な収穫だった。思い切って言いたいことが言えたのは、相手も真剣に向き合ってくれていたからだろう。

三人目のHさんは、高校時代に憧れていた年上の人に似ていた。きっと年下なのだろう。いつまでたっても出会う女性は皆、年上に見える。


今夏のリオ・オリンピックで、「応援してくれた皆に感謝します」というメダリストの言葉を何度となく聞いた。

そのときは、五輪でメダルと取るような選手は、もはや一人で練習するアマチュアではなくて、コーチのほかにも練習相手からトレーナー、栄養士まで揃えたプロフェッショナルなのか、という感想しかもたなかった。続けて聞いているうちに、野暮ったい常套句と思うようにもなった。

しかし、こうして半年間の就職活動を終えてみると、今の気持ちはメダリストと同じ言葉でしか言い表せない。

的確な情報と助言を提供してくれる支援者がいなければ、障害者枠での就職はできなかっただろう。

人は人と人とのあいだで病気になる。けれども、人と人のあいだで人は病気から回復もする。まだ寛解とは程遠いものの、就活に関しては素直にそう思う。

支援、応援をしてくれた皆さんに感謝したい。
ありがとうございます