硝子の林檎の樹の下で 烏兎の庭 第四部
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2011年10月


10/1/2011/SAT

Mac People (マックピープル) 2011年 11月号――特別付録:Steve Jobs--Keynote History 1984-2011、アスキーメディアワークス、2011

スティーブ・ジョブズがアップルのCEO職を退任した。「硝子の林檎の樹の下で」という題名で駄文を綴っている私でも、何か書いておくことはあるだろう。

毎週買っている「週刊アスキー」にジョブズの講演をまとめた付録つきの雑誌の広告を見つけた。「ハングリーであれ、ばかであれ」という彼の言葉は聞いたことはあったけれど、そのスピーチの全文を読んだことはなかったので、本誌と同じくらい分厚い付録のついた雑誌を買った。

全文を読んでからYouTubeで原文を聴いてみた。「ばかになれ」「利口になるな」などと訳されている言葉は、“Stay hungry, stay foolish”だった。幸せになるのは馬鹿者馬や鹿のようになれ、という言葉は前にも聞いたことがある。


実は、アップルとは少なからず因縁がある。1996年の春、次の目標も定職も失った私はまず職業を探しはじめた。人材紹介会社に経歴を登録し、紹介される会社で次々に面接を受けた。そのとき、最初に内定を出してくれたのがアップルだった。

ところが、当時アップルの経営はどん底にあった。「再建屋」と呼ばれていたギル・アメリオの采配によっても、まだ成長の芽はなかった。結局、数週間後、欠員補充の予算も凍結され、私への内定は取り消された。

アップルで内定していた職種は、営業業務。この内勤の仕事は大学を出てから一年していた仕事だった。内定取り消しから数か月後、アップルと同じ業界とは言えないものの、さほど縁遠くもない、いわゆるハイテク・IT業界に属する米系企業の日本支社に営業職として採用された。

新しい会社で働きはじめてからしばらくして、アップルはNextを買収、やがてジョブズは暫定CEOから正式なCEOとなり、ここからの成功談は知られている通り。私は思いもしなかった営業という仕事に就き、いろいろありながらも同じ業界で同じ職種にずっと留まっている。


企業としてのアップルの特長はハードとソフトの両方を自社で完全に設計していることだろう。さすがに製造は今では中国のEMSに委託しているが、以前は製造も自前にこだわっていたという。さらにコンテンツ。自前ではないものの、iTunesによってコンテンツも供給できるようになった。この三つをおさえていることは大きな強み。

スティーブ・ジョブズがCEOとなってからの製品は、すべてが彼の「作品」と言っていい。日経ビジネスの記事で、会社の規模に対して製品の種類が著しく少なく、それゆえ、あるいは、その理由として、CEOその人がその出来栄え、とりわけユーザ・インタフェース (UI) に深く関わっていることが指摘されていた。

ワン・ボタンのマウス、ホイールを使ったiPodの操作、振るとシャッフルする音楽プレイヤー、マルチジェスチャーのタッチパネル、どれも彼が最初にデモを見せた基調講演を読んでみると、UIの革新がアップルが復活し、躍進した原動力だったと、あらためて思う。

アップル躍進の源はユーザ・エクスペリエンス (UE) の革新にもある。かつてウォークマンがそうだったように、iPod、iTues、そして、iPhoneは、いずれも生活習慣そのものを変えてしまうような革新性をもっている


ジョブズはいわば工房の親方的な経営をしていた。件の記事で比較されていたのは、自分が開発する技術に重きを置いたビル・ゲイツと大規模な組織を経営するためにそれぞれの事業部の幹部に権限を与えて全体を俯瞰することに専心したジャック・ウェルチだった。

ジョブズのスタイルは、日本企業で言えば本田宗一郎に近いかもしれない。

彼が優れた起業家でかつ経営者であったこと、何より新しいUIを創造するクリエイター、イノベーターであったことは誰もが認めるところだろう。


私がいま働いている会社の社長も、ジョブズほどではないにしても、起業家であり、イノベーターであり、他人に対してと同じくらい自分にも厳しい仕事の虫でもある。来日して、比較的機嫌がよさそうなときに、「皆、エネルギッシュなあなたのことをMonsterと思ってますよ」とうっかり口が滑ってしまった。彼はいつも鋭い眼光をさらに睨みつけるようにして、即座に応えた。「スティーブ・ジョブズに比べれば、私など凡人の類いだ」。

ジョブズの才能も厳しさも、シリコンバレーではつとに知られていたらしい。

出入りの業者への要求も厳しいと聞いたことがある。あれだけ独占的なシェアをもった会社であれば、どの会社でも取引したい大きなビジネスである一方、要求される価格や品質、サポート体制も並大抵のものではないことは想像がつく。

客観的に、つまり、遠くから見るだけなら、ジョブズは偉大な人物と言い切ることができる。でも、広い意味で同じ業界の片隅にいる小心者としては、できることならこんな怪物には近づきたくはない。

人物の評価は、つくづく難しい


10/8/2011/SAT

先週書いた文章は、実はジョブズの訃報を聞いてから書き上げた。この文章を書いているのも10月8日ではなく、10月14日の夕刻。私の文章はあとから推敲もしているので、日付が必ずしも脱稿した日ではない。

雑誌“Mac People”を買ったのは9月の終わりでスティーブ・ジョブズについて何か書こうと思い立ったのも訃報を聞く前だったので、追悼文ではなく、CEO退任の報を聞いて考えたことだけを書いた。

スティーブ・ジョブズは、“Stay hungry, stay foolish”と言った。似たようなことを言う人はほかにもいる。桑田佳祐の仙台でのコンサートをテレビで見た。「祭りのあと」で、「粋で優しい馬鹿でいろ」と歌っていた。この部分はずっと「粋で」ではなく「生きて」だと思っていた。

「やさしい馬鹿」になるだけでも難しそうなのに、「粋でやさしい馬鹿」にはどうしたところでなれそうにない。

2009年のサザンオールスターズ30周年記念ライブで見たときよりも(どちらもテレビで、にすぎないが)桑田佳祐が痩せていたのでとても心配になった。


10/15/2011/SAT

火曜日の夜。久しぶりの京都泊。しばらく泊まりがけの出張もなかった。仕事も落ち着いていて、毎晩夕食時には帰宅している。

たまにはこういう時間も必要なのか、あるいは、こんな時間が私をさらに内巻きの螺旋階段を転げるように駆けさせてしまうのか。ビールを呑みながらYouTubeで沢田聖子皆谷尚美のライブを見たりしている。

皆谷尚美は劇場版『カードキャプターさくら』(1999)の主題歌を歌っていた。それ以外の歌を探していてこの夏、図書館のオムニバスの棚で『一番熱かった夏~熱闘甲子園の歌~』(エピックレコードジャパン、2002)で「セピアの日」を見つけた。

2003年から2005年頃まで、ほとんど毎週、関西へ泊りがけで出張していた。ときには一人でホテルの部屋で本を読み、文章を書いたり、ときには仕事仲間と呑み屋をはしごして夜遅くまで新地で過ごしたりしていた。学生時代にたいした「遊び」もしなかった私には、いま思えば、遅れてきた「青春」を謳歌していたのかもしれない

もっとも、それは銭勘定にいい加減な会社で働いていたおかげでできた怠惰な生活だった。結局、その会社は何の資産も残さずに倒産した。

「あの頃」はまだ子どもは幼く、一週間の海外出張から帰宅すると喜んでどうしたらいいかわからず、玄関でひっくりか返ってしまうことさえあった。

10歳を過ぎる頃までの過ごし方が「親」「家族」「家庭」といったことを、その人の根幹に刻みつけるのではないか。

いまからではもうどうにもならない、とういことを最近、とみに感じる。

それは悲観的な観察ではない。私の場合、幸い二人の子が10歳を過ぎるまで一緒に過ごす時間を長く持つことができた。2002年から2003年までは、毎晩読み聞かせた絵本の記録も残っている。

思うに、近づいてきた、いわゆる“反抗期”をどうにかやりすごせているのは、そのおかげかもしれない


2011年11月5日追記。

以前、若い時代だけを「人生で最も輝く時間」と書いた新聞の社説に反発したことがあった。上に書いたことは、そのとき批判した考え方とかわらない。現状維持と思考停止の状態に陥っていることに注意しなければ。

人は、そして家族も、いくつからでもやりなおせる、希望を込めて、そう書き直しておく。


10/22/2011/SAT

山口百恵トリビュート Thank You For・・・part2、SONY MUSIC DIRECT、2005

元気ですか、ヤマハミュージックコミュニケーションズ、2006

BEST WISHES、I WiSH, SME Records, 2006

mariko live~romance~、浜田真理子、インディーズ・メーカー、2005

本を読んでいると、その本のなかに出てきた別の作家や、引用されている別の本のことが気になり、次に読む本へとつながっていくことがある。一つの読書が次の読書を導く。この言葉は漫画『ガラスの仮面』にあった「一つの舞台が次の舞台への道を開く」からの借用。そういえばこの作品にも「硝子」という言葉が使われている。

私の読書はそんな風にして続いてきた。この夏、本はあまり読むことができなかったけれども、音楽はたくさん聴いた。言ってみれば濫読ならぬ濫聴の季節。そのあいだ、一つの音楽作品から違う音楽作品へ導かれることが何度かあった。本では何度も経験していた「つながり」を音楽で感じたのは初めてだった。

私の住んでいる自治体の図書館では一人一回に5つまで視聴覚資料を借りることができる。2枚組でも5枚組でも貸出資料としては一つとして数える。今は家族のカードを借りて毎週10件ずつCDを借りている。CDをパソコンに入れると、曲目だけは自動的にダウンロードされる。

そのあと曲目によみがなをつけたり、アートワークをネットで検索していると半日以上過ぎる。最近は、病院と図書館と録音と編集で週末がほとんど終わる。


閑話休題。音楽からつながった音楽の話。

図書館で借りるのは、70年代から80年代の音楽が多い。ポップス、アイドル、フュージョン、それからバッハの作品。オリジナル版だけではなく、コンピレーション・アルバムやトリビュート・アルバムもよく借りる。ここで知らなかったアーティストに出会うことがある。

この夏、川嶋あいと浜田真理子、二人の女性歌手とそんな風にして出会った。二人へのつながりになったのは、山口百恵と中島みゆき。

川嶋あいは、山口百恵へのトリビュート・アルバム『山口百恵トリビュート Thank You For・・・part2 』で知った。

川嶋あいは2000年代前半によく売れていたらしい。まったく知らなかった。「あの頃」は夜、絵本の読み聞かせに熱中してたから歌番組は見ていなかったのかもしれない。彼女の歌が卒業シーズンの定番ということも知らなかった。

もともと、このアルバムは原田知世の「パールカラーにゆれて」を聴きたくて借りてきたもの。この曲もよかった。原田知世はデビュー当時、お世辞にも歌が上手いとは言えなかった。いまでは、すこし乾いた感じの声をもった個性的な歌手に育ち活動の場を広げている。このアルバムでも、山口百恵の情熱的な歌い方とはすこし違う、でも原曲にもある異国情緒を残した雰囲気が出ている。

川嶋あいはI WiSH名義で「いい日旅立ち」を歌っている。彼女の歌声は私の好きなをしていた。

川嶋あいの「いい日旅立ち」も悪くはない。でも、オリジナル、すなわち18歳の山口百恵にはかなわない。


浜田真理子を教えてくれたのは、中島みゆきへのトリビュートアルバム『元気ですか』。このアルバムを借りたときは、小泉今日子が“語る”「元気ですか」が目当てだった。これは期待していたものとはすこし違っていた。オリジナルを意識しすぎたのか、あえて小泉今日子がカバーしている個性があまり感じられないような気がした。

他人の歌を歌うカバーという仕事は難しい。シンガーソングライターにしろ、誰かに書いてもらうにしろ、オリジナル作品は、その歌手の声や音域にあわせて作られている。対して別の人のために作られた曲を歌うカバーの場合、歌の上手下手がすぐにわかってしまう。まず、歌手として自分にあわせたものでもない歌をきちんと歌えないといけない。そのうえで、自分の個性を出しながら、カバーしている原曲と歌手へのいわゆるリスペクトも表現しなければならない

『元気ですか』で浜田真理子は、伴奏なしで「アザミ嬢のララバイ」を歌っている。そして、ほんの少しのピアノの音だけにあわせて静かに「世情」を歌っている。原曲とまったく違う編曲なのに、元の歌がもっている憂いや怒りの感情は消えていない。これは、ちょっとした驚きだった。

こうして、知らなかった女性シンガーを知り、I WiSH『BEST WISHES』と浜田真理子『mariko live~romance~』を図書館で見つけて借りてきた。

それから後、二つのアルバムは、ずっと私のポケットに入っている。


10/29/2011/SAT

野性の証明(1978)、森村誠一原作、佐藤純じ監督、角川映画、2011

青春のメモワール(1982)、薬師丸ひろ子、日本コロムビア、1995

金曜の夜、ミュージックステーションを見たあと、子どもは自分たちの部屋へ。Apple TVでYouTubeを開き、思いつくままにいくつか見る。

Kaki Kingが“David Letterman Show”で見せた驚異的な演奏。Stanley Jordanの両手弾きを初めて見たときも驚いたし、Michael Hedgesの曲を初めて聴いたときにも、どんな風に弾いているのか想像もできなかった。Kaki Kingの演奏を見たときの驚きは、彼ら二人を知ったときよりもさらに大きかった。

それから、ふと思いついて、松田聖子「天国のキッス」と「ガラスの林檎たち」をいくつか見る。『ザ・ベストテン』に出演したときの映像がないか、検索してみると、番組をそのまま録画したものは見つけられなかった。そのかわりに当時出演していた歌番組の映像を少しずつ集めたものが見つかった。

Apple TVではiTunesのアカウントを使ってネット経由で映画をレンタルすることができる。まず、このところ「うちのブーム」になっている『スター・ウォーズ』を検索するも、どうやらないらしい。次に、これもふと思いついて10代初めに見た記憶がある『野性の証明』を検索してみた。

なぜ、そのとき『野性の証明』を思いついたのか、自分でもわからない。しばらく前に『人間の証明』をテレビで一部分だけ見かけたからかもしれない。


『野性の証明』はテレビで見た。一度ではなかったと思う。町田義人が歌った主題歌「戦士のバラード」はよく聴いているから、映像が記憶に残っているのは繰り返し頭のなかで再生されていたせいかもしれない。冒頭、兵士が自らの腕の肉を食う場面と結末の場面はよく覚えていた。『八甲田山』で若い兵士が寒さに気がふれて服を脱ぎ捨てた場面だけを覚えていたように、断片的にくっきりと覚えている。見はじめると、音楽になじみがあることに気がついた。

サウンドトラックの担当は、大野雄二。1978年前後、大野雄二が音楽を担当した作品はよく見ている。『犬神家の一族』『ルパン三世 カリオストロの城』、テレビ作品『マリン・エクスプレス』。一つ一つの作品の記憶は切れ切れでも、「あの頃」見た作品としてまとめて記憶に残っているのは、「あの頃」聴いていた音楽が共通しているからだった。

音楽以外にも、私の記憶に強く残っている70年代の映画とのあいだに出演している俳優にも共通点がある。高倉健と三国連太郎は『八甲田山』に、大滝秀治は角川作品の横溝正史ものには欠かせない怪優。北村和夫は『太陽を盗んだ男』に出ていた。


『野性の証明』を見なおして気づいたことをいくつか。常備軍は外国から国民を守るという目的と同時に、裏の目的、あるいは、隠された真の目的として国家へ抵抗する国民を抹殺することにあるという指摘この点について『永久平和のために』を書いたカントは気づかず、時代としてはその前にいたルソーは見抜いていた。そして、秘密を知ってしまった者は闇から闇へと葬られる。

父と娘。実の父を殺した男を養父とする娘。殺した男の娘を引き取り育てる男。娘にあえて悲劇を思い出させ、憎しみをを受け入れる男。父を殺した男を人として憎み、しかし、父として求める娘。そして、目を閉じた娘をまさに十字架のように背負い、一人、勝ち目のない戦いに挑む父。

味沢は最後の場面の直前、それまで呼び捨てにしていた娘を「ちゃん」づけで呼ぶ。ここで彼は父であることを捨て、野性の戦士に戻った。しかし、また彼は父に戻る。

デビュー作だった薬師丸ひろ子は確かにかわいい。でも、記憶の奥底から思い出してみれば「あの頃」の十代半ばの女の子は皆ああいう雰囲気だった。おかっぱの髪型、デニムのオーバーオールにポシェット。同じ頃のテレビドラマ『池中玄太80キロ』に出ていた杉田かおるも、当時は似たような雰囲気をもっていた。そういえば、あのドラマも養父と娘の関係を描いたドラマだった。

薬師丸ひろ子にも味沢頼子にも会ったことはないけれど、あんな感じの少女、いや、少女から大人の女へ変わりつつあった人には見覚えがある。

最後の場面は、薬師丸ひろ子のアルバム『青春のメモワール』(コロムビア、1995)で聴くことができる。ずっと前に手に入れていたのに、気づいていなかった。

娘を失った父親の悲しみは、いったいどれほどの深さだろうか。私には想像することもできないし、もちろん、想像したくもない。

もし身近にそういう人がいたら、よく観察し、その気持ちと生き方を推し量ることはできるかもしれない。そういう努力も必要だろう。


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