デモクラシー(思考のフロンティア)、千葉眞、岩波書店、2000

第9章 戦後日本の社会契約は破棄されたのか――政治思想史からの徹底平和主義、千葉眞、戦争批判の公共哲学ーー「反テロ」世界戦争における法と政治、小林正弥編、2003

政治における正義ーーハンナ・アーレント、報復の正義から赦しの正義へ、千葉眞、共生と平和への道、(聖心女子大学キリスト教文化研究所創立五十周年記念論集)、聖心女子大学キリスト教文化研究所編、春秋社、2005


憲法記念日をはさむ連休に、憲法と、戦争と平和について考えてみた。戦争と平和の問題は、ずっと気になっている。おそらく、小学校の授業で聞いた空襲の話とテレビで見た映画『トラ・トラ・トラ』がはじまり。戦争を拒絶する気持ちと戦記に高揚する気持ちが、はじめから混ざり合っていた。

関心をもって集中的に本を読んでみたこともある一方、戦争を間近に経験していない自分のなかでは、戦争と平和の問題が単なる知的好奇心以上にはなかなかならないでいた。それ以外にも、自分をとらえている問題は少なくない。戦争を知らない身には、日常生活だけでも、戦争のように感じられる。

自分が抱えている内面的な問題と、外側にある戦争と平和の問題とが無関係に並存していること。それは自分の矛盾であると思っていた。実は、それこそが、憲法をめぐる問題の一端を示しているような気が最近になってしている。


戦争と平和についての本というと、新聞の書評に紹介されて富岡幸一郎『非戦論』(NTT出版、2004)をしばらく前に読んだ。平和の概念をキリスト教的な終末論と関連させ永久平和は人間にふさわしくない、だから平和とは、政治という人間的な営みによって不断に試みていくもの、という考え方を富岡は展開する。

この基本的な発想に共感する一方、本来異質な原理や精神をもつ他者との関わりを前提とする政治と、同質な仲間を求めていく宗教やナショナルな意識を未分化のままに進める議論には、違和感が残った。

同じようにキリスト教の背景をもちながらも政治思想史を専門とする千葉は、もう少し学術的。政治学や政治思想史になじんだ私には冨岡の文章よりわかりやすい。最近の千葉の論考のなかで興味を引いたことが二点。一つめは、日本国憲法の平和主義に明治維新以降の政治思想の水脈を見ること。


現行憲法をめぐってはとかく、押しつけだったかどうか、当時の国民が受け入れたかどうかという同時代的な見方ばかりされがち。こうした考えに対して、千葉の見方は長い視野をもつ。

中江兆民、内村鑑三、石橋湛山、矢内原忠雄、丸山眞男、田畑忍。こうした日本語で政治と平和について考えてきた人々のなかに、後に、いわゆる平和憲法に結晶化する考え方が蒔かれていたと、千葉は指摘する。日本国民は戦争に負けたから押しつけられた憲法を受け入れたり、戦争に辟易したから極端な非戦主義に飛びついたりしたのではない。そこには受け入れられる土壌があったのであり、その意味では日本国憲法は明治以降の日本政治思想の一つの到達点と見ることができる。

もう一つ興味を引いたのは、徹底的平和主義という考え方。これもまた、明治以降の政治思想の蓄積(あるいは伝統といってもいいかもしれない)から導き出される。しかし憲法の受け止め方は、高度成長と冷戦下の局所的な安定の下では、自分だけは戦争に関わらないという一国平和主義や、戦争にかかわる一切を拒絶する「決議論」に固定した絶対平和主義の傾向を帯びていた。

これに対し徹底平和主義という考え方は、国家の安全保障といういわゆるハード的な視点ではなく、国民の平和的生存権という国家のソフト的な面に根拠をおく。そこから軍事力をもつかどうかという押し問答ではなく、国のなにを守るのか、どのようにそれを守るのか、誰がそれを守るのかという根源的な問題につながっていく。


最近、憲法論議は以前にもまして盛んになっている。盛んになっているということは、それだけ改憲への道筋が引かれはじめているということでもある。この初めに何かの答を決めておいて議論をするふりをしている気配が、どうにも気に入らない。また、改憲が現実的であると感じられているために、議論は法律論や制度論へ強く傾斜している。つまり、変えることがほぼ前提にあり、理念の話はあくまでも各論を支えるレトリックの役割しか与えられてない。とりわけ改憲を促す人は、軍をどうするかという制度論への諾否を求めることで、相手を改憲の各論に引き込もうとする傾向がある。

憲法は、国の礎であると同時に、政治思想の公的な表現であり、歴史的な文書でもある。国とは何か、平和とは何か、人権とは何か。そういう基礎的な概念を定義する場でもある。通俗的な理解だけで議論を進めると、現状を追認するだけになる。この点、千葉は、憲法を社会契約の基礎とみなしている。

(前略)憲法平和主義がターニング・ポイント(行き詰まりゆえの転換点)にさしかかっているという今日のポピュラーな言説は、憲法平和主義の原理を再確認し具現化するために、その同じ社会契約をもう一度結び直し、再履行するためのターニング・ポイント(好機としての転換点)にさしかかっている、と解釈し直される必要があることになろう。(5.徹底平和主義の将来構想、戦後日本の社会契約は破棄されたのか)

改憲と同じように人々の意見を二分している問題はほかにもある。たとえば、安楽死の問題。心臓が動いていても、ある状況にあっては人間的に生きているとはいえないと考える人がいる。その一方で、どんなに苦しく、また困難な状況であっても、人には生きる権利があると考える人もいる。どちらの立場も、極限の状態について徹底的に考え、議論をしている。


人には命がある。命を失えば、人は死ぬ。その命とは何か、という点だけでも議論は尽きない。では国は、どんなときに国の名に値しなくなるのか。国がなくなったとしても、最後に残るものは何なのか。そういう問題よりも、健康でいる間に何を楽しみ、どんな仕事をしようか、そんな議論しかされていない。

それは、憲法が抽象的な問題を含む一方、それをとりまく政治の世界では答を即座に求める切迫した状況が続くからに違いない。それだけに、誰かが抽象的な議論を続けていないと、切迫した現実に引き込まれていく恐れがある。

私自身は、憲法に対して明確な意見をもてていない。例えば、いま軍備をどうしたらいいのかについても、明確な意見をもっていない。正直なところ、どちらでもいいとさえ思っているかもしれない。ただし、軍事力を持つにしても持たないにしても、社会契約の基盤として、思想としての根拠を明確にしてほしいとは思っている。大切なことは、どちらになるとしても、その結論が説得力をもつか、自分が納得できるかという点にある気がする。


「ふつうの国」という言葉で再軍備を正当化してほしくはない。かといって「この憲法がこの国に平和をもたらしてきた」という理由で現行憲法に固執するのもどうかと思う。軍備がなくても、世界の人権、経済、環境に対して日本国や日本国民が与えた影響は、けっして貢献ばかりではない。その意味で今の日本国憲法は役割を終えたどころか、まだ何の達成もしていない。

平和とは何か。憲法を国家の基本法だけでなく、政治思想の表現や社会契約の基礎とみなすとすれば、国が交戦状態にないことだけを示すものではない。とはいえ、基本的人権という法律の概念だけで語りきれるものでもないだろう。

どのような人間が憲法を生み出し、また運用していくのか、いってみれば平和を生み出す人間観のようなものがなければ、徹底的平和主義という言葉でさえも、政治や法の概念に吸収されかねない。


確かに思想という言葉には、二つの面がある。制度を支える理念、いわゆるグランド・デザインという面と、制度をつくる人間像、広い意味でのモラリティ、人間観という面と。私がいまの憲法論議に不満が残るのは、人間観が欠如しているからだと思う。それがないから、どうしても器だけの話に聞こえてしまう。

自由という概念一つとっても、千葉は、中江兆民の考えを引きながら、「各人の個人性と道徳性の存立根拠であり、その意味で自治としてのデモクラシーの精神的な根の営みである」と述べている(Ⅱ デモクラシーの徹底化にむけて、1.J.-J.ルソーと中江兆民のリベルテ・モラル論、デモクラシー)。民主的で平和的な憲法をつくりだすためには、まず民主的で平和的な人間が生れていなければならない。

ところが、さまざまな社会的・経済的な問題がある世の中に人々は生きている。そのなかで私を含めて多くの人々は、憲法を活かしてよりよい社会をつくろうと思うどころか身のまわりの出来事に疲れた自分の心の傷が癒されることばかり願っている。そこへ早く決めなければ大変なことになると囃し立てて外枠の話を急かされたところで、あまりいい結果が得られるとは思えない。


千葉は、ハンナ・アーレントを引きながら、人間とは、「生れきたるもの」という(三 むすびにかえてーー政治における正義と存在論的自由、政治における正義)。日常に埋没し、身のまわりの小さな出来事に心を傷めるばかりの人間は、どのように憲法を生み出し、国を守ったり、社会を育てたりできる人間に生まれ変われるのだろうか。

政治思想という学問は、このような状況にあって、教育的な役割を果たせるのではないだろうか。政治思想は、非政治的な領域から政治的なものへ光をあてるレンズのようなもの。さまざまな関心や問題を抱える個人個人の日常生活から、他人と暮らすために決め事をする政治の世界に対して焦点を絞る。

また、政治思想は非政治的な領域から政治へのフィルターにもなる。個人的な嗜好であったり、信仰であったり良心であったり、直接他者と交流させることのできない思いを他人にわかり、理解を求める政治的主張に濾過する。

何の学問でもいい。学問でなくてもいい。そういう刺激をあたえてくれる言葉や表現に出会いたい。久しぶりに読んだ学術論文は、気軽に読めるものではなかったけれども、戦争と平和、政治と人間、そして、自分自身のなかでずっと眠らせていた政治思想に、再び向き合うきっかけを与えてくれた。