極刑は仇討ちになるか


死刑判決が相次いでいる。凶悪な犯罪が起こると必ず、刑の厳罰化を望む声、と称した意見が新聞、雑誌に現れる。なかには仇討ちを認めるべきだという意見もある。そうした意見は、たいてい被害者意識に考慮してという前置きがつく。実際、犯罪の被害者遺族がそうした意見を述べることもある。

仮に復讐を求めていると、遺族自身が信じているとして、復讐が果たされたとき、例えば死刑が執行されたとき、遺族の悲しみはいくらかでも癒されるのだろうか。まったくの想像に過ぎないが、私には、その時かえって、もう憎む相手もいなくった虚脱感や、それでも被害者は戻ってはこない無力感のほうが強まるような気がする。

仇討ちという制度が、かつてあったらしい。そうした時代、制度としてどれほど機能していたのかはわからない。過去はともかく、現代社会では仇討ちは心情的に賛同されてたとしても、制度化するのは難しいだろう。

明白な殺人、意図的な殺人、あるいは通り魔のような被害者にまったく落ち度のない無差別殺人。このように、加害者がはっきりしていて、責任も明白に見えるような場合ですら、犯行当時の精神状況などから十分に責任が問えない場合が現実には少なくない。

もっとわかりづらいのは、故意の犯罪ではなく過失であった場合や、加害者が複数や組織である場合。さらには、社会全体が加害者であるような場合。こうした場合に、仇討ちの相手を法的に確定することはほとんど不可能。ハードボイルド小説のように、関わった人々を次々消していくというのは、あまりに非現実的。

いったいどのように仇討ちが認められる場合とそうでない場合を裁定するのか。ある場合だけ仇討ちを認め、認定が難しい場合には認めないとなると、法の下の平等の原則に反するのではないか。仇討ちといっても、結局、内容は現行の極刑となる。執行人が法務省になるか、被害者遺族になるかの違いでしかない。

仇討ちを認める、とはどういうことか。人を殺す権利を、国家制度に保障してもらうということではないか。それは、どういう考えだろう。何人も人を殺す権利は持たない。この原則を貫かなければ、生存権、法の下の平等といった基本的人権にもとづく近代的な国家制度、法制度は成り立たない。

ただし、それは国家や法律が、情念までも押さえ込むことができるという意味ではない。むしろ、法によって保障されないからこそ、情念は、知性ではどうにもならないときの、最後の最後のよりどころとなるのではないだろうか。法によって守られる恨みなど、たいした恨みではない。ほんとうの憎しみは、法を破る危険をいとわないはず。

法を犯してまでの仇討ちを奨励するつもりは、もちろんない。それどころか、まったく無益だと、言葉のうえでは私も思っている。そう思い続けるために、言葉、すなわち法律によって、情念を抑えているつもりにならなければいけないような気がする。被害者遺族が求めているのは、救済であって、復讐ではないと信じているから。

救済というと宗教的な響きがあるかもしれないが、必ずしも宗教的な意味を指しているわけではない。過酷な出来事があったとしても、「それでも生きてよかった」と思えること、それでも生き残ってしまった自分を受け入れなおすこと。苦あれば楽あり、といった因果応報的な納得ではなく、もちろん、無邪気な全肯定ではないにしても、過ぎてきた時間のすべてを承諾すること。

言葉の外に情念があるのではない、言葉の内側に情念がある。そう思うとき、はじめて情念は言葉の外に出られる。けれども、はみ出そうとするその情念を鎮めることができるのも、やはり言葉ではないだろうか。言葉というのは、何も言語というわけではない。人間による表現、人間による意思疎通ということ。


碧岡烏兎