最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

Los Gatos

11/26/2017/SUN

シリコンバレー - 軟弱者の夢の跡


過日、NFLのサンフランシスコ49ersが名前はそのままで本拠地をシリコンバレーに移したと書いた。書いてから、「シリコンバレー」という言葉を、しばらく使うことも思うこともなかったことに気づいた。

営業職をしていた1996年から2014年まで、5社で働いた。そのいずれも、シリコンバレーに本社か、研究や製造の拠点がある会社だった。3社は本社があり、私自身、出張したことがある。

1社は本社は南カリフォルニアにあり、サンノゼに工場があった。ここも行ったことがある。残る1社は本社がアリゾナ州にあった。本社には一度行ったものの、シリコンバレーにある部門へは行く機会はなかった。

18年間、シリコンバレーと関わっていた。いま、客先を訪問することもなく、まして海外出張もない業務についていると、シリコンバレーと関わっていた18年という時間は長い夢だったように思えてくる。

シリコンバレーとは、私にとって何だったのか。シリコンバレーから離れて3年を経た今、「夢」という言葉を通して考えてみたい。


憧れのアメリカという夢

高校生の頃からアメリカは憧れの場所だった

大学時代には一人で旅行もした

2002年、シリコンバレーに本社を置く企業に転職してからは、ラスベガスで年始に行われる家電展示会にも何度も出かけた。

そこへ仕事で行けることはまさに夢の実現だった。

アメリカへ留学する、住んでみる、という夢は叶わなかった。

とはいえ、意に反する転勤もなく、自分で選んだ場所に住み続けていられることは十分幸福と言える。


金持ちになる夢

28歳で学歴も職歴も中途半端な履歴書を出して初めて米系の企業に就職したとき、驚くことばかりだった。

名前は知られてなくても業界では有名な会社。日本支社は小さく社員は数十人でも、日本の大企業を相手に商売をしている。

一人一人のスペースが広く、衝立で分けられた快適な職場。会社からは給料に加えてストックオプションをもらい、会社の業績が上がれば家が買えるほど稼ぐこともできる。

大企業で過重労働をこなし、あちらこちらに転勤や単身赴任しながら暮らす。家を買い、子を大学に行かせるためにはそれくらいしなければならないと思っていた私には、「外資系」の世界は衝撃だった。

一山当てて金持ちになる。いつしかそれが私の夢になった。

この夢は半分叶った。未上場のスタートアップで働き、会社は成功して上場した。

家一軒買えるほど儲けたわけではない。それでも、いま、障害者枠の少ない給与でも何とか生活できているのはこの時の蓄えがあるから。


自分が壊れていく悪夢

シリコンバレーで見た夢はいい夢ばかりではない。

2009年から働いたスタートアップは見返りも少なくなかったが、失ったものも多かった。

精神の健康は最大の損失。もがきながら生死の境目までも近づいた。

5年間の格闘のあと、私は完全に壊れた。

会社を辞め、シリコンバレーの世界からも立ち去った。


過ぎ去った時間としての夢

今、シリコンバレーとは無縁の生活を送っている。彼の地へ仕事で行くことはもうないだろう。

思い返せば、トンデモなく優秀な技術者やトンデモなく情熱的な起業家に会った。貴重な体験だった。

かつて一年に何度も海外出張をしている頃、Kenny G, "Going Home"を必ず聴いていた。初めての海外出張でシンガポールへ飛行しているときに聴いた曲。飛行機で聴きながらいつも思うことがあった。

まだこんな仕事をしているのか、まだこんな仕事をしていられるのか

外資系ハイテク製品の営業職。それは私には適職とは言えない職業だった。志望の仕事でもなかった。偶然見つけ、流されるままに働いた職業だった。


シリコンバレーは、私にとって幾重にも重なる意味で"Fields of Dreams"だった。


さくいん:シリコンバレーアメリカ