烏兎の庭 第一部
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7.3.03

ジョルジュ・ルオー――未完の旅路、松下電工NAISミュージアム、東京・汐留

ジョルジュ・ルオー――未完の旅路、柳宗玄ほか解説、日経BP企画、増子美穂編、日経BP企画、2002


ルオーの名前は、ずっと前から知っていたはず。けれども今では一年以上前にルオーをどんな風に感じていたのか、思い出すことができない。ルオーを見直すきっかけになったのは「小林秀雄展」。小林所蔵の版画、絵皿などが展示されていた。「ミセレーレ」「台所のキリスト」が印象に残る。その後、ブリジストン美術館所蔵版画の画集を図書館で借りた。

森有正もルオーに魅せられた一人。バッハと同じように最高の賛辞をおくっている。今度の展覧会を知る前、ちょうど「ルオーについて」(『森有正エッセー集成3』、ちくま学芸文庫、1999)を読んでいた。そして展覧会を知ったのは、新聞のテレビ欄。テレビで特集されるのは、展覧会が行われているから。日曜の晩、めずらしくテレビをつけ場所と最終日を確認しておいた。

こんな風に、今回の展覧会は見に行く前から思い入れだけでなく、情報という点でも入力過剰になっていた。ルオーはただの画家ではなく、「私のルオー」ではさらになかった。「小林秀雄のルオー」であり「森有正のルオー」であり、またテレビで見たルオーでもあった。私なりの見方を見つけられるだろうか。

不安と期待が入り混じる気持ちのまま、時間をつくることもできず、展覧会も終わりに近づいている。意を決して、仕事を切り上げ、出かけることにした。


展覧会に行くのは楽しみであり、それでいて毎回、少し怖い。見たところで、何も感じないのではないかと恐れるから。見始めると何か感じる。でも何か違う。今、感じていることは、みんな嘘っぱちではないか、上滑りした賛辞ではないか、感想のための感想ではないか、あとで何か書くために無理して言葉を思いついていないか。静かな美術館のなかで、胸の中は騒がしい。

今回の展覧会でも同じ。見始めると、いつものように落ち着かない。美術館の内装や、ほかの観覧者がささやく声が気になる。テレビで大写しになっていた「裁判官たち」ばかりに目が向く。ともかく一回りして元へ戻る。まずは単純に自分が好きな絵を見直すことにする。


好きな絵は、“Miserere”と題された版画集、そして厚く油彩絵具を塗った風景画。風景画は、単に“Paysage”と題されたものもあれば、「聖書の風景」、“Paysage biblique”と題されたもの、「人物のいる風景」(“Paysage animé”)などがある。いずれの絵も小さなキャンバスに空と大地と人物が厚く塗り重ねられている。惹かれるのは、「夕べの星」(“Stella Vesperpina”)。夕暮れに上る白い光。まっすぐに続く道を背景に、青白い光を受けたキリストと二人の人物がたたずんでいる。

近づいてみると、まったく空や人物にみえない。ただの太い絵筆の塗りあとでしかない。不思議なことに、一歩ずつ後ずさりすると二メートルほど離れたある場所で、突然絵がきちんと風景画に見えてくる。印刷された幾何学的な模様から眼を離していく途中で立体画像が浮かび上がる絵本がある。同じように、意味がないようにみえる厚ぼったい色彩が、肩を寄り添った人物に見えてくる。


これは、何だろう。感覚が発酵して経験となる寓意だろうか。それはおそらく読み込みすぎだろう。ともかく、数ある展示品のなかで風景画が好きな理由は、この色彩から風景への変化にあることに気づいた。

一度、展示室を出て、出口の近くで販売されている画集を開く。実物の絵とはだいぶ違う。立体感がまるでない。その代わり印刷は近くでしか見分けられない絵筆の押し付けられた痕跡と、やや離れたところで浮かび上がる風景がまったく同時に平面の世界に焼き付けられている。押し花が本物の花とは似ても似つかぬ姿になっても、元の花の色と形をあざやかに残しているのと同じかもしれない。印刷には印刷だけが生み出す世界がある。

実物の絵がもつ立体感をもう一度確かめようと展示室へ戻る。出口の横にある彩色版画集『受難』の一枚、「出合い」に立ち止まる。一筋に続く道の手前で、キリストが二人の人物に話しかけている。話しかけていることは、首をかしげ、身体を傾けている姿勢でわかる。この構図は、「夕べの星」と同じ。この身体の傾け方、首のかしげ方、それも似ている。どういうことだろう。


風景画が並んだ場所へ戻る。一枚一枚見直してみる。絵具が人物に見えるのは、偶然ではない。身体の傾斜、首のひねり、目鼻の陰影、そして衣服のふくらみ。「出合い」では、周到な素描の上に太い線で人物が枠取られている。風景画では、何のためらいもなく塗りつけられた青や白の塊で、それが聖人と理解させられる。

ここに、ルオーの職人技と芸術の極点がある。いや、そう感じ取る、私だけの見方がある、と言える。この展覧会に来てよかった、ようやくそう思われてくる。

前にバッハのオルガン曲を聴きながらルオーの画集を眺めたことがあった。そのとき「緻密なバッハを聞きながら、素朴なルオーを見ると、何となく、バッハのなかの荒々しいもの、ルオーのなかの計算されたものがにじみ出てくるような気がする。まったく気のせいかもしれないが。」と書き残した。

それは、気のせいなどではなかった。バッハのフーガや対位法が人間の聴覚能力を十二分に引き出して、多彩な音楽世界を創り出しているように、ルオーの技法は視覚効果を緻密に考慮している。素朴なスタイルに隠された高度な技術が、感動をもたらしている。

ただ、私の思いが至らなかったのは、それを計算と表現したこと。それは計算などではない。何十年もかけて、同じ主題を繰りかえし、素描し、版画にして、身につけた芸術家の修練の賜物。


画集とともに絵葉書を数枚買い、美術館をあとにする。新しく復元された鉄道発祥の駅を見る。何となく気分がいい。でも明日には、また打ちのめされる気がする。これほど素晴らしい絵を見て、自分なりの見方まで見つけたのに、もう明日の仕事のことが不安でならないのは情けない限り。

ともかく見た。何を書こうか、どう書こうか、帰り道に考えることにしよう、明日のことはなるべく考えないように。


さくいん:ジョルジュ・ルオー小林秀雄森有正



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