さらば愛しきルパンよ、ルパン三世(新)――1977~1980放送分、脚本・演出・絵コンテ、照樹務(宮崎駿)

作画監督、北原健雄・丹内司、美術監督、龍池昇、東京ムービー新社制作


『天空の城ラピュタ』を購入してから、これまで見た宮崎駿作品をもう一度見たくなり、『未来少年コナン』のビデオを少しずつ借りて見ている。レンタル店では、宮崎駿コーナーがあり、『ルパン三世』シリーズのなかでも彼が脚本や演出を担当した作品が他の作品とは別に置かれていて目にとまった。

「さらば愛しきルパンよ」は、ルパン三世の第二期の最終回。ヒロインの小山田マキを演じるのは『カリオストロの城』のクラリスと同じ島本須美、音楽にも『カリオストロの城』の挿入曲、登場するロボットはラピュタと同じ。こうした具合で作品のすみずみまで宮崎駿の意向が行き届いている。言葉をかえれば、『ルパン三世』という作品は、宮崎駿によって完全に換骨堕胎され、登場人物の造詣や人間関係、作品世界の色付けまでまったく異なるものになっている。

『ルパン三世』は、もともと青年誌に連載されたマンガ。第一期では、エロ・グロ・ナンセンスが満載で、テレビが置かれた茶の間で家族と見るには気まずい場面もすくなくなかった。宮崎が脚本から担当している作品では、エログロ要素はほとんど抜き取られ、まったく違う雰囲気の作品になっている。

宮崎が作る「ルパン」の最大の特徴は、峰不二子にほとんど存在感がないこと。言葉をかえれば、峰不二子こそ、「ルパン」のエログロ的な一面の象徴。不二子が服を剥ぎ取られたり、色仕掛けで財宝を盗んだり、ルパンをだましたりという場面が第一期では多かったように記憶する。

ルパンと不二子の関係はいわゆる「オトナの関係」。また『ラピュタ』や『コナン』では、主人公の男女は少年少女どうし。ルパンは少年的な心をもっているけれども、少年ではない。そこでクラリスやマキのような少女を配役すると、不二子は脇においやられ、「おじさんと女の子」という関係になる。このあたりから好みがわかれていくに違いない。

そしてこの関係が、宮崎駿のルパン作品を他の宮崎作品と分け、また『ルパン三世』のなかでも、宮崎が関わった作品を特異にしている。さらにいえば、彼の作品全体に誤解を与えるほころびになっている。

借り物の服のために寸法が合わないところもあれば、三十分で一話完結という構成上の制約からなのか、構想が広い割には説明が不足し、展開がやや性急であるのは否めない。それでも、宮崎駿の思想が表現されているともいえるような印象的な場面も少なくない。

マキが操縦するロボットが街を荒らす場面。騒動の鎮圧には警察では手が足りず、軍が出動する。戦車は、一般人がいようとお構いなしに発砲をはじめ、自動車はつぎつぎとなぎ倒される。ときの政府が必要と認めれば、国民に対しても平気で銃口を向ける点にこそ、常備軍の恐ろしさがある。外国を攻撃する可能性は、常備軍の半面でしかない。

私の記憶では、銭形警部が戦車に向かって「お前ら、いったい誰のための軍隊なんだ」と叫んでいたけれども、どうやら思い込みが上書きしていたらしい。

余談。平和思想の基本書としていつもあげられるカント『永遠平和のために』では、常備軍が漸次的に廃止することが求められている。ただし、常備軍は隣国にとって脅威だからという理由しかカントは挙げていない。カントが永遠平和という着想を得たルソーは、同じように常備軍の廃止を平和の必須条件とみていたけれども、常備軍は隣国を攻撃するだけではなく、市民を鎖につなぐことになるという点を重視していた。

内側に向けた銃口の恐ろしさは、何年か前に見た映画『マーシャル・ロー』(1988)でも描かれていた。宮崎作品の面白さは筋書きや活劇だけではなく、こんな風にハッとさせてあとになってから考えさせる場面や台詞にもある。何度でも繰り返して見てしまうのはそういう理由もある。

『ルパン三世』をみると、つい時計をみる。『ルパン三世』を見ていたのは、いつも夕方5時半から。どこからともなく夕飯の匂いがしてくる。