異文化コミュニケーション


語学学校の宣伝などでよく聞く「異文化コミュニケーション」には、以前から何か違和感がある。理由は、異文化とコミュニケーションは、実は同じことを言っているに過ぎないと思われるから。文化とは本来、異なるものの集合であり、コミュニケーションとは、異なる存在との間に起こる交渉ではないだろうか。

差異のない、同質のものの間で起こる交渉は、コミュニケーションではない。それは認識というもの。つまり、異文化コミュニーションとはトートロジーであり、トートロジーによって、今述べた二つの重要な点が見えにくくなっているように思われてならない。


文化は、同質の存在だけで構成されているわけではない。また、単数でもない。文化は、無数の異質な要素が集積して形成されている。そして、それら構成要素に共通する性質によって、文化に対する名称がつけられる。例えば、日本文化という具体的な存在があるわけではない。日本の言葉、日本の建築、日本の料理、日本の舞踊、日本の絵画、日本の精神などなど、果てしなく続く構成要素が集まって日本文化はできあがっている。日本人、日本のサラリーマン、日本の学生なども日本文化の構成要素。

同様に、フランス文化、中国文化には、それぞれの言語、建築、料理などなどから、国民、企業人、学生などなどまでが含まれる。突き詰めて考えると、言語、建築、料理、国民、企業人、学生などの要素も、単数ではないし、それぞれ同質でもない。

共通する要素でつけられる名称を、そのまま逆転させて名称を要素に、要素を共通する名称にすることもできる。料理を共通する名称とすれば、フランス料理、日本料理、サラリーマンを名称とすれば、日本のサラリーマン、中国のサラリーマン、などの概念を思い浮かべることができる。

つまり、総当りの対戦表のように、文化の要素は互いに共通する横串となったり、構成する要素になったりすることができる。このようにして、例えば日本を横串とすれば、サラリーマン、学生、女性、などが構成要素になるが、サラリーマンを共通項とすれば、日本や中国、フランスのサラリーマンが共通性ある存在として認識される。


こうした概念操作をした上で経験に照らし合わせて見れば、日本文化の内部よりも、日本文化とフランス文化に含まれる個別要素の間により共通性がある場合も少なくないことがわかる。

例えば、日本のサラリーマンと日本の社長との間や、日本の会社員と日本のフリーターの間にある共通点より、日本のサラリーマンと中国のサラリーマンとの間、日本の農家と中国の農家との間にある共通点のほうが多い。多国籍企業で働いている各地の支社員を想像すれば、組織、業務、規則、目標など、国家の中より企業のような私的な集団のなかに、より共通点をもって暮らしている人々がいることもわかってくる。

ところが、実生活においては、どうしても国単位の文化を横串として理解する習慣からぬけられない。異文化コミュニケーションと言うと、つい異文化間の交流だと思い込んでしまうから。つまり、日本文化やフランス文化の間になされる情報交換、意思疎通と思い込んでしまう。この思い込みが、日本文化のなかにある異なる要素を見えにくくする。


国家の横串を強調しすぎると、本来、異文化である諸要素を似文化、さらには唯一の自文化と思うことになりかねない。自文化という同質意識をもったとき、内部にさまざまな差異をもつ構成要素が無数に存在することは隠蔽され、コミュニケーションは認識に取って代わり強制される。強制に逆らう要素と認識の間には軋轢が生れる。

また、異文化という言葉から似文化、あるいは自文化を固定した存在として認識してしまうと、コミュニケーションという行為を静的な状態として理解してしまう危険がある。つまり、異なった「もの」が並存すると思ってしまうと、それらの「もの」の間には関係性が自然に発生するように感じられる。そのため関係性は、実体的に意識される。

しかし、日本文化も多様な要素の集合体であり、これまた多様な要素の集合体であるフランス文化は、先に書いたように総当りの対戦表のように要素ごとに関連性がある。さらに各要素も実在するのではなく、それぞれに多様で複数であるのだから、ほんとうに実在するのは、この関連性だけ。この関連性は、強制によってではなく自覚的に認識してはじめて、縦横無尽にはりめぐらされていることが理解される。

そのように考えると、コミュニーションとは、異質な存在に対する問いかけであり、理解しよう、されようとするはたらきかけであることがわかってくる。コミュニケーションは「行為」であって、「状態」ではない。


碧岡烏兎