土を掘る 烏兎の庭 第三部
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10.28.06

文芸時評という感想、荒川洋治、四月社、2005


荒川洋治の小林秀雄賞受賞作品ということで話題になっていた本。荒川洋治の本は好んで読むけれど、新しい小説や文芸雑誌はほとんど読まないので、興味をひく文章は少ないだろうと思って後回しにしていた。

読んでみると、案の定、知らない名前が多い。作家や作品の名前は気にせずに読み進めてみると、文学の世界全体に対する荒川の見方がよくわかってくるような気がした。12年にわたる長い連載なので、まとめて読んでみると、「文学が好き」というやわらかい表現から、「文学は実学」という挑発的な表現への移り変わりを感じ取ることができる。


作家や作品の名前を意識しないで読むことは、実は荒川の意図と重なる。ある作家のある作品に対して、手厳しく批判する一方、同じ作家の別の作品を高く評価してもいる。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がある。それにならうと、荒川は「文を憎んで人を憎まず」。作品の底にある安直さや、商売意識、自己顕示欲などが槍玉にあげられる。でも、人そのものが攻撃の対象になることはない。

「文学が好き」だから、それを営む人間を憎みきることはできない。文学をする人間を好きなだけでいると、気に入らない文学をする人そのものを憎むようになる。


ところで、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉は、最近ではあまり聞かない気がする。先日も、一審で決着したある死刑判決について、何が被告を罪に駆り立てたのかもっと時間をかけて検証したいと弁護人が話したところ、それを受けたテレビ・キャスターは、「罪じゃない、いまはこの人間を裁いているんだ」と声を荒げて返していた。

報道の先端にいる人の意識でも、「罪を憎んで人を憎まず」という精神は希薄になっている。これは、行き過ぎた個人主義の影響の一つだろうか。


荒川が眺めている文学の世界でも、成果も失敗も簡単に個人の資質に帰する見方がはびこっている。文学賞は、評価の場というよりも出版社の宣伝材料でしかなく、作家がますますタレント化している。つまり、何を書いたかよりも、誰が書いたか、それどころか誰が書いたことになっているか、が重要になっている。

文壇が自意識過剰になっていることと、法の精神が地に落ちていることは、実は表裏一体。人の奥底には、本人にもわからない何かがあるという見方が、そこでは欠落している。

作品は、意識的な作業の集合ではない。無意識のうちに作ってしまった部分もあれば偶然出来上がる部分もある。作家自身が気づかないでいて、読み手が発見する作品の価値もある。そうした、得体の知れない部分が見落とされ、理知的なものに最近の文学作品が傾いていることを荒川は強く懸念している。


私自身も、理知的な内容や、修練を積んだ技巧を好む傾向がある。文学の醍醐味はそればかりではないことをあらためて教えられて、新鮮な気持ちになった。

文学が実学とはどういうことか。娯楽や商売だけではない、人間にはなくてはならない何かを汲み取ることができる源泉。本書の文章やラジオでの発言から、そんな風に私は受け止めている。だから、文学は、学問のようには伝授することができない。どこまでもどこまでも個人的なもの。

文学はひとりの人間がひとりの人間を通して語るときに輝く。ゆたかさもまずしさも、あらわにすることだ。自分を示さなくては人にひびかない。これまでも、これからもそれしかないようにぼくは思う。(文学の「教科書問題」(5月)、文学という実学(2002))

荒川洋治には、これまでもたくさんいい作品や作家を教えてもらった。それはどれも、「ひとりの人間を通して語る」文章に教えてもらった。文学に対する使命感が強く出ている時評に教えられる本はなかった。


ひとりの人間のことば、そう書いている荒川洋治が文芸雑誌を巡回して記事を書き、文学賞を受け有名になり、さまざまなことについて発言を求められる。過労はもとより、過剰な使命感から、「ひとりの人間」を通して語ることを忘れないか、すこし心配になる。賞をとったことよりも時評の連載が終わったことが、詩人にとっても読者にとっても、いいことだったと言えるかもしれない。

本書を読んで驚いたのは、ラジオの語調とだいぶ違うこと。たとえば、ラジオでは文学賞は話題にもなり、入口にもなると肯定的に話していたけれど、文学内部に向けた本書では、かなり厳しい批判を加えている。そういうバランス感覚こそが、「実学」として文学を読んできた者の持ち味なのだろう。



uto_midoriXyahoo.co.jp