土を掘る 烏兎の庭 第三部
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12.27.08

二十世紀、海野弘、文藝春秋、2007


二十世紀

1970年代とは、どんな時代だったのか。6年前に文章を書きはじめてから、次第にこの問いが私にとって、とても重みのある問題であることがわかってきた。

はじめのうちこそ無意識のうちに避けていたのに、いつの間にか、むかしのことばかり書いている。70年代に聴いた音楽や見た映画、テレビ番組について書くことが少しずつ増えてきた。

1970年代とは何だったのか、そんな大げさな問いにすぐに答えることはできない。その前に、なぜ、70年代とは何だったのか、という問題が私にとって重みがあるのか、なぜ、その問いにこだわるのか、そのことを自分自身に対して明らかにしておく必要がある。

その答えは、もうわかっている。わかっているのに、そのことについてはほとんど何も書けないでいる。だから、音楽とか映画とか、70年代の私を囲んでいたものについて書くことでお茶を濁している。

でも、急ぐことはない。70年代とは私にとってどんな時代だったのか、それを書く前に70年代はどういう時代だったと考えられているか、ほかの人たちの意見や回想を読んでみることも無意味ではないだろう。


海野弘『二十世紀』を読んだのは、今年の1月のこと。何か感想を残そうと思いながら夏が過ぎ、秋になっている。それは、いきなり「70年代とは何だったのか」と大げさな問いかけを掲げて身構えていたから。いまはあまり大上段に構えず、70年代について考える前に、まずは70年代、80年代と時代を区切って考えることの意味について考えてみたらどうだろう。本書の感想を書きあぐねているうちに、そう考えるようになった。

海野弘の本は、通史ではない。また政治やファッション、音楽など特定の分野に的を絞った二十世紀史でもない。彼のほかの本と同様に、彼自身が興味をもつことについて気の向くままに調べ、考え、書きつづっている。

だから、この本に通史や二十世紀の意味づけを求める人は読んでも失望するだろう。話題は、政治経済から音楽、ファッション、犯罪までさまざま。内容も、歴史に残るような大事件から雑誌の隅に書かれたまま消えていったゴシップやスキャンダルまでとりどり。

こういう本は、はじめから順序よく読むより、こちらも気の向くまま、目次の小見出しに誘われるままに拾い読みしていくと楽しい。そうしているうちに、いつの間にか、全部読み終わっている。海野の本は、いつもそんな風に読んでいる。


本書は、20世紀を10年ごとに区切り、それぞれの10年、“decade”を単位として時代を眺める。とはいえ、海野は10年間の区切りに必ずしも執着しているわけではない。50年代のなかで60年代を先取りしているもの、60年代になってからも残像や残り香のように残っている60年代の痕跡についても、海野は目を配る。

時代はある時にがらりと変わるものではない。大きな事件がきっかけになることはあるにしても、そこはまだ出発点であり、時代はそこから徐々に色を変えていく。あとになって時代を変えたと思うような大きな事件にも、その前にはそれを引き起こす何かが歴史の表面では見えないところで起きている。

時代が変わりはじめるといっても、変わっていく速さや姿は一様ではない。変わらずにいるものもあれば、ゆっくりと変わっていくものもある。変わっていくことへの態度も、いち早く飛び乗ろうとするのか、気づかぬうちに流されているのか、あるいは変わりそびれているのか、変わることに逆らっているのか、これまた一様ではない。その受け止め方も、年齢や場所によっても異なるだろう。大都会で流行を生み出すような仕事をしている人と都会から離れた郊外や田舎の子どもでは時代の移り変わりに対する感覚はずいぶんと違うはず。


当たり前のようにみえることをあえて書き出してみたのは、70年代という時代は、とくにいま書いたような、時代の移り変わりに対する人びとの態度の違いが、顕著に現われているように思われるから。

言葉を換えれば、70年代にあっては、時代の変化そのものよりも、時代の変化がどう受け止められたかということが重要であるように思う。

実際、70年代に起きた変化そのものは、前の60年代や後の80年代と比べると大きいわけではない。海野の解説でも、70年代は「退屈な時代」とも、人が自分が属する世界ばかりを気にする「ミーイズム」「ナルシシズムの時代」とも言われている。

大きな出来事や流れがなかった分だけ、人びとは時代に翻弄されることなく、時代の流れのなかに生きている自分の姿をどうにかして確かめようとしていたのかもしれない。大きな流れに誰もが翻弄されるような時代には「ミーイズム」や「ナルシシズム」が時代の精神になることはないだろう。

60年代は「政治の季節」と言われる。80年代はとくに日本では、経済繁栄を謳歌した「成長の時代」だった。70年代はそのあいだに挟まれている。つまり、一方で徐々に衰退していく政治があり、他方では成長するために助走をはじめた経済があった。

そのことを人びとはどれだけ自覚していただろう。時代のさなかにいるときには、何が終わろうとしていて、何がはじまろうとしているのか、感じ取ることは難しい

ある人は、そうと気づかず時代の新しい流れに乗り移り、格好良く70年代をすり抜け、しなやかに80年代へ滑り込んで行った。ある人は、消えていくものとは知らず60年代の流れにしがみつこうとし、いつの間にか時代から取り残されていった。

何が新しい流れで、何が古い流れだったのか、ここでは具体的には書かないでおく。抽象的な書き方にとどめておくことにする。

そして、取り残された人びとがどうなったということについても、いまはまだ書かない。実際、何を書いたらいいのかもまだわからない。


さくいん:海野弘60年代70年代80年代



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