X(旧Twitter)に教わった本。アーレントはずいぶん前に『政治思想集成』を読んだ。
アーレントについては大学院時代にも指導教官だった千葉眞先生が専門としていたので関連論文などを少し読んだ。本書でも、先生の訳書であり、アーレントの学位論文である『アウグスティヌスにおける愛の概念』からの引用があった。先生はアーレントの「世界への愛」(Amor Mundi)の概念をご自身のコスモポリタニズムと重ねておられるようだった。
和解(reconciliation)は「世界への愛」だけでなく、理解(understanding)とも密接に関わっている。著者の言葉を借りれば、「生きづらい」世界を理解し、それと和解する、ということになる。和解と理解は重なるところもあり、「和解という意味での理解」(understanding in the sense of reconciliation)という表現もある。
著者によれば、アーレントの説く和解とは「世界の中で安らおうとすること」(to be at home in the world)を意味する。また、和解とは一度きりの行動や静的な状態ではなく、永続的な行動を示しているという。
私の言葉で言い換えれば、「心の平和」を保つ、ということになるだろうか。
著者が詳述しているこれらの議論に異論はない。問題は、自分自身の実生活の中でいかに理解を実践し、どのようにして和解に近づいていくかということだろう。
かつて、私はアーレントの理解について、賃金労働者の日常的な行動になぞらえて考察したことがある。抽象的な議論を、できるだけ実生活に近づけたいと考えていたから。2003年に書いた文章を引用しておく。
アーレントの書評についての続き。全体主義に対する五つの態度を、賃金労働、サラリーマン生活のなかで具体的に考えてみる。
何の疑問も抱かず働き、せいぜい赤提灯で管を巻いて憂さを晴らすだけというのが、埋没。賃金労働を自己実現、自己表現と積極的に受け止め、そこで金銭的な対価だけでなく、満足できる「仕事」をしようと努力するのが、適応。組織的な労働運動や政治運動に受動的に参加したり、宮仕えに嫌気が差したという理由だけで、起業したり、自給自足の田舎暮らしをはじめたりするのが、抵抗や逃走。
このあと山口瞳の文章を引用して、サラリーマン生活における理解とは、過剰労働を拒み、定時に退勤することと私は書いた。
さらに続けて、多勢が残業しているなかで一人だけ定時退勤することは孤立を生むかもしれない、理解とは孤独な行動と結んだ。
実際私は、一方でビジネスパーソンとして成功する野心を抱えながら、他方で家族と自分のために時間とエネルギーを確保しようと腐心した結果、両者の板挟みとなり心身を壊した。
理解を実践することは容易いことではない。従って、世界と和解することも容易ではない。
「世界への愛」を持つためには「自分への愛」がなければならない。自分も愛せない人が世界を愛せるはずがない。もし、できたと誰かが思っていたとしても、それは「人間のいない世界」への愛に終わる。
しかし、「自分への愛」(自己肯定感と言ってもいい)を持つためには、「世界への基本的な信頼感)(中井久夫)がなければならない、という循環論に陥いる。
「世界への基本的な信頼感」は、どうすれば獲得できるか。生まれたときから自然に身につける人もいるだろう。また、厳しい死別体験などを経て大きな喪失感をもち、「世界への基本的な信頼感」を失う人もいるかもしれない。
いずれにしても、私に欠けているものなのでわからない。
現在は「過去と未来の間の裂け目」にあるというアーレントの時間に対する考え方も興味深い。
現代は「伝統」が廃れている時代。過去とは断絶している。そこで未来に活かす教訓を得るためには、「真珠取り」のように深く潜り過去の遺産を掘り起こさなければならない。その考え方はよくわかる。
ここで疑問が二点ある。一つめは、「真珠取り」は、歴史を深掘りする者の恣意的な漁にはならないか、ということ。何が未来へ遺贈できる貴重な宝物となるか、何が現状を追認する捏造された証拠になるのか、誰がどのように判定するのだろうか。
ここで詳述はしないが、「噴出する思い出」という丸山眞男の歴史批判の言葉を思い出す。狩猟者が自分好みの、つまり、自分の歴史観に都合のいい事実だけを採取していては伝統の回復などできやしない。実際、こういう恣意的な事実の取捨選択はよく行われている。
もう一点は過去の対象について。アーレントが歴史という時、国家や民族など大きな括りの歴史を想定しているようにみえる。それに加えて、個人史を冷静に回顧することーー過去相に生きることーーも、同じように重要ではないかと私は考える。なぜなら、人類や民族、国家とは、個人が集まりなのだから。アーレントが使う「人間の複数性」という言葉は、集団が個人により構成されているという見方になっていて、一人一人の集まりが集団をつくるというボトムアップの視点になっていないように見える。これは私の印象に過ぎないかもしれない。
最終章は、アーレントの文学理解について書かれている。アーレントは、文学を世界と和解するために重要な武器になる。この点、人文学が軽視される昨今の大学事情に対する批判と読むこともできる。「文学は実学」と繰り返し主張する荒川洋治とも接点があるように思う。
アーレントは『彼』と題されたカフカの寓話が「光線のように出来事の側面や周囲を照らし出すが、かといって出来事の外形を照らし出しているのではなく、出来事の内部構造を暴き出すX線のごとき力をもつ」という意味で「真の寓話」であると述べている。(第7章 世界と和解する)
この言葉はすべての優れた文学作品について言えると思う。私は以前、優れた小説は現実を誇張してみせる拡大鏡ではなく、現実の一部分を描くことにより針穴を通して普遍的な世界を見せることができると書いたことがある。
この点でも、アーレントと著者の主張に異論はない。
ところでアーレントが、また著者が文学というとき、それはどのような作品を指しているのだろうか。
編集され、校正され、印刷され、流通される商業作品のことを指しているのだろうか。
それとも、専門的な編集も校正もされず、ネット上で発表されている無数の作品も「文学」とみなすのだろうか
昨年、重度の身体障害者が、健常者の読み手としての特権的位置を批判する作品を発表して話題になった。同様に、書き手も特権的位置にいることを自明として意識していないように、私には見える。
SNSでの自著の告知を見ていると、商業作家や研究者は編集、校正、装丁などの専門家による特殊な工程を経て流通されていることを当然のようにとらえているように感じる。これは専門家の助けを得られないモグリの作家の僻みだろうか。
「序 世界との和解のこころみ」で著者はアーレントの次のような言葉を引用している。
私にとって、書くことは、この理解をめざすことに関わっています。書くこともまた、理解のプロセスの一部ですから
この言葉を読むと、公刊されるかどうかには関係なく、書くことそれ自体に価値があるとアーレントは考えているようにみえる。誰にも読まれないネット上のブログや日記でも、考えながら書くことが、理解へ、さらには和解へのプロセスとなると信じたい。
最後に、最近のユダヤ人に置かれている状況について。
ナチスによるユダヤ人迫害を「人間という概念を根絶する試みが組織的に行われた」ものと批判するアーレント。
それでは、イスラエルが国際世論の批判に応じることなくパレスチナを「根絶する試み」を行っているガザ地区の現状を見たら、「被害者であるユダヤ人」であったアーレントはどんな言葉を発するだろうか。
いま、ガザ地区において、「世界と和解する」試みはどうすることだろう、と彼女は考えるだろうか。
さくいん:ハンナ・アーレント、千葉眞、山口瞳、中井久夫、荒川洋治、丸山眞男