浮彫としての文章――「烏兎の庭」開園一年を迎えて


個人でウェブ・サイトを開いて一年が過ぎた。ウェブ上で記録や文章を公開するようになってからも一年半が経つ。最初は、図書館での本やコンパクト・ディスクの貸出記録、やがてまとまりのある文章。それでも、しばらくは新聞のコラムなどを真似た社会時評のような文章を書いていた。

それがいつしか、書評でも、本を読んだ感想だけではなく、その本に出会ったきっかけや、読む前に、知る前に抱いていた想像や偏見など個人的ないきさつを書くようになっている。書評以外の文章では、さらに直接的に、自分の内面の状態や思索の過程について書いている。

実のところ、そのような文章を書くつもりは、まったくなかった。内面的な思索について書きたくないからこそ、公開という方法をとって、できるだけ自分の外側にある事柄について客観的に叙述するつもりだった。それがどういうわけか、自分自身の思想について文章を書き、公開することになっている。


これはどういうわけか。いくつかの優れたエッセイと出会ったことが大きな影響を与えていることは間違いない。しかし、そればかりでもない。それらは重要なきっかけになっているとしても、伏線はずっと前から引かれていたように思う。

その起点は、いったいどこまで遡るのかはわからない。いま言えるのは、少なくとも、この一年のあいだ、書くという行為そのものを通じて、書く文章が変わってきたということ。書くということは、思っていた以上に、不思議な性格や、見えない力をもっている。それだけはわかってきた。

文章を書き始める前に、「書きたいことはあるのだが、書けることではない」と私は書いている。にもかかわらず、無機質な記録からはじまった文章は、いつのまにか内面的な事柄や、私的な事情まで書くようになっている。

これらは「書きたいこと」だったのだろうか。そうとも思われない。むしろ、書きたいことはまだ何も書いていないような気がする。それどころか、これまで書いてきたことはすべて嘘のような気さえする。


事実に反するという意味ではない。ほかに書きたいことがあるはずなのに、それを隠して、わざわざ違うことばかり書いている。つまり、書いてきた文章は、すべて虚構ではないか。そんな気がしてならない。

それでは、ほんとうに書きたいことをわかっているのか、というと、そうでもない。確かに、「烏兎以前」の文章を読み返せば、「書きたいこと」が何であったのか、何であるのか、想像することはできる。けれども、奇妙なことに自分自身のことなのに、それはあくまで想像であって、何の確信もない。

一連の「庭」の文章を読む人は、とりわけ私自身を個人的に知る人ならば、想像するかもしれない。私がいう「書きたいこと」はあのことだろう、このことだろう、と。でも、それはすべて的外れのように思う。なぜなら、書いている私自身がまるでわかっていないのだから。


確かに、私の文章には文意だけでなく含意があり、それを読み取ることは可能だろう。しかし文章を書いた、あるいは「書きたいこと」を書かない私の真意は、推測することができても、判定することはできない。言葉を換えれば、推測はあくまでも読み手のスタイルに属する問題であって、書き手の私のスタイルには関係がない。

例えば、最近書いた「一〇一ーーノーカル残像」という随想。この文章は、コンパクト・ディスクに収められたある音楽について書いている。曲名は書かれていない。この文章は、私のある体験に基づいて書かれている。だからモデルとなった音楽は存在する。しかし、文中に書かれていない以上、それが何の音楽であるのか、特定することはできないし、したがってそれを詮索することは、私にとって何の意味もない。

意味があるとすれば、私を含めて、後からこの文章を読む人のスタイルにとって意味がある。つまり、私のほかの文章から、その音楽を推測するのは、読み手の自由ということ。しかしその想像は、読み手の想像であって私の想像ではない。まして私の体験の代替もなければ、体験そのものではさらにない。仮に読み手が私の体験と同じ曲を想像したとしても、それは私の体験を言い当てたことにはならない。初めから書かれていないことを言い当てることはできないのだから。実際、私も読み返すたびに違う曲のことを考える。


文章を書くことは版画の版木を彫るようなもの、あるいは、浮彫を彫るようなもの、近頃、そんな風に思いはじめている。ほんとうに書きたいこと、それは確かにある。けれども今はまだわからない。だからほんとうに描きたいものから遠いところから少しずつ彫りはじめている。

ひょっとしたら最後まで、ほんとうに書きたいことを書くことはないのかもしれない。浮彫とは、そうして外側を彫りつづけた結果、彫りこまれていないところに、ほんとうに描きたいものが浮かび上がらせるものだとすれば。

浮彫では、ほんとうに見せたい絵の部分を彫ってはいけない。文章は浮彫だとすれば、ほんとうに書きたいことを書いてはならない。それでも、書きたいことの輪郭近くに彫刻刀を当ててしまうことがある。遠いところばかり彫っていてもいつまでたっても形は見えないから。

あるいは、書きたいことがわかったような気になったとき、思い切り縁取りの線を切り込もうとしてしまう。そんな時には、間違って彫ってはいけないところに刀を刺すこともある。「庭」という一連の文章を貫く比喩に従えば、誤って裏庭に鍬を叩き込んでしまうようなことがある。


傷口がぱっかり開き、血がにじむ。時には、血が噴き出してくることさえある。言葉は刃物であるということは、単なる喩えではなく、本当のことだと知ったのは、文章を書くようになってからのこと。その傷は、読み手には必ずしもはっきりとは見えないかもしれない。あるいは、私が気づかないうちに刃先が読み手の裏庭を切り刻んでいることもあるかもしれない。

書かれていないことが、書かれていること。この考え方は、実は私がルソーの国際関係思想を学問的に研究しようとしたときの接近法に関わっている。この考え方は、けっして神秘主義的な接近ではなく、言葉の本質を突いていると、今はさらに強く思う。同時に、書かれていないことを研究することはけっしてできないとも、今では思う。せいぜいできるのは批評することだろう。ともかく、ルソーを学問的な対象として研究することからは離れてしまったけれど、書かれていないことが書かれていること、という主題は、自己の思想を浮彫として描くという、より切実な課題となって、戻ってきてしまった。

書くことは、書いていること以外を書かないこと。そして書いていないことを描くこと。言葉遊びのような言い方になるが、私には、少しも奇妙ではない真理に感じられる。一年を過ぎて、文章に対する私の思いは変わった。こんな立体的な、あるいは逆説的な考えは、以前は少しもしていなかった。自分で文章を書くようになり、その習慣を通じて他人の文章や自分の文章を読み返して、文章というものが、これまでとはまったく違って感じられるようになってきた。


それにしても、私が書く一連の文章はどんなジャンルに属する文章だろうか。少なくとも、小説ではない。私的な部分について書いているけれど、私小説でもない。日記でもない。日々の行動はまるで書かれていないのだから。

確かに、ここに書かれている文章は、記録。といっても運動の記録ではない。食事の記録でもない。買物の記録でもない。恋愛の記録でもない。そうした行動面での記録を捨象して、一人でいるときに、炭酸水の泡のように浮かび上がってくる言葉。それをすくいあげた記録。単純で、純粋で、基礎的な思考の記録。

単純、純粋、基礎的、といっても思考そのものがそうなわけではない。思考そのものは複雑で、泥まみれで、場当たり的な現実に埋没して行われている。行うというほど自覚的ではない。もっと自然で、止むに止まれぬ発想。その意味では、私の文章は初稿においてはほとんど自動書記といえる。思いつき、書いてしまう文章。それを他人が書いた文章を添削するように推敲する。

言葉を換えれば、記録は、現実に即しながら現実を離れて、つまり私に密着しながら私を離れて、虚構として記録される。そうして事実を基にした虚構の言葉が、読み返し、書き直すことを通じて、折り返し、自分の外見、運動、食事、恋愛、そうした生活の現実に還元され、生活が変わっていく。つまり、ここに書かれた文章は、私自身の思索を批評の対象にしている。その意味では、私批評といえるものかもしれない。


ところで、書くことは記録すること。書かれたものは、記録されたもの。思想は、英語、フランス語でも受動態のソート、パンセと言われる。書かれたものに完成度が高ければ、作品とも呼ばれる。確かに私も、作品といえるような完成度をめざして、文章を推敲している。

けれども、作品、すなわち書かれたものは、私にとっては二義的なものにすぎない。書くこと、その行為にもっと大きな意味がある。言い換えれば、記録された結果ではなく、記録する過程に意味がある。書いた文章によってではなく、文章を書いているとき、言葉を選んでいるときに、私の考えは変わっている。

文章は、思索の果実を絞った残りかすのようなもの。そう気づいたとき、他人が書いた文章に、救いや模範のような過度の期待をしなくなった。文末が疑問形で終わろうと、断言で終わろうと、思索そのものは、作者自身が飲みほしてしまうのだから。

書きたいことを、書きたいように書く。それがほんとうの自由というものかもしれない。今の私にとっては、書きたいことを書かないでいること、それでいて何かを書き続けることが、心に静けさをもたらしている。そういう自由もあっていいだろう。

そうして私は彫り続ける、あらけずりに、あらけずりに。

こんな表現が、もう指先を切りつけて、ほんのかすかな傷口がうっすらと血をにじませている


碧岡烏兎