最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

旧早稲田教会

1/31/2016/SUN

戦争に抗する——ケアの倫理と平和の構想、岡野八代、岩波書店、2015


個人からはじまる国際政治

岡野八代の著作を読むのは、『法の政治-法と正義とフェミニズム』を10年以上前に読んで以来。そのあいだに上梓された、主にフェミニズムと政治思想を扱った本は読んでいない。それでも、『法の政治』から『戦争に抗する』には一貫した主張があると感じた。それは、「個人からはじまる政治」という考え方。

政治学、とりわけ国際政治学では、国会議員、国家、国際機関、NGOなど、個人個人の上にいる、あるいは、個人個人を包み込んでいる組織を行為者として考え、それらの関係から平和や経済問題を議論する。そこでは、生き方も生活環境も、文化基盤も異なる、ひとりひとりの人間は国民、あるいは市民という名で括られている。問題が地球規模になるほど、議論はマクロ的で大理論になりがち。

『法の政治』で、本来、普遍的な判断を目指す法でさえ、現代では国家や政府の影響を受けていることを批判した。そもそも政治学のはじまりは、古代ギリシアにおいて個人(といっても、ごくわずかの男性の有資格者)が、どのように社会に関わるべきかを議論する学問だった。


『法の政治』の結語で著者は、肥大化して、個人を見下ろす視点になってしまった政治学を再構築し、ひとりひとり(著者は、女性一人一人を強調する)に起点を置く政治学を構想することを目指すことを宣言していた。その宣言に対して、私は期待を込めて感想文を書いた。

本書のそうした試みは、政治学の原点に立ち返り、政治学の再構築をも試みようという壮大な構想の第一歩となるだろう。世界を鳥瞰するという意味では、最も個人からかけはなれたアルキメデス的視点に君臨する国際政治学に対する批判や再構築の試みもやがて登場するだろう。
感想文『法の政治-法と正義とフェミニズム』

本書は、国境を越えた国際政治学の構築を目指している。その点は、図らずも著者の仕事に期待していたことだったので、初志からさらに鋭く、深く問題を探っていることに感嘆しつつ、興味深く本書を読んだ。国際政治に対する視点を岡野は次のようにまとめている。

そもそも、現代の民主主義国家が個人の尊厳を尊重するために存在しているのだとすれば、原理的には——それぞれの国籍法によって規定されているとはいえ——<わたしたち>は、尊厳ある諸個人すべてである、としかいえないのではないだろうか。おそらく潜在的には<わたしたち>とは、すべての個人であるはずだ。
(第8章 第3節 決定不可能な<わたしたち>)

政治学は一人を起点にしなければならない。そして、思想もまた、一人の生き方に根ざしていなければならない。ここで政治と思想が交差し、政治思想が生まれる。より正確に著者の意図を汲めば「政治思想が再生」される。


国境を越える民主主義——失敗と成功

一人一人を起点とする国際政治。そのような著者の意図を汲み取れば、「国境を越える民主主義」と言い換えることもできるだろう。本書は、その実践として失敗例と成功例を挙げている。

失敗例は、9.11以後のアメリカのフェミニストたちの動き。女性という立場で連携する方策もあったのに、ほとんどのアメリカ人女性はアフガニスタンを敵国と決めつける政権の意向に取り込まれてしまった。武力行使に積極的でなくとも、アフガニスタンを「遅れている」「非民主的な」国家とみなし、「民主主義」を教えてやると企図する「善意の植民地主義」に陥ってしまった。


成功例は、「wam」(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」)。

いわゆる元従軍慰安婦の人たちの解決のために、政府は「女性のためのアジア国民基金」を設置した。しかし、著者によれば、「国民基金」は「政治的な妥協の産物」であり、被害者が要求する「法的責任」を認めるものではなかった。

「国民基金」とは別に、ジャーナリストや研究者を中心に、元慰安婦の名誉回復と支援、そして政府への謝罪の要求を目的として「wam」が創設された。日帰りで行ける所にあるので、読後に「wam」へ行ってみた。

本書が詳細に紹介しているように、この資料館では、被害者一人一人の尊厳が大切にされている。壁一面に貼られた写真と苦悩の半生は、問題の広さと深刻さを教えた。「慰安婦問題」について、新聞記事程度の知識はあっても、これほど広い地域で、これほど非道な行為が日常化していたとはまったく知らなかった。

確かに「wam」の活動は、被害者の名誉回復を「国境を越えて」訴えている。


「反」暴力と「非」暴力

論点の多い本書のなかで、とりわけ私の興味を引いたのは、「反」暴力、「修正的正義」そして「和解」という三つの概念。

政治権力の暴走に対抗するために、市民にはいくつかの選択肢がある。「非」暴力は、かつてインド独立や黒人公民権運動で実績を挙げた。

岡野は、「非」暴力を「あたかも自分だけが暴力から距離を置き、暴力を誘発しがちな複雑な権力構造とは無関係であるかのような態度」であるとして批判する。その代わりに、「社会構造の布置を積極的に変革していこうとする」実践として「反」暴力を提唱する。

「非」暴力が消極的な態度であるという指摘には一定程度同意する。しかし、その一方で、「反」ということは、反対する相手と同じ土俵に立つことを意味する。それは現実政治に巻き込まれることを意味する。「反」・暴力は、相手の暴力に対抗するため、別の形の暴力になりかねないことを懸念する。

岡野は、人々が「この世界」で共存するために、「きずつきやすさ」(vulnerable)という概念を重視する。私は、「きずつきやすさ」と同時に「きずつけやすさ」(harmful)という概念も忘れてはならないと思う。社会に生きるということは、常に誰かを傷つけ、押しのけていることを意味する。宗教的な言葉を借りて、「人とは原罪(sin)を内に秘めた社会的存在」と言い換えることもできるだろう。

人間は「きずつけやすさ」から逃れることはできない。例えば、東京の人が使う電気は福島にある原子力発電所で作られていた。その原発が重大な事故を起こし、周囲の住民は避難を余儀なくされた。東京の人が福島の人を、一人一人には、そういう意図はなかったとしても、傷つけてしまった。

「きずつけやすさ」についての記述はないが、人は「きずつきやすさ」と同時に暴力性を秘めていることは岡野も認めている。

自らの喪失感の大きさを表明し、暴力の誘惑に葛藤しながらもことばを紡ぎ、わたしたちの脆い世界を豊かに記述していくなかでしか、暴力に抗する思考と実践は生まれてこないのではないだろうか。
(第10章 戦争に抗する 第3節 身体に根ざした社会の構想へ)

上の文にあるように、「反」暴力が、己に内在する暴力性を常に意識し、その暴発を自ら抑止する姿勢を含むものであれば、「反」暴力を支援したい。己の暴力性に対する自省や検証は常に行われなければならない。


昨年の安保法制闘争の際、ある政治学者が「安倍に言いたい、お前は人間じゃない。叩き斬ってやる!」と言った。これは「反」暴力が別の暴力になってしまった一例。平和憲法を擁護する人が、非平和的で、扇情的で、恐喝的にさえ聞こえる言葉を用いることに不安を感じる。

それゆえ私としては、「反」暴力より、なお「非」暴力を支持したい。直接に政治的でない表現で政治的な示唆を練り込むことは不可能ではない。むしろ、その可能性を信じたい。

少数の人が「反」暴力で立ち上がるよりも、多くの人が「非」暴力の態度をもつほうが影響力は大きいのではないか。キング牧師の「非」暴力と不服従の運動とはそういうものではなかったか。

そして、「平和」を標榜する人や団体が暴力的になったり、テロや内ゲバに堕ちた例は数知れない。暴力によって作られる「平和」は、岡野が想定するデモクラシーや人々が共存しあう理想の世界から最も遠いものだろう。本書も、ホッブズの「リヴァイアサン」を通じて強調している。

「非」暴力の戦術は、不服従という消極的態度だけではない。「あしらう」「かわす」「嗤う」という手段もある。また、政治的なメッセージを発信することだけが政治的な行動ではない。

芸術表現も「非」政治的でありながら、政治的な影響力も持ちうる。言葉を換えると、「自由を」求めることだけではなく、「自由に」表現することだけでも十分に政治的になるのではないか


修復的正義について

過去の出来事、具体的には「従軍慰安婦問題」について、岡野は「修正的正義」という概念で解決を提案する。「修正的正義」はハンナ・アーレントが、全体主義の解決方法として提唱した「和解」という概念とほぼ同義で使われている。

アーレンとは和解を論じるさい、ドイツ人を赦す、あるいはドイツ人が赦される、といった議論をしない。被害者、とくに組織的犯罪、国家的犯罪、つまり構造的な暴力に巻き込まれてしまった被害者の和解にとって重要なのは、何よりも、なぜこうした前代未聞の犯罪が起こり得たのかを構造的に明らかにすることだからだ。
(第3章 修復的正義 第3節 修復的正義と和解)

「和解」と「反・暴力」は、どのような関係にあるのか。目前の権力の暴走には「反」暴力で抗い、過去の権力の暴走については、制裁でなく、「和解」もしくは「修復的正義」で解決するということだろうか。二つの概念の連関が、一読した限りでは私にはわからない。

「和解」に賛同するのであれば、目前の出来事に対しても、「和解」するアプローチがあってもよいのではないか。「非」暴力の可能性が、そこにある。いや、あってほしい、という希望かもしれない。正直なところ、現代において、「非」暴力の可能性に楽観的にはなれないから。

目下のところ、自分自身がかなり厭世的な雰囲気のなかにいるので、「この世界」のあり方について肯定的に議論することがなかなかできない。


国境を越える民主主義の担い手——平和教育、リベラルアーツ、ケアの倫理

本書は「わたしたちの具体的な生を代表するような政治のしくみを市民の力で組み立てていうことが求められている」という一文で締めくくられている。ここでいう「市民」とは、どのような人で、どこにいるのだろうか。

新しい政治のしくみを創る市民は、著者が列挙している諸概念——きずつきやすさ、ケア、「反」暴力、修復的正義、和解——を理解し、実践できる人でなければならない。現時点で、そのような人はけっして多くはないだろう。それゆえに民主主義が危機に直面しているのだから。


本書の結語から、次のステップとして、三つの道が考えられる。平和教育の再構築、リベラルアーツの復権、そして、フェミニズムの政治思想の発展。

1. 平和教育の再構築

本書の議論に従えば、戦争の暴力とDVとの間には連関がある。一人一人の人間が暴力性を内在しており、人々が社会を作り、組織や国家を作ると、ときとして個人の暴力性が積算されて巨大になる。逆もまた真なり。国家が戦争するとき、個人の暴力は倫理から逸脱し増長する

ところが、日本における平和教育は、「戦争は悪い」という単純で薄い思考を土台にしている。人が本質的に持っている暴力性が、戦争やテロリズムに繋がるという視点は欠けている。平和憲法が教えられている学校で、いじめ体罰が横行している事実がそれを物語っている。

だから、「一人の「きずつきやすさ」に始まる国際政治」を問うた本書の次には、「一人の「きずつけやすさ」に始まる平和教育」が議論されてほしい。


2. リベラルアーツの復権

本書を読んでいるあいだ、マーサ・ヌスバウムの仕事が思い浮かんだ。

ヌスバウムは、「ある国の国民であることと世界市民であることは矛盾しない」という考え方をしている。岡野も、政治権力の暴走を懸念しているのであり、主権在民の原則に基づく政治権力そのものを否定しているわけではない。

問題は、主権をもつ一人一人が、「平和な心をもつ人間」で「平和をつくる人間」であること。

ヌスバウムは「想像力を養う文学と芸術」の必要性を訴えている(『経済成長がすべてか?』)。彼女の仕事を整理した神島裕子はヌスバウムの思想を「人間性涵養の哲学」と名付けている。

ここで、昨今、議論になっている人文学教育の必要性が積極的に求められる。人文学教育がなければ、実学は成り立たない。もう一歩踏み込んで、荒川洋治にならい、「文学は実学」と断言したい。

世界市民教育は、平和教育よりも幅広く、奥も深い。政治思想に加えて、国際交流のあり方や教育学、格差社会の是正を提案する社会学経済学とも連携していくのだろう。


3. フェミニズムの政治思想の発展

おそらく、岡野が進もうとしているのは、この道であろう。博士論文を基にして『フェミニズムの政治学』という著作がすでに上梓されている。

フェミニズムに関しては、基礎知識もないので、今論評できることはない。

『フェミニズムの政治学』は浩瀚な著作なので、読解に苦慮している。目次を見てみると、国民国家に取り込まれた「家庭」の再構築を模索している。この論点は、これまでの読書をたどると、鷲田一清『「聴く」ことの力』と接点がある。

「ケア」という概念は、「聴く」「待つ」、「臨床哲学」など、鷲田の書くものにしばしば登場する概念と同一線上に見ることができるだろう。

「ケア」という言葉は、和語に訳すとどうなるか。「いたわり」か「かかわり」か、「いつくしみ」か。これは私の宿題


久しぶりに政治思想の本を手に取り、興味深く読んだ。


写真は、「女たちの戦争と平和資料館」のある早稲田奉仕園内にある旧早稲田教会。


2016年2月1日追記

2016年2月18日追記。

岡野は「反」暴力が、新たな暴力になる危険性を、本書に先行する『フェミニズムの政治学』(みすず書房、2012)の「終章」で指摘している。

暴力のあとで、対抗暴力に訴えるのではなく(それは、さらなる暴力を惹起することに他ならない)、むしろルディックが「嘆きの母」という、フェミニズムにとってはリスキーな用語をあえて使用したように、嘆き悲しむこと、それが主権国家の暴力を支える形へと回収されないような形で、女性たちが公的な場でその悲しみを示すことによって、暴力と闘う女性たちが世界中にいる。

やや情緒的な表現で、「嘆き悲しむ」ことが、どのように対抗暴力でない、それでいて公権力の暴走に抗うことができるのか、論理はまだ明確とはいえない。とはいえ、ここを出発点として「反」暴力の概念化と定義が積み重ねられていくのだろう。

労作に対して指摘しておきたいことが二つ残る。一つは、女性のすべてが暴力の被害者で、戦争に抗う立場にいるわけではないこと。女性閣僚の登用が増える一方、彼女たちの性格も一律ではなくなっている。好戦的で人種差別的な女性政治家も最近見かけるようになった。岡野は、いわゆる保守・反動・右派の女性政治家たちとどのように関わるのだろうか。

もう一つは、すべての女性が被害者ではなく、また「反」暴力に賛同するわけではないように、男性もまた、「傷つきやすさ」を持っていること。

そして、上述したように、性別に関わらず、人間は「傷つけやすさ」も持っている。つまり、ここから先は男女の区別ではなく、暴力に対して肯定的かそうでないかが問題になるのではないか。

最近は、男性に押し付けられた社会規範を批判的に検証する 男性学という研究分野もある。フェミニズムと男性学は「反」暴力という点で連帯できるだろうか。